
神社紹介
神社名 | 六所神社下宮 |
鎮座地 | 愛知県豊田市上坂町地蔵堂二十三番地 |
御祭神 | 猿田彦命、事勝国勝長狭神、岐神 天照大御神、倉稲魂命、日本武尊 |
旧社格 | 県社 |
創 建 | 永和三年/天授三年(1377年)八月十九日 |
神名帳 | ー |
境内社 | 秋葉社(祭神:加具土命) |
例祭日 | 九月二十三日 |
御朱印 | 〇 |
H P | ー |
参拝日:2021年2月24日
御由緒
永和三年(1377年)にそれまで「吉木山」「蜂ケ峰山」と呼ばれていた山の山頂に松平親氏が塩竈六所大明神(現:塩竈神社)より六柱の御祭神を勧請、創建したのが六所神社上宮になります。
山頂に社殿が鎮座する神社あるあるで、氏子の方達が少しでも参拝しやすいようにと、集落近くに遥拝所を設ける様になっていきます。そしてその遥拝所がさらに発展し、本殿に祀られている御祭神の分霊を遥拝所の場所に祀る様になる下宮が建立されていきます。
六所神社の詳しい由緒については、六所神社上宮の紹介記事の中で書かせて頂いたので、そちらを参考して頂くという形で、こちらは簡単な説明だけにしておこうかと思います。
松平家初代親氏が勧請・創建した神社であるという事から、松平家の氏神として松平家一族から崇敬を集めていた神社になるようです。安祥松平家二代長親は六所神社に社領地の寄進を行い、大永七年(1527年)十二月には火災により社殿を焼失した六所神社の再建についての出資を松平一門にお願いするなど、松平家の惣領として六所神社に対し崇敬していたようです。
徳川家康の代になると、岡崎城から南西に鎮座していた六所神社に、六所山の六所神社から三柱の御祭神を遷座・合祀を行ったといいます。これにより、岡崎市に鎮座する六所神社は松平家の氏神を祀る神社という事になり、徳川家光が権現造の社殿造営を行う事に繋がっていく事になります。
江戸時代を通じて、松平家宗家筋である松平郷を治める松平太郎左衛門家と松平郷の隣大給を本貫としていた大給松平氏により維持管理が行われていたようです。
社伝に永和三年(1377年)八月十九日新田親氏奥州一之宮塩竈神社より勧請。山上に社殿を建立したという。親氏より五代目長親の時宮口村全部を社領に寄進する。徳川氏も信仰厚かったが、地方住民の崇敬厚く、祭礼には領主参拝を常例とし社殿の造営は領主の寄進によって代々行われた。
家康岡崎城にあって社参不便につき明大寺町に祀ることとなり六座の内三座を分った。家康二十石を朱印する。
明治六年三月郷社に列せられ六所神社と改称。大正五年二月十九日、字二口の村社神明社並びに境内社の稲荷社を本社に合祀する。大正九年工費一万五千円にて幣殿、拝殿を改築し、山林五十一町四反三畝十八歩の御料林を一万五千円にて払下げを受けた。大正十一年九月二十六日内務大臣県社に列する指令あり十月十三日盛大に奉告祭を行った。昭和六十年十一月二十三日、三笠宮寛仁殿下同妃信子殿下参拝玉串料を奉納「湯立の松」を植える。同六十一年九月二十日、下宮本殿を修復す。
愛知県神社庁発刊「愛知県神社名鑑」より
参拝記
六所神社下宮は豊田市総合野外センターに通じる県道360号線沿いに鎮座しています。この六所神社下宮と県道を挟んだ反対側に、豊田市指定文化財となっている舞台小屋が建っています。





豊田市指定第二十七号
六所神社の舞台
民族有形文化財
この舞台は、明治五年に建てられ、明治中期以前の二重仕掛け(梁の一部がきれていて、舞台の一部が登場者などをのせて上下する仕掛け)の古式をよくとどめている。とくに舞台開口十二.六米を一本の通し梁の巨木(90cm×60cm)で支え、また茅葺屋根を支持するため、合掌の用材の中間に梁を組んでいる。舞台の材料は六所山の大木を使用し、用材はスギ・ヒノキ・クリ・モミなどである。
山から搬出は、近隣の氏子が多数出て、岩角に突き当たって動かなくなると、岩角を削っておろしたと言われている。
豊田市教育委員会
岡崎市でも地区の舞台小屋が文化財として保存されている所が何ヶ所かありますが、今の様にテレビ・ラジオ・インターネットなど外部との情報がリアルタイムでやり取りできない時代の娯楽としてこういった舞台小屋は必需品だったんでしょうね。
六所神社下宮の境内に鳥居が据えられていません。下宮から県道を北西に道なりに400mほど進んだ場所に六所神社一の鳥居と呼ばれる明神鳥居が据えられている場所があります。昔は、この鳥居から六所山山頂の上宮にむけて参道が伸び、その参道脇に遥拝所として下宮が作られた為、下宮の境内には鳥居が無いのかも?
六所神社一の鳥居

この六所神社一の鳥居の脇に、郷社と併記された社号標と県社と併記された社号標が並んで立っています。三河三霊山の一つ六所山を境内地にしているのが県社となった大きな要因かな。
六所山石碑

下宮境内に据えられている石碑なんですが、最初これが社号標かとほぼ疑うことなくそう思っていたんですが、ふとよく見たら「六所山」と彫ってあることに気付いて、社号標じゃない事がわかったわけです。六所神社は六所山と一体であることがよくわかりますね。
手水舎・水盤

境内脇になんか仮置きされたような感じもする水盤になります。その横の御神木との間に基礎石が置かれていますが、行動を見るとそんなに古そうな基礎石ではないので、何が建っていたのかな。
狛犬

昭和二年生まれのこま犬一対です。昭和初期に生れた狛犬は毛並みを表すと思われる模様が刻まれている個体が多い感じがします。
社殿

入母屋造瓦葺平入の唐破風が設けられている拝殿を有する社殿になります。拝殿とその奥の祭殿とは繋がっていない造りになっています。その祭殿の前には

延宝六年(1679年)に奉納された石灯篭が一対建っています。

拝殿に掲げられていた額には、大正十一年に三菱名古屋航空機製作所に発注された艦載戦闘機十機と艦載偵察機十機を航空母艦「鳳翔」の航空部隊が受け取り、八日市から横須賀まで飛んでいったと書いてあり、これが海軍航空隊設立以来最長の飛行距離だったとして、産命の神である六所神社にイスパノシーザー230hpという発動機の推退器を一基奉納したと書いてあります。
この中に出てくる艦載戦闘機と艦載偵察機というのは、一〇式艦上戦闘機と一〇式艦上偵察機の事を指しています。この両機とも世界初となる航空母艦として設計され竣工した「鳳翔」と同時に開発された大日本帝国海軍初の艦載機になります。この航空機にはHispano-Suiza社のHS-8Fエンジンを三菱で国産化(ライセンス生産?)した「ヒ式三〇〇馬力発動機」が使われていて、この推退機(ピストンもしくはクランクシャフトかな?)が奉納されたという事らしいです。

島国である宿命である日本・イギリスそして圧倒的な工業力を誇っていたアメリカくらいしか戦争における空母打撃郡の運用を行ったことが無いと言っても過言じゃないわけです。この三国は多大な犠牲を払いながら艦載機の開発、運用、航空母艦の改修・新規設計を行って第二次世界大戦に突入していく事になります。この大日本帝国海軍における航空機運用の黎明期の担った航空機がこの一〇式艦載戦闘機と一〇式艦載偵察機になるわけです。この時代からの連綿とつながる運用ノウハウが零式艦載戦闘機の開発へと繋がっていきます。
境内社

瑞垣の中、本殿と並んで鎮座する境内社の秋葉社になります。
愛知県神社名鑑を見ると、下宮の境内社は秋葉社一社となっているのですが、村内に鎮座していたんだろうと思う祠が六所神社に四社程集められていました。

地蔵院

六所神社の裏手に現在は無住の寺院となっている「芳樹山宝光寺地蔵院」が建っています。この寺院が、六所神社上宮の案内記事の中で神宮寺跡を紹介していますが神宮寺である「宝生院」の後代となっている寺院になります。この堂内に神仏習合期の六所神社の本地仏が奉安されている・・・かもしれませんね。
この地蔵院の本堂の裏手には・・・

なんと、防空壕跡があります。現在入口は崩れ落ちており中に入る事はできないのでよくわからないのですが、この中には空洞が広がっているのでしょうか。
こうした山間部にも防空壕って作られていたんだなーって思ったんですが、そういえば六所神社から直線で2km程の場所に太平洋戦争中にB-29が墜落しています。何時爆弾を落とすか解らない爆撃機が上空を飛んでると思うと防空壕ひとつじゃなりないですよねえ。
地図で鎮座地を確認
神社名 | 六所神社下宮 |
鎮座地 | 愛知県豊田市上坂町地蔵堂二十三番地 |
最寄駅 | 松平東照宮そだめ線「東宮口下バス停」徒歩三分 |
ご自宅にお札は祀られていますか?
実家には神棚はあっても、今お住いの所には神棚がない方も多いかと思います。神棚には、日本の氏神である"天照大御神"とご自身がお住いの氏神様のお札を掲げると御神徳が宿るとされています。
賃貸住宅などに住まわれて簡単に神棚を掲げられないという方もお勧めなのが、
南向き、もしくは東向きになる様に、そして目線の高さより上になる様に、棚などの上において頂くとよいかと思います。是非、皆様もご自宅に神棚をご用意いただき、御札を納めてほしいなと思います。
神社誌作成プロジェクト
