豊田市

古六所神社(愛知県豊田市坂上町)

2021年3月6日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

神社紹介

神社名古六所神社
鎮座地愛知県豊田市坂上町阿知田地内
御祭神塩竈明神
旧社格
創 建永和三年/天授三年(1377年)八月十九日以前
神名帳
境内社
例祭日九月二十二日
御朱印
H P

参拝日:2021年3月3日

御由緒

 古六所神社という社名が示すように、六所山鎮座の六所神社が創建される前に創建された神社になります。松平親氏が陸奥国塩竈六所大明神より御祭神を勧請した際、この地に仮本殿を建て奉斎した場所であるとも言われているようです。その後六所神社が造営されて御祭神は遷座した。 

 古六所神社の鳥居脇に豊田市によって設置された由緒板があり、これによると後に松平親氏が開山に関わる簗山円照庵三世無染融了が塩竈大明神に出会い、「守護神となるので常住の地を選べ。」と言われ、創建したのがこの古六所神社であり、その後六所大明神を勧請して六所山山頂に六所神社を創建ししたとあります。

 この由緒を読んだままに理解すると、塩竈明神と六所大明神は同じ塩竈神社の御祭神なんだと思うのですが別表記としている所を見ると別々の神ととらえられていたのかもしれませんね。

 松平親氏は簗山円照庵三世無染融了に深く帰依し円照庵に寄進し無染融了を開山として妙昌寺と改称させています。そして、境内には松平親氏の供養塔と伝わる宝篋印塔があります。

 古六所神社の由緒もあり、松平親氏と妙昌寺の無染の繋がりがかなり深かったんだろうなと感じる訳ですが、浄土宗に帰依していたはずの親氏ですが、領主という立場もあり曹洞宗にも寄進を行っていたということでしょうか。

古六所神社

 簗山円照庵(後の妙昌寺)住職無染がある日山で老人と出会い「何人なるか」と問うたところ、「我が奥州塩竈明神なり。我が氏子がこの近隣に在住する故、その守護のために出現せり。我が常住の地を選ぶべし。」と言い残し消えた。
 無染は、驚き松平親氏に相談し古社の地に奥州塩竈明神を勧請した。
 後に、松平親氏が霊山蜂ヶ峰に六体の地蔵尊を勧請し安置して、六所大明神を勧請したと伝説がある。(妙昌寺古記集より)
 現在でも六所神社の大祭の前夜にお祭りを実施し六所神社との繋がりを深めている。

豊田市

参拝記

 古六所神社は山の中に社が鎮座している神社になり、そこまでは山道を進んでいく必要があります。当然山林は民有地でもあるため、決められた道以外は進まないことが大切です。特に最近はいたるところに獣除けの電線が張り巡らされているので、寄り道をして電線をショートさせてブレーカを落とさない様に気を付ける必要もあります。

 車で向かう場合は、少し離れますが古美山園地の駐車場に車を止めて、古六所神社方面の山道を進んでいきます。上記ストリートビューでは、もう一つの古六所神社に向かう道標が道脇に据えられている場所になります。自分は田んぼの脇にバイクを止めてこちら側から古六所神社に向かいました。

 さて、山道を進んでいくのですが、かなり地元の方々によって整備されていて非常にある生きやすく、さくさくと進むことができます。数分進んでいくと、何やら標識が出てきてその先に墓石がある場所が出てきます。

大給松平家四代「松平親乗」墓所

 大給城を居城としていた十八松平にも名前があげられる大給松平家の四代「松平親乗」の墓所が古六所神社の鎮座地ちかくにあります。どういった経緯でここに親乗の墓所があるのか・・・・松平村史を見てもここに親乗の墓があるくらいしか書いていないですし、Google先生に尋ねてみても、自分と同じように古六所神社参拝の際にここに墓所があったという情報しか見当たらないので、ここを墓所とした理由ははっきりしないのかもしれません。

松平親乗伝

 大給松平家三代松平乗勝の嫡子として永正十二年(1515年)に大給城にて生誕。室は桜井松平家の松平信定の娘。

享禄三年(1530年) 松平清康の宇利城攻めに参戦(初陣か?)
天文四年(1535年) 松平清康、森山崩れにて死す。
ー以降、舅松平信定の関係か、松平一族の中でも親織田派となる。ー
天文二一年(1552年) 東条松平家松平忠茂が大給城を攻める。
弘治二年(1556年) 一月:滝脇松平家と戦い、松平正乗を討取る。
二月:日近合戦において奥平貞能に与する。
三月:滝脇城を攻め、松平乗清・乗遠親子をを討取る。
ーこの頃、今川義元による三河統治により今川家臣従ー
天正三年(1575年) 滝脇松平家松平乗高の大給城夜襲により落城し親乗は尾張に逃げ落ちる。
天正五年(1577年) 松平親乗死去

 桜井松平家と同じく、基本的に親織田家、反今川家の立場を取った松平親乗ですが、安祥松平家五代松平広忠が死去し、三河国が今川義元による統治へと変わっていく中でも態度が変わらなかった為か、同じ松平一族と戦う事が多かったようで、特に大給とは非常に近い滝脇を本貫とした滝脇松平家とは何度も武力衝突をしています。そして徳川家康の時代の天正三年(1575年)ですから長篠の合戦が起きた年に松平乗高により大給城は落城、親乗は一説では尾張に逃げ落ちたと伝えられています。
 尾張国から戻ってきた親乗は大給城からほど近いこの場所で大給城に戻れる日を願いながら過ごしていたのかもしれませんね。

 思わぬところで全く想定していない歴史の出会いがあって、大給松平家と滝脇松平家の記事もかかねばと考えながら、山道を進んでいきます。写真を撮り忘れてしましましたが、途中古六所神社への案内看板があります。てっきり山の山頂に古六所神社があると思っていたので、看板の所で二手に分かれていて一方はのぼり道、もう一方はくだり道・・・実は古六所神社は看板の所から山を下った所に社が鎮座しているので下り道方面に進むのが正解なんですが、もし看板を見落としていたら、自分は当たり前の様にのぼり道を進んでいたでしょうね。

 山を下っていくと、その先に、鳥居が据えられている社が見えてきます。どうやらここが古六所神社の境内地になるようです。

 木の根によってうねっている様にみえる石段を上った先に社が鎮座しています。この境内には巨石が何個もあり、巨石に守られているかのように見えます。

地図で鎮座地を確認

神社名古六所神社
鎮座地愛知県豊田市坂上町阿知田地内
最寄駅松平東照宮そだめ線「そだめバス停」徒歩8分

ご自宅にお札は祀られていますか?

実家には神棚はあっても、今お住いの所には神棚がない方も多いかと思います。神棚には、日本の氏神である"天照大御神"とご自身がお住いの氏神様のお札を掲げると御神徳が宿るとされています。
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南向き、もしくは東向きになる様に、そして目線の高さより上になる様に、棚などの上において頂くとよいかと思います。是非、皆様もご自宅に神棚をご用意いただき、御札を納めてほしいなと思います。

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