酒井広親石塔(愛知県岡崎市岩津町) 譜代酒井氏始祖の石塔

 江戸時代に編纂された歴史書などで松平親氏の庶氏であるとされ、譜代酒井氏の始祖と言われている「酒井広親」の石塔が岩津城址南にある信光明寺の境外地にあります。(元は個人の土地だった所を信光明寺が買い取ったらしいです。)元々は五輪塔だった様ですが、五つあるはずのパーツの内二つは消失してしまい、五輪塔ではなく石塔となってしまっている様です。

 しかし、この石塔の場所が非常に分かりにくい!場所を簡単に説明すれば岡崎市立岩津小学校のすぐ西側にあり、現地からは小学校の体育館が結構近くにあることがわかります。岩津小学校の周囲は古くからの住宅地で非常に道幅が狭く、正直車で石塔のある場所を探すことはできない事はないですが地元の人たちの邪魔になってしまいますので、信光明寺または岡崎市北部地域交流センター(なごみん)の駐車場に車を止めて徒歩で向かう事をお勧めします。

酒井広親とは?

 当サイトで酒井氏ゆかりの場所などを紹介する度に、酒井氏の由緒などをちょこちょこと書いてきておりますが、正直な感想を述べると様々な伝承が伝えられていますが、そのすべてが基本的に作り話なんじゃなかろうかと思っている訳です。その伝承は細かい所は異なるとしても大まかな流れは「酒井広親は松平親氏の庶子であり、松平郷に親氏を訪ねた時に嫡子は松平泰親である事を受け入れ松平氏の家臣として仕えるようになった。」というものです。この辺りは、徳川家康と酒井忠次によって作り上げられた架空の家系図が元となった伝承な感じがするのですが、そんな伝承の中で、酒井氏発祥の地と言われている碧海郡酒井郷(現在の刈谷市西境町、東境町周辺)、又は幡豆郡坂井郷(現在の西尾市吉良町酒井)については作り話ではなく事実である可能性のが大きいような気がします。

このコラムは自分の妄想歴史観になりますので、ご注意を・・・。

 矢作川・巴川を遡上した所にある「九久平」という場所は矢作川・巴川を利用した水運の水揚げ場所(土場)であり、ここから足助街道、飯田街道を使って信濃方面に荷物を陸送していく事になります。この九久平から足助街道を整備し物流を活性化したのが松平郷を拠点とした豪族「松平氏」の松平信重そして戦国大名松平氏初代「松平氏親」であり、物流を掌握する事で莫大な力を得て、その後の松平氏の発展の礎となったのでしょう。

 そして、酒井広親はそうした松平氏の噂を聞きつけ、出資者または協力者として松平親氏を訪ね家臣となっていったのではないかと当サイトでは考えています。最初は松平氏の家臣というより松平商店の従業員という性格が強かったんだろうと思いますが、土地を買い広げていく内に、徐々に自らの所領を守備する必要がでてきて、徐々に武装化集団となっていったのでしょう。

 酒井広親が碧海郡酒井郷に住んでいた場合、鎌倉街道を物流などで財をなした商人であったと思われ、幡豆郡坂井郷に住んでいた場合は、庄屋として周囲の田畑を所有していた、または当時三河湾に塩田があったかどうかは不明ですが、足助街道は塩の道とよばれている程、塩を信濃国に運ぶ重要な物流街道であり、矢作川河口近くに塩田を領していた可能性もありそうです。そうなると「塩繋がりで中間地点である九品平周辺の街道整備をしていた松平氏に協力する事にした。」なんてことも考えられそうです。

 実際、酒井広親以前の酒井氏については資料がほぼ存在しておらず、その出自については解っていません。そんな中、戦前に著された姓氏家系大辞典によると、三河国酒井郷の酒井氏は「大江氏」の流れを組む一族だとしています。ただ、戦前の歴史観を見てみると、酒井氏と松平氏の関係については江戸時代の歴史観そのままを引き継いでおり、松平親氏=新田(源氏)系、松平氏=藤原系とつり合いが取れる様に酒井氏=大江系と作り上げた伝承である可能性があるのではないかと思う訳です。現在では、松平親氏は源氏の血は引いていないというのが定説になりつつありますし、酒井氏の大江氏の末裔というのもかなり信憑性が揺らいでいる感じです。

 松平郷に移り住んだ酒井広親は、松平親氏、松平泰親、松平信光と松平三代に仕えていたようです。松平親氏、泰親の代の前半は中山17名とも呼ばれる地域などの土地を売買にて取得して領地を拡大して行く中、武力化も進んだとみられ、泰親の代後半には、岩津城を攻め落としています。松平郷は松平信広(泰親の嫡子と伝わるが、親氏の子とも言われています。)に与えれ、泰親に次男松平信光は岩津城に移り、今後この岩津城が松平氏の本城となっていきます。この時、酒井広親も泰親に付き従い、岩津城下に館を構えたと考えられます。

 そして、この石塔に「長禄三年(1459)三月十二日」と彫られていて、この日に酒井広親が没したのではないかとされています。

 時代背景的には、松平信光が信光明寺を創建したのが宝徳三年(1451)になります。松平郷の高月院を菩提寺としてきましたが、岩津城を本城とすることで、岩津城下に信光明寺を創建して菩提寺をこちらに移しています。そして長禄二年(1458)年には今川氏分家となる関口満興が城主であったの岩略寺城(愛知県豊川市長沢町)を攻め落とし、十一男となる松平親則を岩略寺城の北側にあった長沢城の城主としています。

 泰親の代に攻め落とした岩津城ですが、信光明寺を創建の前後の頃まで、松平氏の本拠になりうる城下へと開発が行われていたのではないでしょうか。そして、室町幕府の政所執事伊勢氏に接近し、地方の豪族から幕府の被官へと変貌していく最中に酒井広親は没したという感じでしょうか。

 酒井広親には、子が二人おり、左衛門尉系酒井氏の始祖となる酒井氏忠と雅楽頭系酒井氏の始祖となる酒井家忠になります。酒井氏忠は井田の地を与えられ「井田城/紹介記事」を築城し左衛門尉系酒井氏の居城となっていきます。一方、酒井家忠が何処に居していたのかはよく分からず、兄氏忠の井田城周辺に居を構えていた様な気もしますが、一説には幡豆郡坂井郷に居していたという説もあります。

西尾市吉良町酒井にある酒井氏先祖の墓

 西尾市吉良町酒井には五輪塔や宝篋印塔が一ヶ所に並んでいる「酒井氏先祖の墓」があります。並ぶ墓石のうち向かって一番右の五輪塔が酒井広親の墓であると言われています。

その隣の五輪塔は長阿弥(新田有親)の物と言われ、松平氏初代「松平親氏」の父の墓になります。この地に親氏の父親である長阿弥の墓があるという事が松平氏と酒井氏の関係を物語っているとも言われていますが・・・。

 この地に酒井広親の墓が建てられている事から、この地に広親の次男「酒井家忠」が住んでいたという説もあり得そうな感じがしてきます。

訪問記

 最初にも述べていますが、酒井広親の石塔がある場所は、非常に分かりにくいうえに、道からは高台となっている場所に石塔が据えられています。上記写真は、道路から石塔を見た感じになるんですが、訪れた日が2月であり、更に周りの草木が伐採されていた為この場所から石塔の上部が見えますが、これが夏場などでしたら草がしげってまったく見えないんじゃないのかって感じです。
 岡崎市最古の石塔という事で岡崎市の指定文化財となっていますが、周りの環境を見ていると、完全に放置状態な感じがしてしまいます。

 最初訪れた時、石塔って書いてあったので、えらく質素でアンバランスな石塔だな。と思ったんですが、元は五輪塔だと知り、納得です。ただ、二つの石材が紛失ということは、五輪塔は崩れ落ちていたという事なんだろうと思います。何時頃今の形に組みなおされたんでしょうかね。

地図で所在地を確認

史跡名酒井広親石塔
所在地愛知県岡崎市岩津町申堂十五番地一
最寄駅名鉄バス「岩津バス停」徒歩4分

 当サイトでは、「改訂三河風土記を追う」という企画を行っております。その中で、松平氏譜代も取り扱っていく中で酒井氏についての記事もありますので、是非一読して頂ければ幸いです。

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