城郭情報
城名 | 小川志茂城 |
所在地 | 愛知県安城市小川町志茂地内 |
築城年 | 文安三年(1446年)頃 |
築城主 | 石川政康 |
城形式 | 平城 |
遺構 | 無 |
規模 | |
備考 |
訪問日:2019年9月24日
沿革・詳細
当サイトで既に何度か紹介していますが、浄土真宗本願寺派の八世「蓮如」と下野国にて出会った「石川政康」は蓮如と共に三河国に入国します。一説には、石川家は室町幕府守護大名である「一色家」の被官であり、小川の地に所領を持っていたとも言われ、それを裏付けるかのように「小川志茂城」を文安三年(1446年)頃に築城しています。蓮如と共に三河入国もこの頃ではないでしょうか。小川を拠点としながら、真宗本願寺派三河教団の大檀那として蓮如の布教活動を後押ししながらも、四男を真宗本願寺派の僧侶とし、小川志茂城のすぐ近くに石川家の菩提寺となる「石川山蓮泉寺/紹介記事」を建立しています。
石川家として大きな転機が訪れたのは、岩津城を本城としていた「松平信光」が応仁の乱の最中に、西軍に属していた「安祥城」を奪取し、三男「親忠」を城主と据え、安祥松平家の当主となった「松平親忠」は安祥城周辺に対し服従への圧力を強めて始めた事でした。石川政康の嫡子「石川親康」はこの時、安祥松平家への臣従し、安祥松平家の重臣としての地位を確保していく事になります。今川家が西三河に進出してきた第三次井田野合戦にて松平家宗家であった岩津松平家が断絶してしまうと、この戦いで最大の功労をした安祥松平家が宗家としての立場になっていき、石川家も松平宗家の家臣として重要な地位を占める様になっていきます。
安祥松平四代「松平清康」が岡崎城に居城を移すと清康の家臣団も岡崎城に移り、特に石川家は歴代岡崎城代を勤めるまでになっています。
ここ小川志茂城は、家康の関東移封までは石川家の居城だったと思われますが、はっきりとしたことは解りませんが、関東移封に伴い廃城となったと思われます。
桜井町の色々な史跡を巡っていく中、一覧みたいな記事を書こうかなと思って勝手に「桜井町誌」を作成してみました。「綾姫伝説」についてもまとめていく予定ですので、是非ご覧ください。
歴史探訪
後に徳川家を出奔し豊臣秀吉の元に走った「石川数正」は信濃国松本十万石の大名にまで成りあがっていきます。しかし、数正にとって誤算だったのは、豊臣政権が一代で終わり、その後裏切った徳川家康による江戸幕府が開幕されたことでないでしょうか。結局家康は裏切った石川数正の一党に対しては非常に冷酷な対応をしたと伝えれています。
石川数正も今回訪問する「小川志茂城」で生まれたと言われ、徳川家康がまだ竹千代の時、織田家、今川家への人質の随行員として尾張、駿河国駿府へと竹千代と共に向かっています。桶狭間の合戦にて今川義元が討ち取られ、家康が今川家から独立を果たすと、酒井忠次と共に側近として家康の三河統一に向けて活躍していきます。浄土真宗本願寺派の大檀那としての一面を持っていた石川家でしたが、三河一向一揆の時には浄土宗に改宗してまで家康に従い一揆側と対決し、一向一揆終結後、真宗本願寺派三河教団の最大拠点であった土呂「鷲塚山本宗寺」の破却後の復興責任者にも当たっています。家康が浜松城に進出すると、岡崎城代として家康の嫡男「松平信康」の補佐役になっています。そして信康が武田信玄との内通を疑われ織田信長から切腹を命じられた後、数年後謎の出奔に繋がっていく訳です。
松平家や徳川家を追っていくと100%登場する「石川数正」の謎の出奔劇なんですが、数正が家康を見限ったとか、秀吉の人柄に惚れたとか、いやいや実は家康のスパイとして送り込まれたなんて説まで色々言われていますが、真相は闇の中ですね。
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訪問記
「小川志茂城」址とされている場所は現在は「本城公園」になっています。まさに城跡を彷彿とされる公園名ですね。当然、上記ストリートビューを見るとわかって頂けるかと思いますが、全く遺構は残っておりません。しかし、公園の東屋の壁部分に、小川志茂城の説明板が埋め込まれています。
一見どこの公園にもあるような普通の東屋ですが、
小川志茂城の説明が彫られた石板がはめられています。まさにこの一帯は石川家の本拠地だった事が書かれていますね。
地図で所在地を確認
城郭名 | 小川志茂城 |
所在地 | 愛知県安城市小川町志茂地内 |
最寄駅 | あんくるばす二号桜井線「小川バス停」徒歩3分 |