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松平親氏伝 ー勢力拡大への道:林添への進出ー

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

 在原信重の娘「水女」を娶り、在原家に婿養子として松平郷に入郷した「徳翁斎信武」と弟であり徳翁斎に呼び寄せられた「祐金斎亀明」は松平郷を本貫とする事から、松平姓を称するようになり、それぞれ「松平親氏」、「松平泰親」と改称します。
 徐々に領民たちの信頼を得ていった親氏は、松平郷の隣村となる「林添郷」への進出を画策しはじめたと言われています。『三河八代記古伝集』では、「林添館に居する「薮田源吾忠元」は非常に気質偏強にして喧嘩を好む人物で、家来を大勢抱え近隣の村を押領していた。親氏に対しても無礼な態度を取り続けていた為、親氏の堪忍袋の緒が切れ、ある日親氏は林添館を強襲し薮田源吾忠元を始めとする家来の大半を討取った。」と伝えています。ここでは竹添郷がどうなったのかは記されていませんが、親氏が接収したと考えるのが妥当なのでしょう。九久平ー林添ー松平と繋がる事で、三河湾からの塩の荷揚拠点であり、三州街道との接続点でもあった「九久平」に大きな影響力を発揮する事ができるようになり今まで以上に松平家の財力も向上していく事になります。

 三河八代記古伝集では、武力を以て林添郷を接収したと伝えられていますが、当時は室町幕府全盛期頃であり、私戦は固く禁じられており、さらに当時の松平家は武士ではなく平民であったはずで、親氏が林添を武力を以て接収したとなると、100%幕府により討伐軍が送られているはずです。その為、林添郷だけではなく、親氏が獲得していった領地についてはすべて武力で奪取したのではなく、金銭での売買による領地拡大であったとする説も多く存在しています。当サイトでも武力行使による領地拡大は松平信光まではなかったのではないかと考えております。

林添に行ってみた

 東海環状自動車道の松平ICから東に進み、巴川を渡河すると三州街道と交差する「松平橋東交差点」があります。現在ではT字交差点となっていて国道301号線には右折して松平高等学校方面に向かっていく事になるのですが、2021年3月24日に「松平トンネル」が開通して、松平橋東交差点から真っ直ぐ国道301号線に繋がっていくルートが完成でき、豊田市街地から一気にアクセスが良好になります。

 国道301号線を走っていると、ものすごく走りやすい道なったなというのが実感があるのですが、最後の九久平周辺だけが少し道幅が狭く、変則的な交差点だったこともあり、渋滞も結構発生したわけですが、松平トンネルが開通すると渋滞も解消されるかもしれませんね。ただ、トヨタ自動車のテストコースが下山地区に建設が決定されてから、この松平トンネルの建設が始まったという気もしないわけではないですが・・。

 現在では前述しているように国道301号線が走っていますが、それ以前から九久平から大沼方面に抜ける街道がほぼ同じ場所を通っていたようです。松平郷を開墾した在原信盛、信重親子そして松田ら親氏もこの九久平から大沼に抜ける街道をまずは整備して、松平郷を抜ける物流網を構築していったんだと思います。周囲の領主達が在原氏や松平親氏に協力的であった事から、街道の整備が進み松平家に富をもたらしたと想像していますが、より強力に街道の物流を支配しようと考えると、九久平と松平郷を結ぶ街道沿いを手中に収める必要があったのでしょう。そしてその林添を領していたのが「薮田源吾忠元」になります。

林添館跡(神明社)

 薮田源吾忠元の居館跡であると伝わる場所は、現在神明社が鎮座しています。この館跡の目の前を国道301号線が走っていて、たぶん同じような場所を当時も街道が通っていたと思われるので、まさに街道を見下ろす場所に館が建設されていたという事がわかります。

 松平館にいた親氏よりも、林添館の忠元の方が街道を牛耳っている感が非常に強いなというのが現地で受けた印象です。九久平からの物流を支配するには、林添郷を手に入れる必要があったのは容易に想像がつきます。そこで、伝承では武力を用いて林添館にいた忠元を強襲して討ち取ったとしていますが、ここで間違えてはいけないのが、「松平親氏は武士ではない。」という点です。親氏は在原信重の婿養子として松平郷に入郷していますが、在原家は庄屋的な立場で松平郷を領していたと考えられ、武家ではなかった訳です。

 そこで親氏は林添館とその領有権を薮田源吾忠元から買い取る形で林添郷を領有化していったと考えるのが一番理にかなっている感じがします。

 林添館(神明社)から見た国道301号線。まさに眼下を街道が通り抜けています。ここに関所を建てると通行料を簡単にとる事ができそうです。実際、室町時代までは日本全国の街道沿いに非常に多くの関所が作られていたようで、ここに関所をもうけても何ら問題はなかったみたいですね。

 こちらが現在の神明社の境内になります。この石垣は後年境内地を造成する為にくみ上げられたものだと思います。が、館跡と聞くと、違うと分かっていても石垣などを見ると当時の物だと思いたくなってしまいますね。

晴暗寺

 林添館跡から北に200m程国道沿いに進むと、国道からはそこに寺院があるようには見えませんが、森の奥に曹洞宗の寺院「晴暗寺」が建っています。ここ晴暗寺の無縁仏が集められている場所の一角に林添郷の領主であった「薮田源吾忠元」の物と伝えられている墓石があると言われています。なにやら国道の拡幅工事によって林添地内にあった無縁仏を晴暗寺の境内に移動されたそうです。

 中央手前の一番大きな墓石が薮田源吾忠元の物と考えられている墓石なんだとか。墓石には永徳年間(1381-84年)と彫られている事から松平親氏の林添進出が少なくとも永徳年間までには行われていたという事が見えてきます。

松平太郎左衛門家菩提寺

 ここ晴暗寺は松平太郎左衛門家三代「松平信広」七代「松平頼長」八代「松平由重」の墓石があります。松平太郎左衛門家は松平親氏ー松平泰親ー松平信広と続く、松平宗家筋として江戸時代を通じて松平郷を治めてきた一族になります。信広の弟「松平信光」が岩津を領し、急速に武装化を進め戦国大名となっていったのに対し、信広は在原信盛から続く松平郷の領主という立場を維持したとされ、後に徳川家康を輩出する信光の血統がいつの間にか宗家筋とされる様になっていく事になります。ただ、四百石と少禄な旗本でしたが参勤交代のある交代寄合に列するなど江戸幕府は太郎左衛門家を特別な格式を有する一族であるとしていたのは間違いない所です。

元々は「三松庵」と称されていたそうですが、松平太郎左衛門家十一代「松平信和」が堂宇などを寄進し、元禄八年(1695年)に晴暗寺と改称ています。

 まるで城郭を彷彿とさせる石垣が非常に特徴的な晴暗寺ですが、現在は無住寺となっており、地元の檀家の方々が維持管理をされている様です。

伝親氏石橋

 清暗寺から国道301号線を100mほど西に進むと車両進入禁止となっている旧道が見えてきます。この旧道に沿って流れる滝川に松平親氏が領主となり領民の為に架けたとされる石橋が残っています。石橋のところに、松平親氏公顕彰会が設置した案内板があります。

 此の石橋は長さ四.八メートル、幅一.八メートル、厚さ七十センチで、徳川家の始祖松平親氏が架設したと伝わっている。大久保彦左衛門の「三河物語」に親氏は「領内の陣馬の安穏のために、狭き道をひろげ、出たる石をば彫り捨て、橋をかけ道を作り云々」とあるが。この橋をじっと見ていると。山道や谷川の環境とあいまって、応永の頃(1394-1427)といわれている親氏松平入郷当時の働きが偲ばれる。松平氏ゆかりの晴暗寺が、こうれより東北200メートルに在る。

林添には此の石橋についての伝承がもう一つ残っていて、それによると現在の岡崎市樫山町に住む力持ちの小太郎が架けたと伝わっている様です。

今回訪問した場所

 今回訪れた林添郷は、国道301号線の九久平と松平郷の間にあります。石橋がある旧道の車止め前か林添館跡に鎮座する神明社の社前に車を止めて歩いて廻るのが一番楽かと思います。

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