城跡巡り

上野上村城(愛知県豊田市上郷町) 戸田家、酒井将監忠尚居城

2020年5月5日

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豊田市上郷町にある戸田宗光が築いた城跡。戸田氏が渥美半島に移った後は、松平家とは因縁深い城の一つになった気がする。上野上村城の名前よりも「榊原康政生誕の地」と紹介した方が通りがいいかも。

城郭情報

城名上野上村城
所在地愛知県豊田市上郷町藪間地内
築城年文安年中(1444-49年)
築城主戸田宗光
城形式平城
遺構土塁
規模
備考榊原康政生誕地とされる

訪問日:2018年12月19日

沿革・詳細

戸田家居城

 文安年中(1444-49年)、「戸田宗光」は碧海郡の地頭職(代官?)に任ぜられ、領地運営の為碧海郡に移住し「上野上村城」を築城します。しかし、戸田宗光の出自については所説ある為はっきりしません。

尾張国海東郡戸田荘を支配していた「戸田家」出身という説。
正親町三条家より出て、地頭職を得て近江から三河へ移り住んだという説。
更には、
先祖は「源義家の血筋であるという説」と「藤原氏の血筋であるという説」
などがあります。

  戸田宗光の動向がハッキリしてくるのは、寛正六年(1465年)に起きた「額田郡一揆」において政所執事伊勢貞親の被官として松平信光と共に一揆勢を制圧したした際、貞親の家臣蜷川親元が記録した「親元日記」にその名を記されてからになります。この額田郡一揆の鎮圧に対し、松平信光は竹谷、形原、五井などの所領を得ています。そして、戸田宗光は、知多半島の河和、富貴の地を得ています。戸田氏と言えば、渥美半島を本拠とし、渥美半島から知多半島に進出したというイメージがありますが、実は知多半島への進出のが早かったようです。

 ちなみに、何時ごろかは不明ですが、戸田宗光は松平信光の娘を正室として迎え入れています。戸田氏と松平氏は血縁関係だった訳です。

 額田郡一揆の鎮圧の僅か二年後に「応仁の乱(応仁元年(1467年)-文明九年(1478年)」が起こります。戸田宗光と松平信光は前述の通り、政所執事伊勢氏の被官であり、その伊勢氏はその役職上、東軍に属している為、戸田、松平両家も東軍に属すことになります。戸田氏は知多半島に所領がある事から、西軍で尾張国知多郡守護、三河国渥美郡守護であった「一色氏」との戦いが主となっていた様です。
 文明二年(1470年)、宗光は所領である河和の地に「河和城」を築き、ここを拠点として知多半島の三河湾側を徐々に師崎方面へ進軍していきます。そして、文明七年(1475年)に渥美郡大津村に「大津城」に築き、宗光は、上野上村城を次男である「戸田家光」に与え、自らは渥美半島制圧の為、居城を大津城に移し、大野上村城から去る事になります。上野城を与えられた戸田家光も宗光が渥美郡田原に「田原城」を築城し居城をこの田原城に移した頃に上野上村城を去り渥美郡に移ったと言われています。

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阿部孫次郎居城

 戸田氏が去った上野上村城には「阿部孫次郎」が入城しています。この阿部孫次郎がどういった経緯があって上野城城主となったのかというより、どんな人物なのかすらよくわからません。そして、上野上村城を去った戸田氏は、元々の地頭職として領有していた碧海郡についてはどういう扱いになったのかも不明なんですが、碧海郡の東側は松平家が進出している辺りから、血縁関係であった松平信光に譲っているのかもしれませんね。

 明応二年(1493年)、上野上村城城主「阿部孫次郎」は加茂郡の挙母城「中條出羽守」・寺部城「鈴木日向守」・伊保城「三宅加賀守」・八草城「那須宗左衛門」と連合軍を組み、岩津城を本城とする「松平家」へ進軍し、井田野の地に着陣しています。この戦いにて、松平信光三男「松平親忠」が主力となり井田野において連合軍を打ち破ります。この戦いを当サイトでは「第二次井田野合戦」と称しています。

POINT

井田野合戦について

松平家支城

 この明応二年(1493年)に起こった「第二次井田野合戦」において、上野城主「阿部孫次郎」は松平軍に臣従する事になり、上野城を開城しています。この上野城には、忠親四男であり桜井の地を所領とし、「桜井城」を居城としていた「松平親房」に与えられます。親房には嫡子がおらず、兄「松平長親」の次男(三男という説も)である「松平信定」を養子に向かえ「桜井松平家」が起こります。

 「桜井松平家」は惣領となった「安祥松平家」に次ぐ領地を有しています。松平信定の正室は織田信定の娘(織田信秀の兄弟)であり、松平家惣領となった松平清康とは松平家の方針とは異なる立場だった事は想像できます。

 松平清康が天文四年(1535年)織田信秀領である尾張国森山の守山城に進軍をした時、松平信定は上野上村城にいて病を口実に出陣すらしていません。そして、森山崩れにより清康が没すると、信定は岡崎城を占拠し松平家の惣領になるべく画策しますが、清康の嫡子「松平広忠」が今川家の庇護の下岡崎にやってくると、信忠は岡崎城を明け渡し桜井城に移り、惣領への道は遠ざかります。

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松平家vs織田家

 天文九年(1540年)より、織田信秀による三河侵攻が激化し、六月には「安祥城」が陥落し、織田軍の三河侵攻の拠点となり、次第に松平領を切り取っていく事になります。これに対し松平広忠は今川家に援軍を願い、織田軍と今川軍が激突したのが「小豆坂の戦い」になります。さらに同年十二月、織田信秀は「上野城」に対し進軍します。「上野下村城」城主だった内藤清長、甥の正成の奮戦により織田軍を撃退します。

 天文九年十二月の上野城を巡る戦いの後、再び織田軍に攻め込まれた上野城は落城し織田家の手中に落ちたとされます。この時、上野城の城主となったのが松平家の宿老である「酒井家」出身でありがながら、織田家と通じていたと言われる「酒井将監忠尚」になります。ちなみに、忠尚は徳川四天王の一人「酒井忠次」兄とも伯父とも言われる人物であり、松平家を裏切らなければ筆頭家老間違いなかったと言われています。

 安祥城、上野城と立て続けに矢作川以西の拠点を奪われた松平広忠は、何度か安祥城奪還の為に出陣しています。そして天文十四年(1545年)、広忠は上野城に向かって兵を送り、「広畔畷の戦い」において酒井将監忠尚は桜井松平家の「松平家次」、徳川四天王榊原康政の父「榊原長政」の連合軍と激突しこれを破り、上野城の奪還に成功しています。酒井忠尚、そのまま上野城主として松平家に帰参が許されています。この時、忠直は松平家というより今川家に臣従したようで、徳川家康が桶狭間の合戦後今川家から独立を果たし、今川家との関係を絶ち切り織田家と同盟を結ぼうとして家臣に聞いたところ、酒井忠尚のみが反対したといいます。

三河一向一揆

 上記の通り、今川家との縁切りに対し反対を唱えていた酒井忠尚は、再び主君である「徳川家(松平家)」に対して反旗を翻すことになります。時同じくして、野寺本証寺、上佐々木上宮寺、針崎勝髪寺、土呂本宗寺の門徒達が徳川家に対し刃を向けた「三河一向一揆」が勃発します。一向一揆には、惣領に反抗的な桜井松平家、大草松平家のみならず、真宗門徒だった松平家家臣も多く参加し、徳川家(松平家)の内紛といえる状況でした。酒井忠尚は一向一揆に加勢していたのかは不明で、挙兵した時期が偶然同じだった可能性もあるそうです。
 永禄八年(1565年)、徳川家康は、「稲荷山隣松寺/紹介記事」に本陣を置き、「鴛鴨城/紹介記事」の松平親久と共に上野城の酒井忠尚を攻め落としています。酒井忠尚は家康に仕える事をよしとせず、駿河国に逃げ落ちたとされていますが、それ以降の動向は不明です。

 その後、上野城は岡崎城代「石川和正」の所轄となり、いつしか廃城となっているようです。

歴史探訪

 松平家とは何かと因縁深い存在である「上野上村城」になります。すぐ南には「上野下村城」が存在するのですが、本当に両城の距離が近い為、どういった関係なのかよくわかりません。戸田宗光が築いた「上野上村城」、内藤清長が築いた「上野下村城」、狭い範囲で二つの城が成り立つだけの基盤が上野という地には存在していたということなんでしょうね。

 この上野城下で徳川四天王の一人「榊原康政」が生まれています。榊原康政生誕地の石碑が上村城址にも下村城氏にも据えられており、両城が主張している様な状況ですね。自分が思うに、天文十四年(1545年)におきた「広畔畷の戦い」において、榊原康政の父「榊原長政」は上野上村城の酒井将監忠尚に与している事から、このまま酒井忠尚の配下となっていて、上野上村城の城下に住んでいたのでは?そうなると、上野上村城下で榊原康政が生まれたのかな?と推測するわけですが・・・。

 松平清康が森山崩れにより死亡して以降、桶狭間の戦いによって今川家より独立を果たした松平元康の登場までの25年間の松平家の動静は織田家、今川家の外的要因から十八松平と後世に称される松平庶家の主導権争いという内的要因が複雑に絡み合ってよく解りません。その複雑な松平家家中の舞台の一つになっているのが今回紹介する「上野上村城」となります。

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訪問記

 岡崎市岩津町から矢作川に架かる「天神橋」を渡り豊田市上郷に東西に走る県道239号線沿いに今回訪問する「上野上村城」はあります。上野下村城の遺構が消滅してしまっているのもあり、「上野城」と称されています。

 1枚目は広島市立図書館が所蔵している「諸国古城之図」より上野城古地図です。2枚目は上野上村城周辺の航空写真となります。
 上野城の西側から南側にかけて、古地図では6カ所の砦が書かれています。なんとなくですが下村城はこの砦より内側にある様な感じがします。ん~、上野下村城とよばれていますが、何となく上野上村城の重臣の館と考えた方がしっくりくる感じがします。

 県道からみて一段高くなっている部分があります。本丸を護る櫓跡か土塁の一部の様です。現在ではこの一段高くなった場所に稲荷社が鎮座しています。

 赤鳥居が二基据えられた奥に稲荷社の社が東向きに鎮座しています。

 稲荷社の奥、さらに昇った先に、南向きに鎮座する社がありました。残念ながら詳細は不明です。

 本丸跡地には上野護国神社が鎮座しています。
 日本の為に戦って頂いた英霊に拝礼させて頂きました。

 上野上村城をめぐる幾多の戦いで亡くなった兵士たちの供養塔になります。

 「榊原康政生誕之地」を示す石柱です。
 上野上村城をGoogle先生で検索すると、その登城記というか、紹介記事が非常に多くヒットします。松平家を見てもそこまで主要な城郭ではない上野上村城ですが、やはり徳川四天王榊原康政が生誕した地という事で知名度はかなり高い様ですね。

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地図で所在地を確認

城郭名上野上村城
所在地愛知県豊田市上郷町藪間地内
最寄駅愛知環状鉄道「上郷駅」徒歩7分

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