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八幡社(愛知県岡崎市矢作町)

2020年9月10日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

 矢作川右岸の堤防道路を国道一号線から北に進んですぐの場所に「矢作神社/紹介記事」が鎮座しているのですが、その手前側に鎮座している神社があります。鎮座している場所から最初は矢作神社の境内社または境外社かな?と思っていたのですが、矢作町二区の鎮守社である「八幡社」でした。明治元年に合祀した「柱朽大明神」は、矢作橋に非常に関わりのある神社だったようです。

神社紹介

神社名八幡社
鎮座地愛知県岡崎市矢作町宝珠庵二番地
御祭神応神天皇、天御柱神、地御柱神
旧社格無格社
創 建不詳
神名帳
境内社
例祭日八月十五日
御朱印
H P

参拝日:2020年8月23日

御由緒

 前回紹介した「矢作神社/紹介記事」とは境内を接する様な形で矢作川の堤防道路沿いに鎮座しているのが「八幡社」となります。予備知識がないと矢作神社の境外社かな?と思ってしまうぐらい矢作神社と隣り合っています。こちらの八幡社は矢作町の中で二区とされる地域の鎮守社になるそうです。矢作神社が矢作町の総鎮守社の様な神社になり、それぞれの区割りされた場所にそれぞれ鎮守社が鎮座している様です。この辺りは岡崎市に合併する以前の碧海郡矢作町時代の名残になるのかな。

 八幡社は元々は矢作町羽城という場所に鎮座していたようです。(場所的には現在、岡崎市立矢作東小学校が建っているあたりになります。)矢作神社と同じく何度か水難にあったようで、弘化二年(1846年)に現在の境内地に遷座しています。
 その後、矢作町加護畑に鎮座する「柱朽大明神」を合祀しています。

 往昔矢矧橋の修造の節は橋に用いられ朽ちた古材を積んで置くことが古例になっていた所があり、後年此処へ神祠を建てて柱朽天神(大明神)と崇め奉るようになったという。

 柱朽大明神は明治政府の神仏分離令により「天御柱神、地御柱神」の二柱を祭神にする事として、本殿に合祀後の八幡社の御祭神は応神天皇、天御柱神、地御柱神の三柱となっています。

昔は下馬八幡社と称して、字羽城の田圃内に鎮座したのを何時の頃か水難を避けて、現在の社地に遷したという。明治元年八月、字加護畑に鎮座の柱朽大明神(地御柱神)を境内神社に移し、大正五年八月七日、本社に合祀した。明治八年一月、据置公許となる。

愛知県神社庁発刊「愛知県神社名鑑」より

歴史探訪

 江戸時代、五代街道の一つ「東海道」で一番長い橋だったのが「矢作橋」なんだそうです。初めて矢作橋が架けられたのは関ケ原の合戦の翌年の慶長六年(1601年)~慶長七年(1602年)なんだそうです。豊臣の天下から徳川の天下へと移り変わり、岡崎城主も豊臣恩顧の武将である「田中吉政」から譜代大名の「本多康重」に変わった年です。後に神君と呼ばれる「徳川家康」の生誕地である岡崎城、そのすぐ西側を流れる矢作川に当時の橋梁建設の技術を結集した「矢作橋」を架けたのではないでしょうか。

 初代の矢作橋は土橋と呼ばれる構造の橋だったそうです。

 土橋と聞くと城郭の堀を一部埋めたような橋(説明が下手で申し訳ない)を想像してしまいそうですが、ここでいう土橋とは、橋面に丸太を並べて、このままだと歩いて渡りにくいし、荷車などが通れない為、土を被せて平らにならしていた橋の事になります。

 浮世絵に登場してくる様な板橋の矢作橋に架け替えられるのは寛永十一年(1634年)、徳川家光が上洛するに際して架け替えられた三代目の矢作橋からになります。最初は土橋として架けられた三代目矢作橋を慶安四年(1651年)に板橋への改修工事が行われています。

 初代:慶長六年(1602年)  ー慶長十二年(1608年)
 二代:元和元年(1615年)  ー寛永十一年(1634年)
 三代:寛永十一年(1634年) ー寛文十年(1670年)
 四代:延宝二年(1674年)  ー正徳五年(1715年)
 五代:正徳五年(1715年)  ー延享三年(1746年)
 六代:延享三年(1746年)  ー宝暦十二年(1762年)
 七代:宝暦十二年(1762年) ー天明元年(1781年)
 八代:天明元年(1781年)  ー寛政元年(1789年)
 九代:寛政元年(1789年)  ー文化十四年(1817年)
 十代:文化十四年(1817年) ー天保九年(1838年)
十一代:天保九年(1838年)  ー安政二年(1855年)
十二代:明治十年(1877年)  ー明治二十三年(1890年)
十三代:明治二十三年(1890年)ー大正二年(1913年)
十四代:大正二年(1913年)  ー昭和二十年(1945年)
十五代:昭和二十二年(1947年)ー平成十八年(2006年)
十六代:平成二十三年(2011年)ー

※十一代目の板橋が落ちた後、十三代目の矢作橋が架けられるまで凡そ20年の月日がかかっています。幕末で幕府に橋の架け替えの資金が確保できず、さらに明治維新(戊辰戦争)が起こり明治政府の体制が整うまでは架け替え工事が出来なかったんだと思います。このため、十四代将軍「徳川家茂」の上洛の時、又は明治天皇の東京遷都の際、渡船にて矢作川と渡河しています。

 今回紹介している八幡社に合祀された「柱朽大明神」は矢作橋の古くなり朽ちてきた木材などを積んでおく場所に祀られた神社になるそうです。江戸時代では八百万の神様として橋にも神様がいると考えていたでしょうし、架け替えなどででた古材にも神が宿っているとして燃やすなどして廃棄するのではなく、古材を積んで朽ちていく中で自然に帰していく場所だったのでしょう。

参拝記

 矢作川の右岸堤防道路沿いに八幡社が鎮座しています。もう少し進んだ右手側に車を停める場所がありますし、車が止められていた場合はもうちょい先に堤防下に市営の駐車場があるのでこちらに停めるとよろしいかと思います。

境内入口

 堤防道路沿いに並行するような社殿配置となっている八幡社となっています。堤防の高さまで嵩上げされた境内地となっているのでかなり南北に細長い境内地です。

 境内の隅に据えらえている社号標には八幡宮と彫られていますが、宗教法人として登録されている社名は八幡社となっています。戦前は八幡宮と称していたのでしょうか。

鳥居

 扁額のない明神鳥居になります。

狛犬

 生年月日を調べ忘れてしまった狛犬一対になります。全体の造形からかなり古そうな狛犬に見えるのですが、どうなんでしょうか。

社殿

 入母屋造瓦葺平入の向拝のもうけられた祠になります。覆殿の中に本殿が鎮座しています。

地図で鎮座地を確認

神社名八幡社
鎮座地愛知県岡崎市矢作町宝珠庵四番地
最寄駅名鉄バス「30東岡崎-JR安城駅前」他 「矢作橋バス停」徒歩6分

ご自宅にお札は祀られていますか?

実家には神棚はあっても、今お住いの所には神棚がない方も多いかと思います。神棚には、日本の氏神である"天照大御神"とご自身がお住いの氏神様のお札を掲げると御神徳が宿るとされています。
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南向き、もしくは東向きになる様に、そして目線の高さより上になる様に、棚などの上において頂くとよいかと思います。是非、皆様もご自宅に神棚をご用意いただき、御札を納めてほしいなと思います。

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