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北野山真福寺寶生院「大須観音」(名古屋市中区大須)名古屋廿一大師一番札所

2020年1月30日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

寺院情報

寺院名北野山真福寺寶生院
所在地愛知県名古屋市中区大須二丁目二一番四七号
御本尊聖観世音菩薩
宗 派真言宗智山派
創 建元弘三年(1333年)
札 所名古屋二十一大師 一番札所
金城下二十一大師 一番札所
大名古屋八十八霊場 八十八番札所
尾張観音霊場 一番札所
東海不動尊霊場 十番札所
なごや七福神/布袋尊 
御朱印
H P

参拝日:2019年12月11日

北野山真福寺寶生院 公式ホームページ

http://www.osu-kannon.jp/index.html

名古屋二十一大師札所一覧

由緒・沿革

 「北野山真福寺寶生院」という寺号より「大須観音」という名の方が一般的に知られているのではないでしょうか。実際、自分も今回参拝に伺うまで「大須観音」の正式な寺名は知らなかったです。
 この「大須観音」は元々は現在の岐阜県羽島市にあったのですが、徳川家康が慶長十七年(1612年)に名古屋城築城とその城下の整備が行われる中、尾張の繁栄の基とする為に、現坐の地に移設されています。
 この大須一体は明治時代の地図を見ると、数多くの寺院が密集している様な場所でした。しかし、大東亜戦争(太平洋戦争)末期の空襲により数多くの寺院が灰燼に帰してしい、戦後復興の中再建できた寺院もあれば、そのまま廃寺となってしまった寺院も数多くあったようです。

大正四年発刊「名古屋市史」には、

 寶生院は、北野山と号し、真福寺と曰ふ。中区門前町四丁目の西側にあり。境内は二千五百八十二坪三合五勺(徳川時代には、五千七百五十五坪ありて除地なり。)。準別格本山特等五等にして智積院の末寺(もと無本寺なりき。後に大和長谷寺、京都智積院の支配に属し、色衣出世法印地となれり。)なり。
 もと尾張中島郡大須荘(今美濃国羽島郡小藪村大字大須)北野に在り。初め此地に観音堂あり。「中島観音堂」と称せり。元享四年(1324年)天満宮を此地に遷し、観音堂は社僧となりて、「寶生坊」と号せしが如し。時に「能信」、密法を傳流の為めに此地に来たり。宝生坊に住して一寺を開創し、之を「真福寺」と号し、宝生坊の名は後「寶生院」と改められしが如し。

(中略)

慶長十七年徳川家康、成瀬正成に命じて、之を今の地(世に此境地を指して大須と呼ぶ。)に移さしめ、佛像、経蔵(経蔵は開山能信の経籍を主として蔵せしものにして、醍醐寺、根来寺の経蔵と共に之を三経蔵と称し、もし紛失あれば互いに書寓通用せしものといへり。)寺宝等を移転す。元和元年、家康、天海等と共に経蔵を披閲し天海顯戒論一部を取りて帰る。

(中略)

明治二十五年二月二十五日夜、類火に罹罹り、庫裏、客殿、内仏殿、宝蔵、末山寮を残して悉く焼失す。以来漸次に再建せらる。

とあります。
 その後、昭和二十年に空襲による焼失を経て、昭和四十五年に鉄筋コンクリート造りの本堂を再建し現在に至っています。


 由緒を見ていて一番疑問に思ったのが、天満宮が勧請された場所が「尾張国中島郡大須荘」とあるのに現在は「岐阜県羽島市」となっているのだろうかという点でした。実際地図を調べてみても、岐阜県羽島市に大須という地名が残っています。

 本来、中島郡は尾張国の郡であり、中島郡の北側には美濃国との国境にあたる木曽川が流れていました。これが天正十四年(1586年)に木曽川の大洪水が発生し、中島郡を東西に二分するように流れが大きく変わってしまいます。天正十七年(1589年)、豊臣秀吉の裁定により中島郡を美濃国と尾張国の二国に跨る郡になったといいます。大須荘は中島郡の西側に位置し、この豊臣秀吉の裁定により、美濃国中島郡大須荘に変更されたという事になります。

 天満宮が勧請されたという元享四年(1324年)にはまだ木曽川の流れが変わる前なので、鎮座した時には「尾張国中島郡大須荘」なんですね。
 で、元亨四年(1324年)の頃と言えば、、鎌倉幕府(鎌倉時代)末期に当たり、時の天皇は「後醍醐天皇」になります。歴史の教科書などに載っているのかは分かりませんが、元亨四年/正中元年(1324年)9月に後醍醐天皇の鎌倉幕府の討幕の動き露見し、首謀者が処分される「正中の変」がおこります。そんな元亨四年に尾張国中島郡大須荘に後醍醐天皇の勅命により天満宮が建立されます。どういう意図でこの地に天満宮を後醍醐天皇は建立したのでしょうか?。

 鎌倉時代末期、尾張国、美濃国共に守護代は鎌倉幕府執権を勤めていた北条氏の一族が担っていました。尾張国は「名越氏」、美濃国は詳しくはわかりませんが「伊具流北条氏」がそれぞれ守護に任ぜられていた様です。
 ただ、守護にはなっていませんが、美濃国を中心にかなりの勢力を誇っていた一族がいたようです。この一族は「土岐氏」と言います。鎌倉時代末期の当主は「土岐頼貞」といい、足利尊氏と共に戦い、室町幕府が開幕すると、美濃守護として任ぜられる武将です。しかし、実はこの土岐頼貞は、「正中の変」に関与していたと言われ、いわば後醍醐天皇派の武将であると言えます。そして大須荘は尾張国に在りながら「土岐氏」が治めていた場所だったのではないかと予想しています。
 支援してくれる勢力をすこしでも確保したい後醍醐天皇としては、京都から鎌倉に通じる街道を抑える場所を勢力としてる土岐氏を自らの勢力に加える為に勅命という形で天満宮を創建したのではないかと。

 天満宮を建立し、その管理を命じられたのが元々大須荘にあった「中島観音堂」だったのでしょう。天満宮の別当寺となった中島観音堂は「寶生坊」と改称する事になります。天満宮の神事を行う僧侶の為の「僧坊」の様な位置づけだったのかなと思います。そして元弘三年(1333年)に、後醍醐天皇が深く帰依していた能信上人が「寶生坊」に入り、能信上人が開基となって「北野山真福寺寶生院」を開山しています。

 そして本尊の聖観世音菩薩像は、弘法大師自らが一刀三礼御彫像されたという摂州四天王寺に奉賛されていた観音像であり、「後村上天皇」の御代に詔(みことのり)によって当寺に遷されたと伝えられています。

 当時でも真福寺寶生院には、貴重な書物が収蔵されている事が知られていた様で、織田信長が寺領を寄進するなど庇護を受けていた様です。そして慶長十五年(1610年)には、木曽川の氾濫により真福寺もかなりな被害を受けていた様で、名古屋城下を開発する中で、真福寺寶生院を現在の地に移すとともに、佛像、経蔵(経蔵は開山能信の経籍を主として蔵せしものにして、醍醐寺、根来寺の経蔵と共に之を三経蔵と称し、もし紛失あれば互いに書寓通用せしものといへり。)、寺宝等も併せて移させています。
 名古屋の地に移設され「大須観音」と呼ばれるようになり、門前町が広がり参拝者でかなりの賑わいを見せていたと言われています。

江戸時代の大須観音の様子

「名古屋名所図会」より

名古屋には「名古屋四観音」と呼ばれる古刹の観音寺があります。名古屋城を中心にして鬼門の方角に当たる鎮護寺を名古屋城築城以前から存在していた観音寺から定めたと言われています。このため、名古屋城築城の際に美濃国から移設された大須観音は名古屋四観音には列する事はありませんでした。

名古屋四観音
①荒子観音
②甚目寺観音
③龍泉寺観音
④笠寺観音

この四観音の中で、笠寺観音は、名古屋二十一大師の札所に選ばれています。

名古屋二十一大師を行く

名古屋二十一大師再興50周年という事で、平成三十一年四月一日から令和二年三月三十一日までの一年間、記念宝印が頂けます。

  以前、"2020年の目標"という記事をアップさせて頂き、その中で今年は「名古屋二十一大師霊場」を巡ると半ば宣言させて頂きました。実は、すこしフライング気味の2019年12月11日から「名古屋二十一大師霊場」の遍路を始めています。最初は札所順に巡ろうかなぁ~と思っていたのですが、もう既に一日目からこの札所順遍路の野望は潰えてしまっています・・・。

 由緒・沿革で長々と述べていますが、名古屋二十一大師霊場の一番札所は名古屋市中区にある「大須観音」になります。大須観音の門前町として発達した「大須商店街」には何度も足を運んだ事があります。その昔は東京の秋葉原、大阪の日本橋、名古屋の大須と電気街としても有名でしたね。今でもその香りは少ししますが、かなりディープな電気機器を扱っているお店は激減してしまっていますね。電気街→パソコン街→・・・・今は何の街と言えばいいんですかね。

 そんな大須も門前町から発達したという所からも何となく感じ取れるかと思いますが、元々は神社仏閣が集まっていた場所でした。実は、皆さんが想像する以上に現在でも大須界隈には神社、寺院が存在しています。そして、特に寺院は色々な霊場の札所になっていたりします。

いつもとは少し違った目線で巡る大須界隈もお届けしていきたいと思います。

参拝記

 金山駅から伏見、丸の内を南北に走る国道19,22号重複線「伏見通」沿いに大須観音はあります。地下鉄鶴舞線「大須観音駅」2番出口からすぐの所になります。
・駐車場は用意されていないので、近くのコインパーキングに停める事になります。

本堂

昭和45年(1970年)に再建された鉄筋コンクリート造りの本堂になります。
 1階部分は寺務所となっているようで、通常の御朱印はこちらで授与されるようです。寺務所については、本堂の右側(1階部分)に入口があります。
 名古屋二十一大師霊場東海不動尊霊場なごや七福神尾張観音などの納経帳が存在する霊場については、本堂にて納経後、朱印を頂ける様です。
 本堂向かって左側には「普門殿」、右側には「紫雲殿」と呼ぶ建物が本堂と渡り廊下で結ばれて建っています。HPを見ると、普門殿は「十二支・干支の守り本尊様をお奉りするお堂」であり、紫雲殿は「皆様がお納めいただいた九万九千観音様をお奉りするお堂」としています。

 本殿の唐破風部分に「大悲殿」と書かれた扁額が掲げられていました。
 大悲とは観音菩薩の別名になり、衆生の苦しみを救おうとする仏や菩薩の広大な慈悲の心を表すとされています。「大悲殿とは観音菩薩が安置されている建物」という事になります。真福寺寶生院(大須観音)の本尊は聖観世音菩薩像であるので、本堂を大悲殿と称している訳です。
 山号に大悲を使用している寺院や、観音堂を「大悲殿」と称している寺院なども同じ理由からです。

本尊の聖観世音菩薩像の向かって左側に奉安されている弘法大師像になります。大師像の横にはなごや七福神の布袋尊象も奉安されていますね。

「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」・・・

修行大師像

境内の一角には修行時代の空海をイメージした修行大師像が安置されています。

参拝を終えて

大洲観音からふと見上げると、仁王の顔が模った「大須仁王門通り」の案内が描かれていました。そういえば、仁王門の写真を撮り忘れていた事を、この写真を見るまで全く気付いていませんでした。それにしても、かなりインパクトのある広告ですね。

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やはり、旅先の情報はネット検索もいいですが、るるぶなどの旅行ガイド雑誌が一番ではないかなと思います。ネット情報はどうしてもディープになりがちで、いざ旅行に行こうと思っても、俯瞰的な情報が不足しがちな気がします。
やっぱり、"るるぶ"を見ながら、旅の予定表を作っていくのも、旅行の醍醐味ですよね。

地図で所在地を確認

寺院名北野山真福寺寶生院
所在地愛知県名古屋市中区大須二丁目二一番四七号
最寄駅名古屋市営地下鉄 鶴舞線「大須観音駅」2番出口 徒歩1分

寺院・霊場巡りの際のバイブルに

元々、当サイトは神社巡りを通じて、皆様の住んでいる所にある"村の鎮守の神様"と呼ばれる神社を紹介してくサイトを目指していたんです。むしろ寺院については、縁遠いものとおもっていたんですよね。しかし、ちょっとした御縁で弘法大師霊場に出会い、そして愛知県では一番活動が盛んな"知多四国霊場"を巡礼、結願する事になりました。でも、神社の事はある程度知識があっても、寺院については未知の世界だったので、少しでも巡礼の時に役に立てばと思い、こちらの本を読ませて頂いております。

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少しでも巡礼の時にお役に立てる事もあるかと思います。是非一度読んでみてくださいませ。

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