名所旧跡など

松平太郎左衛門家墓所

2021年3月15日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

 高月院の南に位置する小高い山の尾根部分に交代寄合の旗本であった松平太郎左衛門家の墓所があります。こちらの墓所には、十一代「松平信和」以降の歴代の当主などの墓石が並んでいるようです。

 泰親より太郎左衛門家を継いだ三代「松平信広」の墓所は林添郷にある晴暗寺であり、こちらには、信広以外に、七代「松平頼長」八代「松平由重」の墓石もあります。この晴暗寺は曹洞宗の寺院であり、信広から由重までは曹洞宗に帰依していたのでしょうか・・。しかし、関ケ原の合戦、大坂の陣などに従軍した九代「松平尚栄」から高月院に墓所が移っています。これは、松平郷四百四十石を拝領した中に高月院寺領百石分が相給となっていた事も関係してきていると思います。簡単に言えば、「領地をやるから松平家始祖の松平親氏の菩提寺である高月院をおまえの一族で庇護管理しろ。」という徳川将軍家の意向があり、松平尚栄は高月院の宗派である浄土宗に帰依改宗したのではないかと思う訳です。高月院には、尚栄と嫡子「松平重和」の墓石が境内にある松平家霊廟の手前二段下がった所に並んでいます。

 どういった経緯で高月院の境内ではなく、高月院南側にある山の尾根部分に墓所を設けたのかは不明ですが、十一代「松平信和」からこの場所を一家の墓所としているようです。旗本として所領を得てからも国替えなどもなく、明治維新まで松平郷を中心とした四百四十石を維持し、維新後は帰農し松平に住んでいた様ですが、大正時代に東京に移住したそうです。江戸時代を通じて一所に留まっていたのもあり、太郎左衛門家の墓所が現在までしっかりと残っています。

 松平太郎左衛門家は後の徳川将軍、松平諸氏の始祖で松平郷を発祥の地としています。初代親氏、二代泰親と続き三代目で、将軍家となる信光と太郎左衛門家に続く信広の二家に分かれました。太郎左衛門家は江戸時代を通じて幕府より「御称号の旧地」を守る役目として四四二石を給せられ、代々太郎左衛門を名のり参勤交代を許された交代寄合に列せられました。
 初代親氏、九代尚栄は高月院、三代信広、七代親長は晴暗寺裏山に葬地がありますが、当墓所には十一代信和以降の当主が葬られています。太郎左衛門家は明治維新により帰農し、大正末期に東京に居を移しました。

松平太郎左衛門家の記事を書きました。

所在地を地図で確認

史跡名松平太郎左衛門家墓所
所在地愛知県豊田市松平町日影地内
最寄駅豊田市おいでんバス 下山線「松平郷バス停」徒歩11分

 

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