室城
城 名:東条城
鎮座地:西尾市吉良氏駮馬白山45
築城年:不明だが一説には貞応元年(1222年)頃か
築城主:足利義氏
城形式:平山城
遺 構:曲輪、土塁、堀
規 模:
訪問日:2018年5月22日
沿革・詳細
東条吉良氏の本城である"東条城"になります。矢作川を挟んだ吉良荘西側には"西条城(西尾城)"があり、吉良荘と呼ばれた西三河南部はこのふたつの城で納められていた形になります。
元々は、西条城が本城であり、東条城は支城という位置づけだったはずなのですが、南北朝時代、吉良宗家(吉良満貞)が南朝方に付いた為、それに反抗し足利宗家側付くべきと考える一族もいて満貞の弟である"吉良尊義"を擁立し北朝方に付き、東条城を本城として独立します。これが東条吉良氏の始まりです。
当然、いきなり弟に裏切られる形で本拠である吉良荘の半分を失ってしまった"滿貞"は弟"尊義"を攻め立てます・・・が東条城を落とせず。その後、滿貞も北朝方に帰順したため、北朝方の裁量により両家が並び立つ形で決着がつきます。吉良氏宗を西条吉良氏と呼び、東条城方を東条吉良氏と呼び、以降100年以上内部対立が続いてしまい、吉良家没落の遠因となっています。
ただ、吉良氏宗家としてはあくまでも西条吉良氏であり、官位を与えれているのは総じて西条吉良氏になっていますね。ただ、基本京都に住んでいた西条吉良氏とたまに京都に出向いていた東条吉良氏の違いがこの辺りにでているようです。
時代は下り、今川氏と織田氏の三河進出の圧力が高まってきた戦国時代中期、東条吉良氏は今川方に、西条吉良氏は織田方にそれぞれ付き、ここでも対立が続いていた様です。そこで、時の東条吉良氏の当主"吉良持清"は西三河中部で力を伸ばしてきた松平氏とも結び、織田家に備えていく事になります。
その後の松平清康の森山崩れは以前紹介した松平清康公仮葬地の記事で説明しましたが、松平家の混乱に乗じ、今川氏が一気に三河に進出してきていた様です。
その頃には、両吉良氏とも内部抗争を行っている場合ではない事を悟り、西条吉良氏の"吉良義堯"の次男である"吉良義安"が東条吉良氏の"吉良持広"の養子に入り、東条吉良氏を継ぐことに、しかし、義堯の長男である"吉良義郷"と吉良持広が相次いで死去してしまった為、吉良義安は吉良宗家を継いだ上で東条城に入り、西条城には弟の吉良義昭を城代として置いて東西吉良氏が統一されたと言われています。
前述していますが、元々西条吉良氏は親織田氏、反今川氏だった訳で、その西条吉良氏出身の義安も東条吉良氏を継いだ後の動きを見ていると、親織田氏、反今川氏の路線を引き継いでいると言えます。
吉良氏全体が親織田氏になってしまう前に、今川氏が動きます。今川氏が織田信広が守る安祥城を攻め込む際、荒川城に軍勢を進め、そのまま吉良義安が居た西条城を攻め込みます。そして吉良義安を捉え、人質として駿府に送ります。そして吉良氏当主と吉良義昭としますが、西条城には今川氏から城代が派遣され、吉良氏は東条吉良氏だったころの領土のみとなってしまいます。
この時、吉良氏は今川氏の家臣団に組み込まれていったと想像されます。
そして桶狭間の合戦後、吉良義昭は今川氏方に付き、今川氏から独立した松平氏との戦いに突入していくことになります。
訪問記
愛知県道318号線を西尾市街方面から東に向かっていくと、藤波畷の戦いの碑のあるあたりから前方に小高い丘が見えてきます。その丘全体が東条城址となります。
丘から南方は田園風景が広がっており、まさに平山城の様式を確認することができますね。
こういった中小の城跡でありがちなのは「入口ってどこ?」と探し回ることなんですが、ここ東条城ではご覧の通り登城口が整備されていて、とても易しい造りになっています。
この登城口を登っていくと、
城郭の周囲を囲んでいる帯曲輪に通じ、さらに昇っていくと三の丸、二の丸、本丸といった城郭中枢に進むことができます。
上記帯曲輪の辺りから西方を望みます。
まさに、この眼下に広がる田園で藤波畷の戦いが繰り広げられたわけです。
三の丸
本丸から一段下がった西側には三の丸が築かれていました。
古地図では、本丸のすぐ西側の曲輪部分を指します。前述した帯曲輪からは一段高くなっているので、かなり遠くまで見渡すことができます。
三の丸から南西部を望むと、田圃の中に祠を見る事ができます。
この祠こそ、吉良氏が誇る勇将"富永伴五郎"の討ち死にの地に作られたという伴五郎地蔵の祠になります。
当時はこれだけ木々に覆われてなかった思うので、富永軍と松平軍の戦いを見守っていたんだと思います。そして、精神的支柱でもあった富永伴五郎の戦死・・・城内の何とも言えない絶望感のような雰囲気が伝わってきそうです。
藤波畷の戦いについて解説している案内板も据えられています。
この東条城の南西側を木々の選定等、もう少し整備するだけで、グッと魅力が増すと思うですけどねえ。
二の丸
現在、二の丸跡には八幡社が鎮座しています。由緒ではこの東条城築城の際、城門の守護として八幡大神を祀るとあります。廃城後は、地元の人たちによって祀られてきたそうです。
この八幡社については、別途神社紹介記事をアップいたします。
本丸(主郭)
(三の丸から本丸を望みます。)
現在、本丸部部には戦国時代の城郭を再現した櫓や城門などが復元されています。織豊期以前の城と言えばこんな感じの櫓、城門などにあと館があったのがスタンダードな城だったんだろうと思います。石垣や天守閣なんかは戦国時代の末期に登場してきたわけで・・・。
城門と共に虎口も再現されている本丸入口になります。
なかなか迫力がありますね。
二の丸方面を振り返ってみます。実際の所、二の丸、三の丸が落とされたら、戦況の挽回はかなり厳しいですよねえ。
東条城址の石碑。本丸の中心ではなく、隅に隠れるように建っているので、軽く本丸を見ただけでは見落としてしまいそうです。
城址石碑の後ろに移っている案内板は、旧法応寺の案内板です。
東条城は、吉良氏から東条松平氏という松平庶流の松平家忠が入城しています。家忠はまだ幼かった為、松井忠次が後見として東条松平家を支えていましたが、1581年、家忠没。東条松平家は家康の四男、松平忠吉が養子に入り継いでいきます。
そんな東条松平家の菩提寺ともいえる法応寺なんですが・・・
現在ではこんな感じで、廃寺後、寺領は売却され現在では土砂採掘場になってしまい、ここに寺社があったことが想像しにくい風景になってしまっています。
案内図には、松井忠次をはじめとする墓石などは花岳寺に移設されていると書かれていますが、花岳寺は、吉良氏の菩提寺になります。
吉良氏の菩提寺の墓所に、吉良氏を攻めて本城を奪い取った東条松平氏、松井忠次の墓を移設するっていうのは、複雑な関係を考えるとどうなの?っていう感じですが。まだ、松井氏菩提寺の正龍寺に移設した方がすっきりした感じはしますね。
吉良町出身の尾崎士郎の「吉良の男」の一説が石碑になっていました。
時の東条城主”吉良持広”は、僅か10歳で岡崎城を追われた仙千代(後の広忠)を見て、哀れと思い身をもってかくまい、数年後、元服の際には自分の名前から一文字を与え、広忠とさせ、15歳の時家臣に守られて岡崎城に帰っていった。次は吉良に悲運が訪れる こんな感じで書かれています。
少し前の年末ドラマの風物詩だった赤穂浪士、忠臣蔵に出てくる吉良上野介義央の先祖である吉良義安の居城だった東条城を是非一度、東条城を訪れてみてください。