松平郷の道路脇に道標が設定されているのですが、高月院周辺を歩いている時に、ふと道標を見ると、その中に「親氏公行場」と書かれた物を見つけたんです。たしか・・・松平東照宮脇にあった観光案内地図では書かれていなかったはず。
松平親氏が修行した場所なんだろうとおもうのですが、観光案内地図に載ってないということは、非常にマイナーな場所なのかしら?と思って向かてみる事に。
高月院を参拝後、墓地の方から裏側(北側)に抜けて市道に出ると、「親氏公行場跡」と書かれた道標が建てられています。この道標の先を見ると上り坂を上がっていく感じです。
道なりに進んでいくと、前方に神明鳥居が見えてきました。この鳥居は、大正五年に八幡神社(松平東照宮)に合祀された神明社の鳥居のようです。今では木々が茂っていますが、昔は参道が続いていたんだろうと思います。
鳥居と元境内地の間には現在林道が横切っています。林道から境内地に繋がる入口を見ると、う~ん、本当にこの先に神社が鎮座していたんでしょうか・・・。
晴れていて、地面が乾いていればそんなに気にせずに登っていけるかと思いますが、雨の日など地面が濡れている時は非常に滑って危険な香りがしてきます。
登った先には巨岩が非常に特徴的な場所に出てきました。この場所は「観音山」と呼ぶ山の中腹になるそうです。
高月院の後山を登る事四十五町、屏風を立てたる如き嶮山あり。観音山と称す。山の中腹に大岩石あり。松平親氏公観音を岩洞に勧請し、其ノ岩上に直立して七日間天に祈り氏所なりと伝ふ。
昭和十一年発刊「松平村誌」
高月院の由緒では親氏が安置した観音像は「親氏傳持の二寸八分の甲中観音金像であった」と記されています。『高月院古記録集成』より
観音像を安置した後に岩の上で直立して七日間(高月院由緒では十七日間)に渡って皇室御開運御家門御再興ノ祈願を行ったと言われています。
ついついアンダーバーを引いてしまいましたが、ここの部分が非常にひっかかる場所になります。松平郷に伝わる伝承では松平親氏は新田氏の末裔であるとは「一言も」触れていません。むしろ「東西を定めず旅をする牢流の者でありまして、お恥ずかしく存じます。」と述べたとしています。そんな松平親氏が自らの傳持の観音像を奉安した後に、皇室御開運御家門御再興ノ祈願を行うでしょうか?
この祈願は何を意味するのかといえば、南朝の復興と新田氏の再興ということですよね。新田氏の末裔であるとする江戸幕府編纂の歴史書に書かれている松平氏の由緒に即した親氏像でしたらこういった祈願をしてもさもありなんって感じなんですが、松平郷に伝わる伝承では違和感を感じしまいますね。
当サイトでも紹介していますが高月院は幕府の直轄といっても過言ではない維持管理を行われていたようで、高月院の由緒も幕府の意向に沿った伝承も記したものが残されているのでしょうね。
大正五年まではこの場所に神明社が鎮座していたはずなので、この建物は神明社の拝殿だったのかな?親氏が安置したという観音像は別の場所に遷座して奉安されている・・・はずです。
所在地を地図で確認
史跡名 | 松平親氏公行場跡 |
所在地 | 愛知県豊田市松平町藤伝地内 |
最寄駅 | 豊田市おいでんバス「松平郷バス停」徒歩20分 |