神社紹介
神社名 | 築山稲荷大明神 |
鎮座地 | 愛知県岡崎市中町小猿塚三十七番地 |
御祭神 | 宇迦之御魂神 |
旧社格 | ー |
創 建 | 建保二年(1214年) |
神名帳 | ー |
境内社 | ー |
例祭日 | |
御朱印 | ー |
H P | ー |
参拝日:2020年11月25日
御由緒
前回紹介した「瑞生山総持寺/紹介記事」の境内に鎮座する総持寺の鎮守社として祀られてきたのが築山稲荷大明神となります。明治時代の神仏分離令の際も、総持寺と稲荷社とで分離さえることなく鎮守社として総持寺の境内に鎮座し続け、現在の場所に遷座した後も総持寺の本堂のすぐ脇にその社を鎮座しています。
総持寺が主で築山稲荷が従の関係の様に見えますが、伝えられている伝承では、主は築山稲荷であり、総持寺はこの築山稲荷を祀る為に創建されたと伝えられているので従という関係性になるのかなと思われます。
順徳天皇(1197年~1242年)の時代、宮中に毎夜妖怪が現れて人を悩ませました。宮中の警護の武士・本間三郎重光が命を受けて弓矢でそれを打ち抜いたところ、それは一匹の白狐でした。その後また帝が病にかかり、治療の効果もないため陰陽博士に尋ねるとこの白狐のたたりで、「重光の所領である三河の菅生郷に、日本六十余州の名山の土を集めて山を築いてその上に稲荷社を建立し、隣に寺を建てて出家した皇女が祈りをささげれば帝の病も癒えるでしょう」と言いました。
それにしたがって建てられたのが築山稲荷大明神と総持尼寺です。創建以来、岡崎の中心地である篭田町内にありましたが、大正の末頃に総持尼寺の伽藍の老朽化がはなはだしかったため、境内地を岡崎郵便局の用地として提供し、昭和5年(1930)に現在地に総持尼寺とともに移転しました。
おかまいり 岡崎十二社四番 築山稲荷大明神 由緒 より
恵比寿神社、徳王稲荷社・金刀比羅社、瑞生山総持寺、岡崎天満宮、そしてこの築山稲荷大明神の由緒は非常に似たというかほぼ同じ由緒を持つ神社仏閣になります。これらに共通するのは、「順徳天皇の御代に皇女に憑いた狐を「本間重光」という武士が打ち抜き、この狐のを全国六十余州の土を集めてつくった築山の上に祀り、稲荷社を勧請したというものです。」
・築山の上に勧請された稲荷社→築山稲荷大明神
・築山稲荷大明神の別当として創建→瑞生山総持寺
・瑞生山総持寺の鬼門守護として勧請→岡崎天満宮
・本間氏の屋敷に祀られていた神社→恵比寿神社
・本間氏の家臣「伴氏」の屋敷に祀られていた神社→金刀比羅社
この中で、総持寺の伝承は江戸時代に作られた創作ではないかとも伝えられていますが、平安末期にこの地域に非常に影響力をもった「本間重光」の存在は江戸時代になっても無視する事ができないくらいの存在だったのでしょう。
徳川家康の正室を「築山御前」と呼ぶことがあります。この築山とは、築山稲荷の築山からそう呼ばれているとも言われている様です。築山御前が居する屋敷が築山稲荷・総持寺のすぐ近くにあったからだそうですが。
霊場を行く
おかまいり岡崎三十六地蔵・岡崎十二社スタンプラリーを巡っている旅ですが、岡崎三十六地蔵一番札所の「東林山大泉寺/紹介記事」の参拝を終えて、岡崎十二社四番札所となる築山稲荷大明神を目指していきます。築山稲荷大明神はその名が示していますが、総持寺の鎮守社となっていて、神社として独立している訳ではないようです。岡崎十二社の中でもひときわ特殊な存在と言えるかと思います。
岡崎城下に鎮座する神社を巡る「おかまいり岡崎十二社スタンプラリー」
かつては岡崎城下に鎮座する十二社を巡る霊場として造られたようですが、その後神社の合祀などがあり、今回スタンプラリーを実施する辺り松平家ゆかりの神社を加えるなどして十二社を再編した「(新)岡崎十二社」として生まれ変わっています。
参拝記
総持寺と築山稲荷大明神の南側には石段の参道が続いています。石段を登った先に、築山稲荷の鳥居が据えられています。総持寺の参道なんだとおもいますが、石柱門というよりは一般住宅の入口を彷彿とさせるブロックによる石柱がたっているので、ぱっと見では寺院参道とは思えないですね。
石段を登った先に据えられている築山稲荷の明神鳥居になります。
総持寺の本堂の脇に鎮座する朱色に染められた社殿とお稲荷さんと言えばこの朱色の鳥居がならんでいる築山稲荷になります。
社殿がかなり急こう配の石段が設けられている一段高くなった場所に鎮座しています。かなり特殊な造りですが、これは由緒にある「全国六十四州の土を集めて(盛土をして)、その上に稲荷社を勧請した。」と関係があるのかな?。遷座前の籠田公園南側に鎮座していた時から築山稲荷の社殿は一段高い場所に鎮座していて、その鎮座していた場所の土をこちらに移した・・・のかな?
そういえば、おかまいりの説明などでは、御祭神は「宇迦之御魂神」としていますが、鳥居脇に掲げられている幟には「吒枳尼天」と書かれています。
じつは、総持寺の本堂の中にも吒枳尼天が奉安されている厨子が安置されていました。そう考えると、築山稲荷は神道と仏教と分離してそれぞれ祀られていたと考えられるのかな?
岡崎十二社スタンプラリーのスタンプ入れが総持寺の本堂脇に設置されていました。寺院で赤色のスタンプ台が設置されているのは実はここだけになります。
地図で鎮座地を確認
神社名 | 築山稲荷大明神 |
鎮座地 | 愛知県岡崎市中町小猿塚37 |
最寄駅 | 名鉄バス「中本町バス停」徒歩7分 |
ご自宅にお札は祀られていますか?
実家には神棚はあっても、今お住いの所には神棚がない方も多いかと思います。神棚には、日本の氏神である"天照大御神"とご自身がお住いの氏神様のお札を掲げると御神徳が宿るとされています。
賃貸住宅などに住まわれて簡単に神棚を掲げられないという方もお勧めなのが、
南向き、もしくは東向きになる様に、そして目線の高さより上になる様に、棚などの上において頂くとよいかと思います。是非、皆様もご自宅に神棚をご用意いただき、御札を納めてほしいなと思います。
明治政府による神仏分離によって、稲荷社は神道の宇迦之御魂神、仏教の吒枳尼天が湧けられて、それぞれが稲荷社を称しています。有名な所では、神道だと京都の伏見稲荷、仏教だと愛知の豊川稲荷になります。もともとは同一視されていた神(仏)になるので、神仏分離令でスパッと分ける事は中々難しかったのではないかと思います。