知多四国八十八ヶ所 知多郡武豊町

御嶽山 大日寺(武豊町ヱケ) 知多新四国霊場 二十二番札所

2018年12月6日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

寺院情報

寺院名 御嶽山 大日寺
所在地 愛知県知多郡武豊町ヱケ屋敷六十八番地一号
御本尊 大日如来
宗 派 西山浄土宗
創 建
札 所 知多四国霊場 二十二番札所
御朱印
H P

参拝日:2018年5月23日

知多新四国霊場公式ホームページのご紹介


http://chita88.jp/

沿革・由緒

ここ大日寺の御本尊である大日如来は天平年間に創建された、当時七堂伽藍を備え三百坊の僧堂を有した知多尾州第一の巨刹といわれた御嶽山光照院(西浦本宮山麓にあり)に奉安されていました。

永禄年間の織田氏と今川氏の戦いで一山ことごとく炎上した時篤住の武士によって、今の大日池に埋められました。それから九十七年後の明暦年間、長尾村領主大嶋氏自ら奉行する池の灌漑工事中に池の中より発見され、領主の夢枕に立った大日如来の「長尾村の草庵、観音堂(現大日寺)に合祀されたい。」との仏意により、ここに移され、堂名も「御嶽山大日堂」に改められ、以来明治初年まで、二百余年間、長尾村の支配寺であったのです。戦前までは「雨乞い寺」と呼ばれ、御祈祷をあげ、勇み太鼓を鳴らして雨乞いを行っていたといいます。

「知多四国めぐり」より


御嶽山光照院は、行基菩薩が開基と伝えられ、桓武天皇の勅願寺であったそうです。
知多四国めぐりでは永禄年間に灰燼に帰すとされていますが、武豊町観光協会には織田信長の次男信雄(徳川家康が与する)と羽柴秀吉が対決した小牧長久手の戦いが行われた天正十二年前後に兵火によって灰燼に帰したとされています。

現在でも大日如来が発見された大日池は残っているそうです。

本宮山の東側の山麓に作られたため池が大日池と呼ぶそうです。
本宮山には現在、本宮神社が建てられており、昔からこの辺りの人達の信仰を集めてきた山なのかもしれませんね。

知多四国霊場を行く

二十一番「天竜山 常楽寺」を後にし、半田市を抜け武豊町に鎮座する二十二番札所「御嶽山 大日寺」に向かいます。

常楽寺の前を走る国道247号線から県道467号線を経由して「武豊平井橋交差点」を左折、名鉄河和線「上ゲ駅」を過ぎると、すぐに左手に大日寺が見えてきます。

大日寺の正面に大日寺前交差点があるので、まず通り過ぎることはないかと思います。
大日寺交差点を超えるとすぐに駐車場があるので、やはりこの辺はゆっくり走られることをお勧めします。

参拝記

名鉄河和線「上ゲ駅」(あげ駅と読みます)から目と鼻の先といってもいいくらい交通アクセスがいい札所ですね。
ちなみに、次の二十三番札所「蓮花院」は黄色く塗られ国道247号線沿いに鎮座していて、400mほどの距離に建っています。

境内入口

新四国第廿二番札所と書かれた石柱標が目立つ境内入口になっています。

山門

薬医門に袖壁が設けられた山門になります。
石段の脇にバリアフリーのスロープが設けられていますね。

手水舎・水盤

銅葺木造四本柱タイプの手水舎になります。

本堂

入母屋造瓦葺平入向拝が設けられた高覧付き廻縁のある本堂になります。
こちらの本堂に、大日池から見つけられた大日如来が安置されています。

普段は厨子の中に安置されていますが、毎年3月の第一日曜に御開帳されます。

弘法堂

パッと見わかりにくいですが、入母屋造妻入向拝の設けられた弘法堂になります。

境内向かって左側に弘法像が安置されていて、右側には十一面観世音菩薩が安置されてます。
弘法堂の前面は様々な木札や納札なのが張られていて独特な雰囲気になっています。。

厨子に収まっている大師像になります。

「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」・・・

知多四国霊場の道標が大日寺の片隅に集めあれていました。周囲の宅地開発、区画整理などで行き場を失くした道標がここに集まったんでしょうね。

稲荷社

弘法堂の脇には、鎮守社である豊川稲荷社が鎮座しています。
ん~、いや・・・鎮守社といっていいのかな・・・。稲荷社は明治政府の神仏分離策によって神社系と寺院系と分けられているんです。寺院系の代表は伏見稲荷大社になりますね。寺院系の代表は豊川稲荷でしょうか。

稲荷神は「宇迦之御魂神」であるとされています。そしてそれは、密教の中で語られていた「荼枳尼天」と同一視され、さらに時代が進んでいくと、農業神から工業神・商業神・屋敷神など福徳開運の万能の神と信仰の幅がどんどん広がっていきます。ちなみに、「荼枳尼天」は空海が真言密教として日本に伝えたんだとか・・・。

神仏分離策で、稲荷神を祀る多くの神社は「稲荷神=宇迦之御魂神」として存続をしたのに対し、伏見稲荷の神宮寺であった愛染寺から「荼枳尼天」を勧請さえていた寺院系の稲荷社にいたっては、廃絶されるか、もしくは「稲荷神=宇迦之御魂神」として神社系に替わっていくかの道を選ばざるを得ない状況になってしまいました。そんな中、廃絶を逃れたのが豊川稲荷でして、「稲荷神=荼枳尼天」として祀っています。

まあ、何百年もかけて育まれてきた宗教観をある日、ごろっと変えていく訳ですから、明治時代は一般庶民も社会の動きについていくのが大変な時代だったんじゃないかなと思ってしまいますね。

あっ、ちなみに、豊川稲荷は寺院系と言いました。参拝する時も合掌するのみです。神社系の稲荷社は、再拝二拍手一拝になります。参拝の方法も同じ稲荷なんですが異なってきてしまうんですよね・・・この辺りが難しい・・・。

みたけ観音

大日寺の境内の一角に非常に印象的な観音立像が建っています。
朱塗りになっていたのかな?全体的に赤っぽいですね。

そして、この優しいお顔。なんか惹き込まれます。

この観音様、昭和63年から平成元年にかけて奉納されたコンクリート製の観音像になります。
平山氏という元左官業をされていた方が、引退後にコンクリートで観音様を作成し奉納したものなんだとか。実は、知多四国霊場の札所の何ヶ所かに平山氏が作成した観音像が奉納されているそうですので、探してみるのも楽しいかもですね。

御朱印

参拝を終えて

田圃や池の中から仏像が出てきて、寺院を開創したり、近くの寺院に安置するといった話は日本全国にあり枚挙に暇がないと言っても過言ではないかと思います。

実際、何もない所から仏像が出てくるという事は、現代の知識ではありえないこととされています。ってことは、発見される前に誰かが鎮めた訳で、平安末期や鎌倉時代末期、戦国時代などの全国的な動乱期に兵火から本尊などを守る為に、寺院の近くの池に本尊などを鎮めたという事なんでしょう。ただ、戦が終わりその地域が平穏になっても引き上げなければ、人々の記憶から消えていく・・・。そして何十年後に誰かが引き揚げ、「こんな所から仏様が出てきた!」となるわけですよね・・・。そして、鎮めた仏像などがすべて引き上げられているとは考えられないんですよね・・・。

もしかしたら、まだ日本のどこかの田圃や池の底には、国宝級の仏像が眠っているかもしれませんよ?

次の目的地は

二十二番札所「御嶽山 大日寺」の参拝を終え、次は二十三番札所「意竜山 蓮花院」に向かいます。

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