寺院情報
寺院名 | 白華山慈雲寺 |
所在地 | 愛知県知多市岡田太郎坊一〇八番地一 |
御本尊 | 千手千眼観音 |
宗 派 | 臨済宗妙心寺派 |
創 建 | 観応元年(1350年) |
札 所 | 知多四国霊場 七十二番 知多西国観音 十九番札所 知多西浦大師 十六番 知多百観音 八十四番 |
御朱印 | 〇 |
H P | - |
参拝日:2018年11月14日
知多四国霊場札所一覧
沿革・由緒
岡田村字太郎坊に在り。境内壹千百三坪、臨済宗、京都妙心寺末たり。観応元年(1350年)一色範光の創建にして夢窓疎石(夢窓国師)の開山たり。範光の芳名を慈雲寺殿と云ふ因て以て寺名とす。明徳の頃池魚の災いに罹り唯観音堂一宇を存す。これにより住僧を欠く久し。明暦三年虎渓和尚中興す。その後萬治三年三月本村地頭國臣寺尾直龍諸殿堂を修造重建す。初め京都相国寺の末たり。寛文六年三月八日今の属となる。同八年直龍地を寄付す。天保に至り又本堂を改造せり。今蔵する所の寺宝一色禅門悼文及其他数種あり。
明治二十六年発刊「愛知県知多郡誌」より
一色範光は、一色家五代目惣領であり、父「範氏」と兄「直氏」は九州平定の為に九州探題として派遣されており、範光もこれに従軍していたと思われます。しかし、九州平定に失敗し一色家は京都に敗走し、この時に一色家惣領は「範光」に譲られたと言われています。範光はその後も将軍家の信頼を得て、再び九州遠征の軍を率いたり、若狭国守護、三河国守護を相次いで任ぜられています。
その九州遠征以前の観応元年(1350年)に、範光は大野城を築城します。当時、大野谷と呼ばれる地域は、桑名と海路を結ぶ伊勢湾交易の重要な港町だったとされています。大野城を中心に伊勢湾を支配し、知多半島を挟んで三河湾にも影響力を拡大していき、両湾の海運を抑えることで莫大な資金源としていたのではないかなと思っています。息子「詮範」の時代には「尾張知多分郡守護」にも任ぜられ伊勢湾&三河湾の支配を確立し、まさに一色家の絶頂期を迎えていきます。
範光は由緒にもある通り観応元年(1350年)に大野城内に慈雲寺を創建します。この時、開山には七朝帝師とも呼ばれる「夢窓疎石」を迎えています。全国の安国寺の造営、京都五山の第一位である天龍寺の開山である「夢窓疎石」を迎える事ができた事は、当時に一色範光がいかに将軍家に近い立場だったのかがわかる事例ではないでしょうか。その後、詮範によって現在の場所に移転され、範光の墓が建立されたと言われています。
一色氏発祥の地である一色町を尋ねています。
大野城の鬼門除けとして建立された蓮台寺
現在では、蓮台寺の境内に塔頭で知多四国霊場の札所の「小倉山三光院」が移転しており、知多四国霊場の御遍路さんで参拝者が非常に多く訪れるようになったと思います。
参拝記
県道252号線大府常滑線にあるT字交差点の「太郎坊交差点」所に寺号標と寺院正面入り口があるのが「白華山慈雲寺」です。
寺号標横には、車の乗降用の駐車場が用意されています。参拝時の駐車場はもう少し東側にある「岡田稲荷」という社号標が据えられている所から慈雲寺に向かうと用意されています。
境内入口
太郎坊の交差点の所にある慈雲寺の参道入口になります。
達筆な書体で彫られているので読みずらいですが、向かって左手側には「新四国七十二番慈雲寺」、右手側には「千手観世音馬頭観音白華山」と彫られている様です。
知多四国を巡ってきた中でも、ここまではっきりと境内に続く参道が残っている寺院は記憶がないです。車社会になる以前の寺院の雰囲気を今に残している感じがしてつい見入ってしまう風景です。
ところで、寺号標の裏側には札所案内石柱が建てられているのですが、そこでまた知多半島を霊場とする新たな弘法大師霊場の石柱を発見してしまいました。
右手の小さい石柱は知多四国霊場七十二番札所の案内石柱で、左手の石柱には「知多西浦二十一弘法大師十六番札所」と彫られた案内石柱になります。
知多西浦という名称はあまり聞いたこと無いのですが、もしかしたら、三河湾側となる東浦とは半島を挟んで反対側の伊勢湾になるこの周辺を"西浦"と呼んでいたのかもしれません。ただ、普通に西浦でGoogle先生で検索すると"蒲郡市西浦町"もしくは"西浦温泉"がHITとしてしまい、知多半島の西浦で更に検索かけても、依然存在し常滑市となっている"西浦町"くらいしか出てこず、いまいち確証が持てない感じですかね。
追記
色々調べていたら、西浦十四ヶ村という知多郡の大きな区分けがある事がわかりました。
藪・横須賀・大里・名和・大高・長草・吉川・木田・荒尾・姫島・半月・加木屋・寺本・佐布里
の十四村を称して"西浦"を呼ぶみたいです。大高といえば名古屋市のあの"大高"だろうと思いますので、名古屋市から東海市、知多市の辺りを西浦と呼ぶみたいですね。
知多西浦大師二十一霊場を調べてみました。
山門
袖壁が設けらえた四脚門の山門になります。
見上げる感じの為感じるのかもわかりませんが、四脚門のわりに屋根が小ぶりな気がしないでもないです。
山門越しに見えるのが、本尊である「千手千眼観音菩薩」が奉安されている本堂(観音堂)になります。当サイトの基準で、本尊が奉安されている建物を本堂と称していますので、他サイトで紹介されている内容とは少し異なる事があるかもしれませんがご容赦ください。
手水舎
木造瓦葺四本柱タイプの手水舎になります。
水盤に合わせてかなり間口が広い造りになっています。
本堂
寄棟瓦葺平入の向拝と濡れ縁が設けられている本堂になります。
こちらの本堂には、観音様が携えて降臨されたという “雨乞いの壺” が保管されているそうですが・・・雨乞いの壺とは・・・・?。
「遠い昔のある夏、大変な日照りに悩んだ村人たちは、慈雲寺の和尚に相談に行きました。村人の話を聞いた和尚は、一対の古い壷を持ってきて、観音堂の裏の池の水を汲み、観音様に一心に祈ったところ、天の水をひっくり返したようにざあざあと雨が降り始めました」
実際、200年ほど前まで雨乞いの祈祷で使用されていたそうです。
大師堂
寄棟瓦葺平入の前面に庇が設けられている大師堂になります。
「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」・・・
一色範光の墓
瑞垣で囲まれている五輪塔の墓石が「一色範光」の墓になります。
範光は一色氏を「室町幕府の軍事指揮と京都市中の警察・徴税等を司る侍所の長官」に交代で任ぜられる守護大名の赤松氏、京極氏、山名氏らと共に「四職」に名を連ねるまでになります。
若狭国、三河国の守護大名となりならがらも、知多半島大野に菩提寺がある事から、その当時の一色家の中枢が大野城に在ったという事を示しているのではないかと思います。
鎮守社:白山社
慈雲寺の鎮守社である白山社と火伏の神である秋葉大権現の合祀殿が境内の一角に設けられています。
明神鳥居の先の石段を上った先に合祀殿が鎮座しています。
白山権現と秋葉権現は神仏分離令によって菊理媛神を祀る白山社と加具土命を祀る秋葉神社に強制的に変えられているはずなのですが、各寺院などにある鎮守社にはそこまで徹底的に管理されていた様子はなく、ここ慈雲寺の白山社の様に「権現」が神仏習合の時と同じように祀られている所をしばしば見かけます。
御朱印
参拝を終えて
本来なら本堂と呼んでしまいそうな客殿になります。向拝が設けられていない為、かなりすっきりとした外観になっていると思います。
この慈雲寺が建っている岡田地区は、江戸時代、明治時代の遺構が数多く残っている様で、観光にかなり力を入れている地区になります。今回は残念ながら岡田地区を散策する時間がとれなかったので、次回機会があれば是非周辺をゆっくりと散策していきたいと思います。
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やはり、旅先の情報はネット検索もいいですが、るるぶなどの旅行ガイド雑誌が一番ではないかなと思います。ネット情報はどうしてもディープになりがちで、いざ旅行に行こうと思っても、俯瞰的な情報が不足しがちな気がします。 やっぱり、"るるぶ"を見ながら、旅の予定表を作っていくのも、旅行の醍醐味ですよね。
所在地を地図で確認
寺院名 | 白華山慈雲寺 |
所在地 | 愛知県知多市岡田太郎坊一〇八番地一 |
最寄駅 | 知多バス岡田線「大門前バス停」徒歩1分 |
寺院・霊場巡りの際のバイブルに
元々、当サイトは神社巡りを通じて、皆様の住んでいる所にある"村の鎮守の神様"と呼ばれる神社を紹介してくサイトを目指していたんです。むしろ寺院については、縁遠いものとおもっていたんですよね。しかし、ちょっとした御縁で弘法大師霊場に出会い、そして愛知県では一番活動が盛んな"知多四国霊場"を巡礼、結願する事になりました。でも、神社の事はある程度知識があっても、寺院については未知の世界だったので、少しでも巡礼の時に役に立てばと思い、こちらの本を読ませて頂いております。
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少しでも巡礼の時にお役に立てる事もあるかと思います。是非一度読んでみてくださいませ。
次の目的地は?
知多四国霊場を行く10日目もここ慈雲寺を納経を終えたところでタイムアップとなってしまい、岡崎に戻ることに。次回知多四国霊場を行く11日目は、「佐布里五箇寺」とも呼ばれている「雨宝山 正法院」とその末社(以前は塔頭)を納経していきます。