神社紹介
神社名 | 泥江縣神社 |
鎮座地 | 愛知県名古屋市中区錦一丁目七番二九号 |
御祭神 | 應神天皇、神功皇后、姫大神 |
旧社格 | 郷社 |
創 建 | 貞観元年(859年) |
神名帳 | 三河国神名帳 従三位泥江縣天神 |
境内社 | 菅原天神社、秋葉社、住吉社、蛭子社、五条天神社、金刀比羅社、八神社、楠社 |
例祭日 | 十月九日 |
御朱印 | 〇 |
H P | - |
参拝日:2019年12月11日
御由緒
今回参拝する「泥江縣神社」は、「清州越し」以前から名古屋城下となる地に鎮座していた神社になります。「ひじえあがたじんじゃ」と読みます。
三河国神名帳の「従三位泥江縣天神」として名を連ねる神社でもあるようです。
当神社は、尾張本国帳に従三位泥江縣天神とあり、清和天皇貞観元年(859年)豊前の国、宇佐八幡宮からこの地に勧請せられ当時境内八丁四方あり応永二十六年修繕、遷宮、社殿は古社寺保護建造物に指定せられ、徳川時代には藩主を初め一般民衆の崇敬厚く広井の八幡と称して親しまれ大祭には豪華な神輿をはじめ氏子、各町の仐鉾車が出て白山神社への神輿渡御武者行列などあり名古屋名物であった。
それが、昭和二十年三月十九日の戦災で烏有に帰し復興したが昭和四十一年不審火に依り再度焼失した。幸いにも二度共御神体は御無事であり再興して今日に至った。
「境内由緒書き」より
「泥江縣神社」が鎮座する場所は「熱田台地」と呼ばれる台地になります。熱田台地の北西角に当たる場所に「名古屋城」が築城され、南西角に「熱田神宮」が作られています。名古屋城から熱田神宮に真っ直ぐ線を引くと、熱田台地の西端の境になり、この境に沿うような形で、徳川家康の命により「福島正則」が掘削したという「堀川」が流れています。熱田台地より西側に当たる場所は、元々は海であった場所であり、縄文時代以降になると徐々に海岸線が後退し始め、有史の頃になると低湿地となっていた様です。江戸時代の頃には、干拓地が徐々に広がり、田園が広がる様な場所だったのではと思います。
人々は熱田台地に住み、西側に広がる低湿地に田を干拓開墾して過ごすという場所だったのではないでしょうか。そんな地に、どういった経緯があって豊前国の宇佐八幡宮より勧請を受けて此の地に八幡神を祀る事になったのかは、書かれていませんね。
愛知県神社庁が発刊している「愛知県神社名鑑」には、
「国内神名帳」に従三位泥江縣天神とあり。泥江転じて広江となり又広井と呼ぶ。社記に清和天皇の貞観元年(859年)宇佐より勧請し、天正の頃より広井八幡宮と称して名古屋城築城以前は御園町、伝馬町、葮町、材木町まで広大な境内であった。応永、永禄、慶長、寛永(1394-1624)に重修あり。寛文二年(1662年)二代藩主徳川光友が修営し貞享四年(1687年)造営する。元禄十三年(1724年)二月七日と享保九年(1724年)五月十三日両土の大火に炎上する。社殿は勿論山車などみな焼失したが笠鉾車のみ健在なり。明治五年村社に列し、同十五年郷社に昇格した。昭和二十年の空襲で社殿重宝みな焼失し同三十六年復興せしも同四十年二月五日不審火にて社殿炎上するも御神体は安泰にて同四十二年十月に社殿復旧した。
とあります。
しかし、よく火事で社殿を焼失している神社ですね。神社名鑑に書かれているだけで、四回も炎上しています。しかも最後の一回は不審火ですからね・・・。原因が浮浪者が境内で焚火をしていたら燃え移ったなんていう話もあります。
名古屋二十一大師霊場を行く-寄り道遍-
名古屋二十一大師四番札所「摩尼山延命院」と五番札所「如意密山福生院」の納経を終え、なかなか「泥江」とかいえ「ひじえ」とは読めない難読な神社名である「泥江縣神社」に参拝していきます。2018年、2019年と夏場に大変お世話になった方がこの神社の祢宜を勤めていまして、当日いらっしゃらないのは解っていながら、やっと名古屋のこの地に来ることができたので参拝していく事にした次第です。ただ、この栄から伏見あたりは、あちこちが一方通行になっていて、全く土地勘のない自分にとって、すぐ目の前のなのになかなか神社にたどり着くことができませんでした。
参拝記
ビルに囲まれた境内の「泥江縣神社」です。神社の前を通る道路をそのまま東に向かうと、「延命院」「福生院」に向かう事ができます。二カ寺よりも先にこちらを参拝するべきだったかと行ってから気付いているので、後悔先に建たずって感じです。
境内入口
社号標と明神鳥居、灯篭が据えられている境内入口になります。不審者対策なのか、鉄製の門が用意されています。夜間は閉じられるのかな?
丁度参拝した時は、まだお昼休み中の時間だったようで、社号標の前でお弁当を売っていましたので、邪魔にならないようにこんなアングルからの撮影になっています。
鳥居
扁額のない明神鳥居になります。笠木が反っていないので、さらに細かく分けると「八幡鳥居」という形式の鳥居になるようです。
手水舎・水盤
銅葺木造四本柱タイプの手水舎になります。よく見ると、水盤手前側には、跳ね返り防止のための仕切が据えられています。さらにいえば、水盤自体が中心線ではなく手前側にずれておかれている様に感じます。
社殿
コンクリート造りの独特な様式の拝殿になります。
切妻造の向拝が設けられ、拝殿中央部分が土間の様になっていて、拝殿の中で参拝できる感じになっています。
境内社
中央に蛭子社、その左右に境内社が並んでいます。
なりやらここの蛭子社は「つんぼ蛭子」と呼ばれているようで、耳が遠い蛭子様なんだとかで、昔は社殿を叩いてから参拝していた様ですが、現在は魚を模った板を木槌で叩いてから参拝する形になっているようです。
木槌でたたかれまくっている一部は表面がはがれてしまっています。
鎮座地を地図で確認
神社名 | 泥江縣神社 |
鎮座地 | 名古屋市中区中区錦一丁目七番二九号 |
最寄駅 | 名古屋市営地下鉄 東山線・鶴舞線「伏見駅」徒歩8分 |
次の目的地は?
名古屋二十一大師霊場二十番札所「普照庵龍福寺/紹介記事」を目指します。