名古屋市中区

闇之森八幡社(名古屋市中区正木二丁目)名古屋十名所

2023年1月14日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

ONE POINT

 名古屋十名所に選ばれいてる名古屋市中区正木に鎮座する「闇之森八幡社」の紹介です。平安時代末期の武将「源為朝」が創建したという為朝伝説が残る場所であり、その血統とする尾頭氏、鬼頭氏の所縁の神社になります。

神社情報

神社名闇之森八幡社
鎮座地愛知県名古屋市中区正木二丁目六番地十八(Googlemap
例大祭十月十五日
創 建長寛元年(1163年)
御祭神應神天皇
神功皇后
仁徳天皇
旧社格郷社
神名帳

境内社

境内社御倉社
稲荷社
榎白龍大神
楠黒龍大神
尾頭神社
山神社
秋葉社・香久土社
熱田社・天王社
春日社
神明社
弁天社
大黒社

文化財

国 宝
国指定
県指定
市指定
町指定
村指定

参拝情報

御朱印
URLhttps://www.facebook.com/kuragarinomori/(公式Facebook)
駐車場
参拝日2022年4月13日

御由緒

 天保15年(1844年)に尾張藩により編纂された「尾張志」によると、長寛元年(1163年)に源為朝によって創建されたと伝えています。
 しかし、源為朝は保元の乱(1156年)において崇徳上皇方となるが敗北し近江国に逃亡するが約一月後に捕らえられ伊豆大島に島流しとなっており、伝えられている長寛元年(1163年)には伊豆大島を始めとする伊豆諸島をその勢力下に納め年貢を拒否するなど朝廷に対して反抗的な行動を行っていた時であり、この長寛元年(1163年)に為朝が尾張国を訪れる事はまず不可能だったと思われます。
 日本の歴史上、特に武勇に優れていた武将などは各地に○○伝説という事で様々な伝承が伝えられていたりするのですが、尾張志で紹介されている闇之森八幡社の創建については為朝伝承の一環なのかもしれません。

源為朝とはどんな人?

 河内源氏五代棟梁「源為義」の八男として保延五年(1139年)に生誕する。兄弟には源義朝(源頼朝、義経の父)、義賢(木曽義仲の父)などがいる。

 七尺(2m10cm)の巨漢だったと伝えられ、無双の強弓の使い手として知られた武人。幼い頃から気性が荒く乱暴者であったことから父為義により九州に追放されたが、わずか数年で九州を制圧してしまうが、その狼藉ぶりから久寿元年(1154年)に朝廷より出頭命令が下り、翌久寿二年(1155年)に上洛した。その後起きた保元の乱において父為義は上皇方の大将として招かれた事から為朝も上皇方として天皇方についた兄義朝と敵対することになります。
 為朝は夜討を提案するが左大臣藤原頼長によりその策は退けられ、逆に天皇型が上皇の御所「白河北殿」へ夜討を仕掛け、為朝が守る西門には平清盛の軍勢が押し寄せたが為朝の放った矢が清盛の郎党伊藤忠直の体を貫いた事から平清盛の軍勢は西門を避けて北門に向かい、変わって源義朝の軍勢が西門に攻め寄せてきた。義朝が引き連れてきた坂東武者二〇〇騎と為朝が引き連れてきた鎮西武者二十八騎が激突して激戦が繰り広げられるが、天皇方の火攻めにより白河北殿が炎上し、上皇方は総崩れとなり、為朝も逃げ落ちていきます。
 為朝は東国に逃げ延びる事を提案するが父為義や兄弟たちは出頭するが勅命により義朝により斬首されてしまうが、為朝はその後も逃亡を続け近江国に隠れるが一月ほど過ぎ、近江国坂田にて湯治をしていた所を囲まれ素っ裸で捕らえられ、京へ護送される事になります。父や兄弟同様に斬首となる所を強弓を惜しまれて助命され伊豆大島に流罪となります。
 元々大男で乱暴者だった為朝は伊豆でもその傍若無人ぶりを発揮して十年ほどで伊豆七島を制圧し自立の動きを見せた為、嘉応二年(1170年)領主である工藤茂光により討伐軍が送られ自害した。享年32歳。

 全国には為朝の豪勇ぶりから様々な為朝伝説が残っているという。

 自害したはずの源為朝が伊豆大島から脱出して琉球に向かい、そして琉球王となった。というまるで源義経が平泉から逃げ延びてモンゴルにてチンギス・ハンになったという伝承と同じような小説が江戸時代に書かれています。滝沢馬琴:著、葛飾北斎:画による「椿説弓張月」という読本になります。文化四年(1807年)から文化八年(1811年)にかけて発刊されています。
 この中の第二十四回「渦丸夜鬧逢日 浦嶋君潜赴尾張路」の中で
 「伊豆大島から逃げ延びた為朝は、讃岐国の崇徳上皇の御陵に参る為に嶋君を連れて自ら船を漕いで大海原を進み、秋には讃岐軍多度郡の逢日の浦にたどり着いた。追われる身である事もあり日中ではなく夜深くなってから参拝しようと船で時が過ぎるのを待っている時、近くの船では主従十余名が酒盛りをしていた。酒が進んだ頃、蜘手の渦丸という海賊の一味がこの船に襲い掛かった。深酒の為満足に抵抗できず切り倒されていく様を見た為朝は船に乗り移り助太刀し、あっという間に賊を追い払った。この船の主人と対面すると、「あなたは四月下旬に討ち死にしたと伝えられた八郎御曹司(為朝)ではないか。」と言われ、為朝は警戒しつつその顔を確認すると兄義朝の舅で熱田神宮大宮司の藤原季範であった。その関係から熱田に来ることを勧めるが、為朝は連れてきた嶋君を藤原季範に託し、尾張への誘いを断り、船を降りて去っていった。その後、嶋君は藤原季範の子犬稚丸と婚姻を結んでいます。犬稚丸は元服して源義實と名乗り、夫婦仲睦まじく二子をもうけた。」
 と記しています。さらにこの続きで

 「張府の南、大渡村に「為朝塚」と呼ぶ所あり。その地闇森に、為朝の禿倉ほこらあり。今は八幡と称するよしをいへり。おもうに判官義實、その父為朝の墳墓を大渡に築き、又その霊を闇森に祀れるにや、家譜には義實を為朝の實子とす。島君の事、この末に話なし。」

 とあります。この部分が滝沢馬琴による創作なのか、古くより闇森に伝えられている伝承を紹介しているのかは不明ですが、闇之森八幡社創建の謎ときの一つになるのではないでしょうか。

 闇之森八幡社の境外社となっている榎木白龍大神の境内に「追遠報本」という石碑が据えられています。現在ではその表面がはがれてしまっており判読が非常に難しい物になっていますが、これは闇之森周辺が発祥の地とする「鬼頭氏」の系譜が彫られていたそうです。この石碑と闇之森八幡社の境内社である「尾頭神社」の由緒を合わせると、もう一つの創建の由緒が見えてきます。

「追遠報本」抜粋

 源為朝が伊豆大島で自害した時、為朝との子を宿していた妾が難を逃れ伊豆大島を抜け出て上方へ向かう道中、尾張国古渡の地で男子を出産した。後に「尾頭次郎義次」と称するこの子は父に似て手の付けられない無法者となり、古渡の百姓を困らせる存在となっていった。百姓たちは都に上り義次の処分を陳情し、帝は義次を内裏に呼び寄せ、紀州焼山の鬼退治の勅命を発します。義次が鬼に討ち取られる事を願った勅命だったのですが、義次は鬼を退治して都に戻り、その頭を帝に献上した。帝はその功績をたたえ、古渡の領地の安堵と「鬼頭」の姓をお与えになられた。義次は古渡の闇之森に八幡社を創建し氏神とし、元興寺の伽藍を整備造営し祈願寺とした。その後、義次が正元二年(1260年)に没すると義次に縁のある者達が御霊を慰める為に義次の鎧を埋めた鎧塚の小丘の辺りに社を建立したという。明治十六年(1893年)に社を再建、尾頭神社と称し、義次の他に為朝、景義を合祀した。

 古い石碑あるあるなんですが、表面部分が風化によって剝離してしまっています。当然剥離してしまうと読むことが不可能になってしまうので、この種類の石材を使っている場合定期的なメンテナンスが必要なんでしょうけど・・・難しい問題ですね。

榎木白龍大神

 闇之森八幡社の南側、JR/名鉄線の線路の北側に境外社となる榎木白龍大神の境内があります。この境内に、白龍大神の社が鎮座しその脇に追遠報本の石碑が据えられています。

 こんな感じの由緒が見えてきます。尾頭周辺は「鬼頭氏」発祥の地とも伝えられている場所になるそうで、闇之森八幡社は鬼頭氏の庇護を受けていた神社になるようです。この鬼頭氏は国人衆として織田信長・豊臣秀吉の時代まで続いており、織田信雄の改易の時に武士を捨てている様ですが、江戸時代を通じて名士として続いています。

 どの由緒にしても、キーパーソンは「源為朝」になるのは間違いありません。JR/名鉄線を越えた南側には「為朝塚」であったとも伝えられている「尾頭塚」があります。ここ古渡の発展に「源為朝」の一族が深く関わっているという事になるかと思います。

 古くは若宮八幡社、俗にくらがりの森八幡という。『尾張志』に源為朝の長寛元年(1163年)の創建とする。永正十八年(1521年)十一月、鶴見道観ら造営した。徳川時代には二月初午、十一月初辰に神事を行い饗を神殿上にはなちて烏にはましめる烏祭あり、明治五年、村社に列格し、明治十五年九月社殿を改造明治三十一年一月、指定社となる。昭和六年十二月十日、郷社に昇格した。”御手洗池に昔片目鮒あり捕えて祈り、快癒の後鮒二尾をそえ池に放つ。これらの鮒みな片目となれりという”『名陽図会』昭和二十年空襲にて本殿、弊殿、拝殿被災。昭和二十二年本殿、拝殿完成。昭和三十四年九月二十六日伊勢湾台風により再び被害。昭和三十五年十月十日、本殿、拝殿完成式を行う

愛知県神社庁発刊「愛知県神社名鑑」

御祭神

  • 應神天皇
  • 神功皇后
  • 仁徳天皇

御朱印帳の保管に

 数年前より非常に集める方が増えた「御朱印」ですが、皆様は御朱印帳はどうやって保管していますか?神社・仏閣を廻って御朱印を受けているとあっという間に御朱印帳の冊数が増えていきますが、そのまま棚などに置いている方が多いのでは?。せっかくお受けした御朱印ですので、日本では古くから着物を始めとして大切なものを保管する為に使われていた「桐箱」に入れて保管した方がよろしいかと思います。

 ぜひ、皆様も桐箱に御朱印帳を保管されてみたらいかがですか?

愛知県下新十名所を巡る

 2022年のメインの企画「愛知県下新十名所」ですが、今回から第六弾の遠征となる今回は名古屋城近くにある「京町薬祖神」を目指してバイクを走らせていきます。
 熱田区の「住吉社/紹介記事」を後にして、再び国道247号線を北上していきます。名古屋駅に続く総合駅である「金山駅」を超えて「九丁掘交差点」を左折すると今回参拝する「闇之森八幡社」に着きます。

 この闇之森八幡社は愛知県下新十名所の前に選定された「名古屋十名所」の一つに選ばれています。名古屋十名所も併せてルート上にある場所を寄っていく事にします。

愛知県下新十名所と名古屋新十名所巡り
ー京町薬祖神・闇之森・榎ノ権現・久屋金刀比羅社ー

参拝記

 金山駅の北西、名古屋市立伊勢山小学校とは名古屋市道「正木古沢町線」を挟んで北側に今回紹介する闇之森八幡社は鎮座しています。正式名称は「八幡社」なのですが、江戸時代からつたられている「闇之森」を関した社名で知られています。
 境内の一部は月極駐車場として貸し出されていて、見た限りでは参拝者用駐車場は一台分は用意されている様なので、車で参拝される際は注意が必要かと思います。

境内入口

 石造りの瑞垣で囲まれた境内入口には、社号標、石造灯篭、幟立ポール、扁額付き明神鳥居などが据えられています。さらには、名古屋市教育委員会によって案内板が建てられています。

名古屋十名所

 社号標の脇には「名古屋十名所」と彫られた石柱が建てられています。(写真では十名所部分が草で隠れてしまっています。)この名古屋十名所は当サイトが追いかけている愛知県下新十名所に先立つ大正十三年に新愛知新聞社による読者投票によって決定された名古屋市内の新しい十名所になります。ちなみに、ここ闇之森八幡社は投票戦の結果135,982票を集めて第二位に選出されています。

 名古屋十名所の内、既に当サイトで紹介している「天林山笠覆寺(通称:笠寺観音)/紹介記事」にてもう少し詳しく説明していますので、是非こちらも参照してみて下さい。

 青銅製?っぽい扁額には「闇森八幡社」と彫られています。

 まったく触れてきませんでしたが、この辺りはその「闇森」が示す様にうっそうとしげった森が覆っていた場所であり、この森の中に八幡社が鎮座していた様です。何時までそんな鬱蒼と茂った森が広がっていたのかは不明ですが、明治以降の都市開発と太平洋戦争による空襲によりその森は消滅してしまいかつての雰囲気を感じる事が出来なくなってしまっています。

手水舎

 木造銅板葺四本柱タイプの手水舎になります。屋根部分は近年修繕された様で、真新しい板と銅板が輝いています。

蕃塀

 木造銅板葺きの屋根が設けられた蕃塀です。柵でみえにくいですが、両端にそれぞれ支え柱が設けられています。

二の鳥居

 蕃塀の先には石造神明鳥居の二の鳥居が据えられています。

狛犬

 生まれた年月は調べ忘れてしまいましたが、前回紹介した「住吉社/紹介記事」によく似た狛犬です。

蝋燭台

 名古屋地区の社殿様式には欠かせない存在?になっている蝋燭台になります。

社殿

 切妻造銅板葺妻入りの唐破風の向拝が設けられ、拝殿部分が土間敷きとなている拝殿を有する社殿になります。拝殿、幣殿、本殿が一体となった造りになっています。

神楽殿

 入母屋造銅板葺き妻入りの神楽殿になります。社殿と同様の建築様式となっている事から同時期に造営されたかと思われます。

境内社

 闇之森八幡社の創建に係っているとされる「尾頭次郎義次」が着用していた鎧を埋めたとする「鎧塚」のすぐ近くに明治十六年m尾藤義次、その父とする源為朝、そして尾張藩の新田開発に多大に貢献した尾頭景義の三柱が御祭神として祀られています。

鎧塚

 名古屋市教育委員会が設置した案内板などでは源為朝の鎧を埋めた場所とされている鎧塚になります。ただ、前述のように尾頭神社の由緒なのでは尾頭義次の鎧を埋めた場所としている伝承もあったりします。どちらが正解なのかはまったくの不明な訳ですが、850年以上前の出来事だったりするのにこれだけしっかりと伝承がのこっているのは尾頭氏、鬼頭氏の末裔の方々、さらにはこの神社の氏子の方達の努力の賜物なのかなと思っています。

鎮座地を神社で確認

神社名 闇之森八幡社
鎮座地愛知県名古屋市中区正木二丁目六番地十八(Googlemap
最寄駅電車:JR・名鉄・地下鉄「金山駅」徒歩10分
バス:名古屋市営バス・中巡回「古渡町バス停」徒歩4分

ご自宅にお札は祀られていますか?

実家には神棚はあっても、今お住いの所には神棚がない方も多いかと思います。神棚には、日本の氏神である"天照大御神"とご自身がお住いの氏神様のお札を掲げると御神徳が宿るとされています。
賃貸住宅などに住まわれて簡単に神棚を掲げられないという方もお勧めなのが、

南向き、もしくは東向きになる様に、そして目線の高さより上になる様に、棚などの上において頂くとよいかと思います。是非、皆様もご自宅に神棚をご用意いただき、御札を納めてほしいなと思います。

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