ONE POINT
一宮木曽川ICのすぐ南側に鎮座する延喜式内社である伊冨利部神社の紹介です。若都保命を御祭神とし、この辺りを治めていた伊福部氏が自らの祖神を祀った神社で、一時はかなり広大な神域を持つ神社だったようです。
神社情報
神社名 | 伊冨利部神社 |
鎮座地 | 愛知県一宮市木曽川町門間字北屋敷三七一四番地(Googlemap) |
例大祭 | 十月八日 |
創 建 | 不詳 |
御祭神 | 若都保命 誉田別命 |
旧社格 | 縣社 |
神名帳 | 延喜式神名帳:尾張国葉栗郡 伊冨利部神社 尾張国神名帳:葉栗郡従三位 伊富利部天神 |
境内社
境内社 | 若宮社 貴船社 浅間社 天神社 春日社 神明社 稲荷社 龍神社 厳島社 |
文化財
国 宝 | |
国指定 | |
県指定 | |
市指定 町指定 村指定 | 木造狛犬 古剣 親獅子 鰐口 甲冑 金燈籠 |
参拝情報
御朱印 | 〇 |
URL | https://peraichi.com/landing_pages/view/iburibe/ |
駐車場 | 〇 |
参拝日 | 2022年3月23日 |
御由緒
創建年代は不詳です。
大和国葛城山よりこの地に移り住んだ「伊福部氏」が自らの祖神を祭る為に創建したと伝えれる。この伊福部氏は大海人皇子と大友皇子が戦った「壬申の乱」において大海人皇子側に与したとし、この時の功績により宿祢の称を与えられたという。
伊福部氏
伊福部氏の一族は日本全国に広がっていたとされ、このうち尾張国に移り住んだ一族については、延暦十二年(793年)の平安京造営に際して大内裏十二門のうち、殷富門が「続二本記」では美濃尾張の利福利部氏造と記されているなど、奈良時代から平安時代にかけてかなり繁栄していた一族であったようです。
伊冨利部神社のHPには延暦十三年(794年)~弘仁元年(810年)頃に創建されたと考えられると記されています。前述したように、この地に勢力を広げた伊福部氏は、平安京の造営にもその名を記されるなど朝廷から何らかの官位が与えれ、この地に祖神を祀る神社を創建したのではないでしょうか。
その後、伊冨利部神社周辺は京都に創建された岩清水八幡宮の荘園となっていたようで、伊冨利部神社の隣に「伊冨利部八幡宮」が創建され、この八幡社は「八幡(やわた)の八幡」と広く呼ばれるようになったという。
- 延喜元年(905年):延喜式神名帳に「尾張国葉栗郡 伊冨利部神社」と記載。
- 時期不明:尾張国神名帳に「葉栗郡従三位 伊富利部天神」と記載。
康正元年(1455年)に兵火により焼失したという。この時の戦いが何かは不明ですが、伊冨利部神社、伊冨利部八幡宮の両社が灰燼に帰してしまったと伝えれています。焼失する直前には周囲一理にも達する神域を持ち、社殿楼閣の他に数十の末社、神官の邸宅が建っていたと伝えれています。
その後、弘治二年(1556年)には黒田城主であった和田河内守により現在の境内地に遷座再建され、その後、天正十年三月には黒田城主和田八郎定教により伊冨利部八幡宮が再建、同年九月には沢井雄重により伊冨利部神社が再建されたという。
萬治三年(1660年)には、伊冨利部八幡宮を伊冨利部神社に合祀。江戸時代には八幡信仰が強かった事もあり、正八幡宮と呼ばれていたようです。
創立は明らかでない。延喜神名式に葉栗郡伊冨利部ノ神社、本国帳に従三位伊冨利部天神一本伊福利部天神とある之なり。往古より八幡(やわた)の八幡として社殿楼閣末社神官邸宅等周囲一理に達する神域なりしと伝わる。康正元年(1455年)兵戦に罹り社殿を焼失。弘治二年(1556年)黒田城主和田河内守、本殿を再建。天正十年(1582年)三月十五日、城主和田八郎定教伊福部八満宮を建立する。同年九月和田八郎定教後をうけた城主沢井左ヱ門雄重、工事を引き継ぎ社殿を造営神慮を慰め奉る。その後累代の城主、藩主崇敬あつく、殊に徳川家毎年正月、五月、九月に幣帛を献じ武運、家運の繁栄を祈願参拝するを恒例とした。明治七年郷社に列格。同四十三年神饌幣帛料供進指定社となる。昭和四年十一月九日、縣社に昇格した。伊福部連の祖、若都保命は火明命九世の孫の弟彦命の弟公である。
愛知県神社庁発刊「愛知県神社名鑑」
御祭神
- 若都保命
- 誉田別尊
若都保命とは?
伊福部氏の祖神であると伝えらえれいる神になります。
天火明命の九代孫である弟彦命の弟になると伝える事から、尾張国造であった尾張氏の庶流にあたる一族が伊福部氏であると考えられる。
若都保命は美濃国二宮伊富枝神社の御祭神として祀られている事から、大和国から尾張国に流れてきた伊福部氏は美濃国から尾張国北部周辺を勢力圏にしていた事が読み取れます。
御朱印帳の保管に
数年前より非常に集める方が増えた「御朱印」ですが、皆様は御朱印帳はどうやって保管していますか?神社・仏閣を廻って御朱印を受けているとあっという間に御朱印帳の冊数が増えていきますが、そのまま棚などに置いている方が多いのでは?。せっかくお受けした御朱印ですので、日本では古くから着物を始めとして大切なものを保管する為に使われていた「桐箱」に入れて保管した方がよろしいかと思います。
ぜひ、皆様も桐箱に御朱印帳を保管されてみたらいかがですか?
参拝記
石刀神社の境内前から旧鎌倉街道と平行に南北に走る市道を道なりに北側に真っ直ぐ進んでいきます。大体1.2km程北に進むと、伊冨利部神社の参道入口に付く事ができます。
駐車場は、境内の社務所脇に用意されているので、参道を通り抜けて境内入口から左手を見ると駐車場が用意されているのが見えると思います。
参道入口
社号標、幟掲揚ポール、石造明神鳥居と参道両側に朱色の灯籠が何基も据えられいる伊冨利部神社の参道入口になります。参道部分は一般共用化されている様で鳥居の下を車で潜っていく事ができます。
旧社格である「縣社」が合わせて彫られた社号標になります。
境内入口
参道を進み、境内入口には朱色の両部鳥居が据えられています。
伊冨利部神社は西入りの境内に南向きの社殿という配置になっているのですが、いつ頃までかは不明ですが元々は南入りの境内だったようです。明治時代の地図をみるとこの頃にはすでに西入りの境内の様にみえるので、南入りは江戸時代の話なのかな。
祓所
祭祀の際に修祓が執り行われる「祓所」になります。
手水舎
木造瓦葺四本柱タイプの手水舎になります。各柱に付けられた転びの角度がかなり浅いのが特徴で、このタイプは耐震性がかなり低いので各柱に鉄製の支え柱が設置されています。
蕃塀
境内入口から進んでいくと、丁度この写真の場所(蕃塀の裏側?)に出てきます。元々の境内入口はこの蕃塀の場所から真っ直ぐ南に進んだ先にあったそうです。
蕃塀の役割?というのは自分が理解している中では、「真っ直ぐ社殿を望むことができない様に参道に設置している。」という意味だった記憶があるのですが、この記憶からいけば、社殿と蕃塀の間に参道が伸びていては蕃塀の役割が果たせていない気がします。
神門
蕃塀の場所から北側を望むと、袖壁が設けられた朱塗りの銅板葺き四脚門の神門があります。
蝋燭立て
この神門の脇には石造の蝋燭立てが据えられています。火袋部分には風よけが設置されています。
社殿
神門を潜ると、切妻造瓦葺妻入りの拝殿を有する尾張造の社殿が鎮座しています。伊冨利部神社の拝殿は四方にガラス戸がはめ込まれています。
狛犬
昭和五年生まれの狛犬一対になります。なかなかの鳩胸な狛犬ですね。
伊冨利部古墳
境内には、一ヶ所小高くなっている場所あって、この場所は「伊冨利部古墳」という古墳なんだとか。門間遺跡の中心となる遺跡で直径凡そ20mの円墳になります。この辺りには数多くの円墳の痕跡などが発見されています。もしかしたら伊冨利部神社を創建した伊福部一族が埋葬された古墳なのかもしれませんね。
一宮市指定文化財
一宮市の指定文化財になっていて、境内より発見されたと伝えられる古剣はこの古墳の副葬品なのかもしれません。
境内社
鎮座地を神社で確認
神社名 | 伊冨利部神社 |
鎮座地 | 愛知県一宮市木曽川町門間字北屋敷三七一四番地(Googlemap) |
最寄駅 | 電車:名古屋鉄道「新木曽川駅」徒歩24分 バス:一宮市コミュニティーバス「黒田南児童館南バス停」徒歩11分 |
ご自宅にお札は祀られていますか?
実家には神棚はあっても、今お住いの所には神棚がない方も多いかと思います。神棚には、日本の氏神である"天照大御神"とご自身がお住いの氏神様のお札を掲げると御神徳が宿るとされています。
賃貸住宅などに住まわれて簡単に神棚を掲げられないという方もお勧めなのが、
南向き、もしくは東向きになる様に、そして目線の高さより上になる様に、棚などの上において頂くとよいかと思います。是非、皆様もご自宅に神棚をご用意いただき、御札を納めてほしいなと思います。