岡崎市

貴船社(愛知県岡崎市上地町)

2016年10月29日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

神社紹介

神社名 貴船神社
鎮座地 愛知県岡崎市上地町下屋敷八〇番地
御祭神 水分神
旧社格 無格社
創 建 不詳
神名帳
境内社
例祭日 九月四日
御朱印
H P

参拝日:2014年7月23日

更新:2019年3月29日

御由緒

創建は明らかではないが、安永十年(1782年)四月の祈願札、また寛政四年(1792年)八月、社殿再建の棟札を社蔵す。社地は代官早川武左衛門邸にあったが、佐藤八郎左衛門邸に移し、寛政四年八月四日、今の地に遷座する。明治五年十月十二日、据置公許となる。同四十二年社殿を修造、同四十八年拝殿造営。

愛知県神社庁発刊「愛知県神社名鑑」より

 創建年代は不詳であるが、「安永十年(1781年)四月、武運長久、息災延命祈願」の納札及び、寛政四年(1792)、再建の棟札が残っている。
当初は、代官早川武左衛門屋敷に勧請し、その後、故あって佐藤八郎左衛門庭内に移転し、寛政四年八月、現在地に再移転した。以後、雨覆の再建や拝殿を再建した。
明治維新となり検地で境内反別八畝二三歩、同四十二年、本殿の雨覆と拝殿との中間に渡殿を建設し、また頼母子講を設けて基本財産を確保した。昭和五年、本殿雨覆内宇野模様替えを行った。
尚、祭神は水分神である。

新編 福岡町史」より

貴船神社 鎮座地

県道327号線(衣浦線)と旧国道248号線(県道463号線)が交わう「上地町荒井北」交差点からほど近い場所に鎮座しています。すこし裏道となっている場所に鎮座しているので、わかりにくいかもしれませんね。

参拝記

この路地の奥に、貴船神社が鎮座しています。
この枕木でできた柵が目印になるのとは思いますが・・・。道路は車一台分の幅しかない為、注意して通行指定下さい。

境内全景

境内の周囲は瑞垣などで囲っている訳ではなく、道路から一段高く土が盛られた感じの境内になっています。
ですので、道路から鳥居の間は石段などがあるわけではなく、昔懐かしい感じの自然な通り道が踏み固められて成形されていますね。

また、鳥居もこの辺りでは少数派・・・(全国的にも少ないのかな?)の木造の鳥居となっています。

手水舎・水盤

手水舎はなく、露天の水盤が置かれています。
神社のこういった感じの露天の水盤の近くには水道が設置されておらず、祭事の際には、バケツやホースを使って水を貼るんですかね。・・・・月次祭とかだと・・・手水する場所は別に用意するから・・・水盤は使用しないのかな?

鳥居脇に放置されていた、石造りの鳥居。地震かなにかで倒壊したんでしょうか・・・・。

社殿

切妻瓦葺平入の拝殿になります。
由緒にも記載していますが、拝殿-渡殿-[覆殿[本殿]]といった造りになっています。資料によると本殿は流造になっているようです。

拝殿は小規模神社標準型というべき様式になっています。ただここ貴船神社の拝殿正面の扉は三間分とも上部が格子戸になっていて、拝殿の中を窺う事ができます。定期的に開閉できるのならば、こうやって格子戸で風を通した方が雨が入ってくるよりいいのかもしれませんね。

懸魚・鬼瓦

貴船神社の覆殿、拝殿ともに懸魚が設けられていませんでした。
鬼瓦も比較的質素な姿をしていますね。

参拝を終えて

貴船神社の近くには、「上地学校跡」という石碑が建てられています。

上地学校

上地学校は、明治十三年から明治二十年までの八年間だけ存在した学校である。
場所は現在の貴船神社東隣になります。
明治十三年三月十八日
「第二大学区内愛知県下第八番中学区内額田郡上地村第九番小学校上地学校」として設立された。それまでは、上地村の学生は坂崎学校に通っていたが、道中危険もあった為、設立願を出し創立した。明治二十年に福岡学校と合併となり廃校となった。

新編 福岡町史」より

自分が小学生低学年の頃、上地では区画整理が行われ、一気に都市化がすすんでいきました。しかし、それまでは芦などが茂る沼地だったり、田圃が広がっている様な場所だったんです。上地町で人が住んでいる場所は上地町に西側、福岡町と面している場所に集中しており、まさに今回紹介した貴船神社周辺は上地町の元村ともいうべき場所に当たり、この辺りに学校が設けられたのもわかる気がします。

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