宝光院(西尾市吉良町駮馬) 三河海岸大師 第八十五番札所

寺院情報

寺院名嶺松山宝光院
所在地愛知県西尾市吉良町駮馬
御本尊不明
宗 派浄土宗西山深草派
創 建永禄六年
札 所三河海岸大師 八十五番札所 
御朱印
H P
前札所霊場名次札所
八四番:覚樹山 西林寺三河海岸大師八六番:長松寺【廃寺】

参拝日:2020年5月22日

沿革・由緒

 寺伝によると「吉良左衛兵督義堯」によって創建された寺院であるとされています。

 この吉良左衛兵督義堯は西条吉良氏六代当主になります。この義堯の時代になると、西からは織田信秀率いる織田勢が、東からは今川義元率いる今川勢が三河に向けて勢力を伸ばし始めた時代になります。西条吉良家の飛地となっていた現在の浜松市周辺の遠江国引馬荘も今川勢の進軍により陥落し領地を失っています。そんな情勢の中、東西に分かれていた吉良氏も統一に向けて動き始め、義堯の次男「義安」は東条吉良家の吉良持広の養子となり、その後東条吉良家の家督を継ぐことになります。
 そんな時代だからからか、西条城(現在の西尾城)を居城としていたはずの吉良左衛兵督義堯が東条城の城下に寺院を建立する事ができたのかもしれませんね。

 しかし、永禄四年に東条城が徳川家康の侵攻により落城してしまうと、この宝光院は衰退し荒廃していたといいます。

 関ヶ原の合戦後、東条の地は天領となり、東条城近く(場所は不明)に代官所が設けられ「鳥山洞意精俊」が三河代官職に任ぜられます。その後、鳥山家は三代にわたって三河国の代官として天領の運営を担っていく事になります。

鳥山洞意精俊ー鳥山牛之助精明ー鳥山牛之助精元

 1601年に三河代官に任ぜられ、1685年越後国高田の代官として赴任するまでの84年間という長きにわたって三河国の天領を運営していたということになります。

  この鳥山家の二代精明により、荒廃していた宝光院が再興されています。

参拝記

 「東条城址/紹介記事」から県道を挟んで北側にある集落を進むと宝光院への道標が現れるので、この道標にそって小道を進むと、宝光院が見えてきます。

山門は存在せず、また三河海岸大師札所の碑も見当たりませんでした。

二本柱タイプの手水舎です。なんとなく神社スタイルの手水舎を想像します。

ここの本堂の建築様式は変わっていて、切妻平入の建物が本堂の前後に二棟あり、その間をつなぐように妻入りの建物が載り越し屋根になっています。

正面から見ても、一見切妻妻入り本堂の様に見えるのですが、よく見ると切妻の屋根が本堂から右に伸びていますね。

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所在地を地図で確認

寺院名嶺松山宝光院
所在地愛知県西尾市吉良町駮馬
最寄駅名古屋鉄道西尾線「上横須賀駅」徒歩35分
前札所霊場名次札所
八四番:覚樹山 西林寺三河海岸大師八六番:長松寺【廃寺】

寺院・霊場巡りの際のバイブルに

元々、当サイトは神社巡りを通じて、皆様の住んでいる所にある”村の鎮守の神様”と呼ばれる神社を紹介してくサイトを目指していたんです。むしろ寺院については、縁遠いものとおもっていたんですよね。しかし、ちょっとした御縁で弘法大師霊場に出会い、そして愛知県では一番活動が盛んな”知多四国霊場”を巡礼、結願する事になりました。でも、神社の事はある程度知識があっても、寺院については未知の世界だったので、少しでも巡礼の時に役に立てばと思い、こちらの本を読ませて頂いております。

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