岡崎市

勝淵神社(愛知県岡崎市福岡町)

2016年10月29日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

神社紹介

神社名勝淵神社
鎮座地愛知県岡崎市福岡町屋敷四番地
御祭神天津児屋根命・柴田勝家
旧社格神饌幣帛料供進指定村社
創 建不詳
神名帳
境内社
例祭日十月十八日
御朱印
H P

参拝日:2014年7月23日
更新:2020年2月28日

御由緒

 今回参拝する「勝淵神社」は元額田郡永井村の鎮守社になります。福岡町=土呂村というイメージを持っている岡崎市民の方も多いと思いますが、「福岡町=土呂村+高須村+萱園村+永井村」と四村が合併して福岡町になっています。ただ、四村の内、萱園村と永井村は江戸時代に行われた検地によって土呂村から分離独立した経緯があるので、「福岡町=(土呂村+萱園村+永井村)+高須村」といったイメージになるのかなと。

 この各村が分離独立を行っていく背景には、江戸時代の幕藩体制が非常に影響している様に見えます。よく「〇万石の大名」、「〇千石の旗本」と説明する事があります。(当サイトでもよく使っています。)拝領した土地が一ヶ所に固まっていればそれに越したことはないわけですが、譜代大名、旗本などお国替えが頻繁に行われる大名は、領地が全国に渡って点在するなんてことも珍しくありません。飛地の領地を管理するために「代官所」が設置される訳です。なぜこんなことが起こるのかといえば、仮に五万石の岡崎藩から三万石の吉田藩に領地替えになった場合、足りない二万石分は様々な村の石高を合算していき二万石分が与えられる訳です。近い場所の時もあれば、とんでもなく離れた飛地を受領する事も多々あったみたいですね。
 なぜこんな説明をしているかというと、福岡町は、狭い地区でありながら、非常に多くの大名、旗本の本地又は飛地が入り乱れている場所になります。お国替えで年代ごとに納めている大名・旗本は変わっていきますが、元禄十一年(1698年)の福岡町の領主を見ていきます。

甘縄藩(相模国):土呂、高須の一部
旗本松平知行所:萱園村
旗本山本知行所:高須一部
旗本京極知行所:土呂一部
旗本鍋島知行所:土呂一部
旗本柴田知行所:土呂一部、永井村

 それまで天領だった永井村は元禄十一年、旗本「柴田勝門」が知行地として受領する事になり、このまま明治維新まで永井村は柴田家の知行地となっていきます。柴田家は三千五百石の旗本になります。知行所は、永井村の他に、本宿、鉢地、丸山、丸平新田、馬頭、蓑川、蓮生、土呂、永井、荻の額田郡十村と八幡、広石の宝飯郡二村の合わせて十二村。陣屋は東海道に沿った「本宿」に置かれていました。

 永井村を知行所として受領した「柴田勝門」が、この地の鎮守社として建立したのが今回参拝する「勝淵神社」と言われています。社伝が残っていない為、元々この地に鎮座していた神社を再興し「勝淵神社」と改称したのか、新たに神社を創建したのかがハッキリとしていない為、創建年は不詳となっています。

 柴田勝門は織田信長の北陸方面軍司令官だった「柴田勝家」の養子「柴田勝政」の曾孫になります。曾祖父「勝政」は柴田勝家と共に賤ケ岳の戦いで戦死したと伝えられ、勝政の子「勝重」は北庄城落城直前に勝家より「兜」を与えれ、母方の祖父である日根野家の元に逃がされています。元服後、徳川家康に仕え、大坂の陣後に旗本として武蔵国仙川の地に知行所を受領します。そして、「勝重」は仙川の地に、柴田勝家から与えられた「兜」を埋め、その地に「勝淵神社」を建立しています。勝重の孫になるのが「柴田勝門」になります。
 勝門は、元禄十一年(1698年)武蔵国仙川から三河国に領地替えとなり、本宿に陣屋を構えています。ただ、旗本である勝門は基本江戸住みであり、三河国の陣屋は代官によって運営されていたと思われます。

 「柴田勝門」の三河国への領地替えに際し、武蔵国「勝淵神社」より神官「高橋右近」が三河国に移り、勝淵神社を勧請し、永井村の鎮守とし、さらに柴田勝家の「兜の紐」を譲り受け、三河国勝淵神社に納め、柴田勝家を合祀したと伝えられています。

社伝に昔し、武州仙川郷の勝淵神社の分霊を勧請して祀る。肥後守の後裔高橋氏累代奉仕する。という。寛政の頃領主柴田出雲守、社地荒廃するをみて本殿再建、石鳥居を寄進した。文化九年(1812年)、拝殿を再建し、文政二年(1819年)三月、代官富田郡蔵常業は社号扁額を奉納、書は神祇伯白河資延の筆による。明治九年二月七日村社、同四十二年一月社務所新築、大正九年本殿を修造する。昭和十二年四月幣殿、拝殿を再建、同十八年二月二十四日、神饌幣帛料供進指定社となる。同十九年五月社務所を改築する。平成二年十一月石鳥居を新築。

愛知県神社庁発刊「愛知県神社名鑑」より

参拝記

 平成の時代になって、福岡町から幸田町に抜ける県道325号線が集落の中を通る非常に細い道から新たに田圃の中を突き抜けるバイパスの様な道に付け替えが行われ、丁度「勝淵神社」の正面を横切る様な形で県道が通っています。それ以前は、県道部分は前述の通り田圃でした。田園に建つ神社でよくみる、田圃に向かって社殿が建っている神社だったわけです。

境内入口

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鳥居越しに社殿を望みます。
この神社には境内を囲む瑞垣がないですね。

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社号標

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旧社格が彫られた社号標になります。
参道を挟んで反対に据えられている真新しい百度石が目をひきます。

手水舎

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木像瓦葺四本柱タイプの手水舎です。

祓所

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祓所です。
榊がかなり大きくなってきてますね。

狛犬

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生年月を調べ忘れてしまった子乗り玉乗り狛犬一対です。

社殿

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瓦葺の一間社流造の本殿となります。

懸魚と鬼瓦

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最後に恒例の鬼瓦と懸魚です。
社紋がやはり柴田勝家所縁の二つ雁金ですね。
蕪懸魚の造作も独特だし、鰭の雲の造作もきれいですね。

地図で鎮座地を確認

神社名勝淵神社
鎮座地愛知県岡崎市福岡町屋敷四番地
最寄駅名鉄東部バス「国正バス停」徒歩8分

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