城跡巡り

寺部城址(西尾市寺部町) 幡豆小笠原氏居城

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城郭詳細

城 名:寺部城
所在地:西尾市寺部町城越
築城年:不明
築城主:不明
城形式:丘城
遺 構:曲輪、堀跡、土塁
規 模:

訪問日:2018年7月24日

沿革・詳細

寺部城は、旧幡豆郡幡豆町の中央部で海岸線から250mほどの所にあり、舌状にのびた標高29.7mの山の地形を利用してつくられた連郭式平山城です。
かつては、東の道路は城の外堀で西側を流れる小野ヶ谷川も自然の堀を形成していました。現在は、本丸、二の丸、土塁、堀などが遺構として認められています。

築城年代、築城者は不明ですが、永正十一年(1514年)、小笠原定政が早川三郎を敗って寺部城主となり以後小笠原氏(定正ー広政ー重広ー信元ー信重)の居城となりました。

欠城(寺部城西800m、磯城とも言われた)の小笠原氏(ー範安ー安元ー康次ー広勝ー広信)とともに、永禄の初めごろまでは今川氏に従い、以後家康に属して、家康の関東移封とともに天正十八年(1590年)小笠原氏も上総国に領地を賜り、関東に移りました。

その後、江戸時代に入って寺部城も自然には異常になったものと思われます。

現地案内板より

訪問記

場所的には、西尾市立幡豆図書館や幡豆公民館、幡豆歴史民族資料館などがある場所からすぐ西側に位置しています。

小笠原氏が治めていたもう一方の城である"欠城"の所在地も含めた地図が上記になります。

後に家康に従い、旗本として上総国に移る小笠原氏ですが、桶狭間の合戦直後、まだ今川家に従属していた時、松平元康と戦ったという言い伝えが残っています。それが走り付けの戦いと呼ばれる合戦らしいのですが、あまり聞いたことのない戦名かと思います。実際、小笠原氏は本多忠勝の説得で家康側に与したとしか伝えられていませんし、走りつけの戦いはなかったことにされている雰囲気ですね。

ただ、地元では言い伝え、伝承という形で現在でも語られている"走り付けの戦い"ですので、実際にあった戦なのかもしれませんね。


走り付けの戦い

永禄(一五五八~七〇)のころ、松平元康(徳川家康)は三河の統一にのり出しました。岡崎、安城、西尾へと勢力を広げ、しだいに幡豆の地へもせめて来る勢いです。
ある日、寺部城のまわりがにわかにそうぞうしくなりました。鎧を着けた武士たちが走り回り、農民が大勢狩り集められました。戦の陣地づくりです。
寺部城内でもあわただしく人が動いています。
城では、城主小笠原広重と、欠城主小笠原安元との間で、内密の相談が続いていました。
「いかなるものかな。やはり戦うより仕方あるまい。吉良殿には恩義がある。吉良方の苦しい戦いを見て、松平につくわけにはいくまいぞ」
安元の強い言葉に、広重はうなずきながらも口ごもりました。
「しかし、とうてい勝ち目のない戦いですぞ。わたしは……、どうも……」
「広重殿の気持ちはわかりますぞ。できることなら戦いとうない。だが、今の立場では、いずれ一戦交えねばなるまい」
うで組みをしたまま、安元はじっと目を閉じていました。
やがて、顔を上げると、
「鉄砲だ、鉄砲を使うのだ」
と、力強い声で言いました。
海に面し、海路にもくわしい小笠原一族は、そのころ、すでに鉄砲を手に入れていました。しかし、わずかな鉄砲では、決して戦力になりません。それでも、安元は鉄砲を使うことにかけたのです。

数日後のことです。
夜明け前の波静かな走り付けの浜に、船が次つぎにおし寄せて来ました。
松平軍です。
大勢の武士たちは列をつくると、寺部城へ通じる間道へとせまって来ました。
小笠原軍の陣地は、間道をねらい撃ちできる小高い所にありました。安元はそこから、松平軍の動きをじっと見ていました。
「火なわの用意はいいか」
「はっ、万事ぬかりなく」
「よし、合図したら撃て。いいか、空に向かって撃てばよいぞ」
「はあ?空に」
家来たちは訳もわからず、言われたとおり、空に向かって鉄砲をかまえました。
安元の合図の手が上がりました。
ズドーン!ズドーン!
山をゆさぶるようなすさまじい音でした。この轟音におどろいた山の鳥たちが、けたたましい鳴き声とともに、いっせいに飛び立ちました。
そのものすごさに不意をつかれ、松平軍の動きが止まりました。

しかし、しばらくするとまた、じりじりと小笠原軍の陣地の下にせまって来ます。 再び、安元の手が上がりました。
今度は石ぜめです。次から次へと、たくさんの石が投げ落とされました。大きく列のくずれた松平軍は、それでも弓矢で反撃を始めました。両方の矢が入り乱れて、飛びかいます。
ここぞと安元は、力いっぱい、三度目の合図をしました。
ズドーン、ズドーン、ズドドーン!
地をさく音が、再び走り付けの山にとどろきました。
いっしゅん、静まり返った松平軍は、動く気配がありません。

(まだまだ、油断できないぞ)
安元はじっと敵の動きを見守りました。
ところが、松平軍が少しずつ後退を始めたのです。そして、再び立ち向かうことなく、船に乗りこんで行きました。
ほっとした安元は、遠ざかって行く松平軍を見ながら言いました。
「これで、吉良殿への面目が立ったぞ」

走り付けの戦いは、松平軍にとっては小さな戦いでも、小笠原一族にとっては、鉄砲に命運をかけた大きな戦いでした。


桶狭間の合戦後、今川家から独立した松平元康は、三河統一にまい進します。最大の敵は何度も当ブログで出てくる東条吉良氏です。同じ今川方から孤立させるために、元康が考えたのが小笠原氏が治める寺部、欠の両城だったのでしょう。竹谷、深溝、五井、形原という松平氏の支族が治めていた現在の蒲郡市を足掛かりに東側から攻め込んだのだと思います。

この時、寺部城の東側の海岸線沿いで走り付けの戦いが発生したとされています。この戦いの後に両小笠原氏は本多忠勝の説得に応じて松平氏に与したと伝えられています。

そんな寺部城址なんですが、なかなか遺構が残っている見所の多い城跡だと思います。

さて、寺部城址という案内板にそって城跡巡りをスタートしましょう。

進行方向を望むと、まさに平山城址の雰囲気満載の取り付け階段が続いていますね。

そして、ここが堀跡だそうです。左右に切り立った城壁?が当時の雰囲気を残していますね。

現在ではご覧の様な城内の段差を迂回できる渡り橋のような歩道も整備され、非常に城跡巡りが容易になっていますね。

そして本丸跡にやってきました。
なにやら、本丸跡に社が建っています。

詳細は不明で、祭神も不明ですね。
ただ、祠を見ると神明風の様式でして、この様式からだけで推測すると神明社の系統かなとおもうのですけど。

本丸跡は、比較的整備されていて、寺部城の説明文などが掲げられています。また、この本丸跡から南側を望むと・・・

素晴らしい眺望になっています。
これだけ海に近い城だったという事で、小笠原氏は松平(徳川)方の水軍の中核を担っていく事になります。ただ・・・あまり徳川軍に水軍というイメージはないんですが・・・。

そうそう、こちらの寺部城なんですが、広島県立図書館が所蔵している"諸国古城之図"にその姿を留めています。

中々見ごたえのある城跡だと思います。

是非、西尾方面にお越しの際は、立ち寄ってほしい城跡ですね。

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