城跡巡り

大草城(愛知県知多市)

2018年12月30日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

ONE POINT

 織田有楽斎が築城した大草城の紹介です。結局完成前に有楽斎は移封となってしまった為、大草城は完成される事はなかったのですが、江戸時代には尾張藩家老「山澄氏」の館が築かれ大草城址は立ち入り禁止となっていた為、その遺構はしっかりと残されている城郭になります。

城郭詳細

城郭名大草城址
所在地愛知県知多市大草字東屋敷(大草公園)
最寄駅名古屋鉄道 常滑線「大野町駅」徒歩9分

沿革・詳細

元々、この地は佐治一族が治めていました。佐治一族は織田氏と婚姻関係を結んでいて、織田一族として優遇されていました。その後、天正十年六月、本能寺の変が起き、織田信長は明智光秀の謀叛によって横死した。さらに、その明智光秀を山崎の合戦にて羽柴秀吉が討ち取ります。さらに、羽柴秀吉は柴田勝家を賎ヶ岳の合戦で破ると、一気に織田氏の旧領の大半を手に入れ織田信長の後継争いのトップに躍り出ます。そして秀吉は佐治一成に浅井長政とお市の方の間の娘"お江"の嫁ぎ先とし、一成はお江の方を正室にしたといいます。

しかし、その後羽柴秀吉と徳川家康との間に起きた小牧・長久手の戦いにおいて、佐治一成は徳川家康方に付いてしまいます。戦いの後、秀吉の怒りを買った一成は、お江の方と離縁をさせられ、領地を没収され追放処分となってしまいます。

一成追放後、この地を受領したのが織田(有楽斎)長益となります。長益は最初佐治氏が居城していた「大野城(宮山城)」に入城したそうですが、元々大野城は山間の場所に建っていて、水利が悪く居住するには適さないとされ、新たに大草城を築城するに至ったと言われています。

が、その後、織田長益は秀吉の御伽衆に加わった為、摂津国に国替えされまます。その時、大草城は未完成であり、そのまま廃城となったそうです。

時は建ち、徳川家康が江戸幕府を開幕し、この地は尾張藩によって統治されるようになります。尾張藩主徳川義直家臣である山澄淡路守英龍に大草の地が給され、寛文六年(1666年)に城址西南に屋敷が構えられた。大草城址は立入禁止となり保全された。このため江戸期を通じて荒らされることなく明治に至り、現在もその旧態をよくとどめていると言われている。

築城年天正十年(1582年)
築城主織田長益(有楽斎)
城形式平山城
遺 構土塁、曲輪、堀
規 模
登城日:2018年7月25日
再 訪:2021年7月28日(御城印受領)

訪問記

上記ストリートビューの場所から大草城址公園に入っていく事にします。すぐに下り階段があり、どうやらお堀の中に降りていく感じです。

下り階段を下りきると、散策路が水堀を横断するかんじで続いていて、水堀を渡り切ったとは、大草城の本丸、二の丸の淵を沿うように散策路が続いていています。

散策路を進んでいくと、本丸方面と二の丸方面に分かれる分岐点が出てきます。本丸に向かう道から二の丸方面を望みます。

曲輪を囲む土塁跡も残っていて、中々起伏のある城跡になっています。

本丸跡は、それまでの見せていた顔から一転して公園化された現代的な空間が広がっています。この公園の一角に、展望台となる模擬天守が建っています。

実際、この大草城が築城されていた頃は織田氏-羽柴(豊臣)氏の所謂「織豊時代」と呼ばれる時代で、各地で一気に石垣などを用いた築城技術が進化した時代です。ここ大草城でも完成していたら天守閣も建てられていてもおかしくはないとは思うんですが・・・。

ちなみに、模擬天守の中は、大草城にまつわる資料が展示されています。

こちらの大草城址の由来を読んでいると、上記した由来と異なる点もあったりします。こちらの展示内容を見ていると、佐治一成が幼少だった為、一成の後見として織田長益がこの地にきたと書かれています。

500年の前の事ですからねえ・・・数年の誤差はしかたないのかもしれませんね・・・。

この資料の中で、

江戸時代この地を受領していた尾張藩家臣「山澄氏」が、大草城北東に鎮座する天王社(津島神社)への崇敬が篤かったことを示す資料が展示されていました。

御城印

配布場所知多市観光協会/知多市岡田字段戸坊5

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