名古屋市中区

富士浅間神社(名古屋市中区大須)

2020年2月7日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

神社紹介

神社名富士浅間神社
鎮座地愛知県名古屋市中区大須二丁目十七番三五号
御祭神木花咲耶姫命、天照大御神、瓊瓊杵尊、大山祗命、 彦火火出見命
旧社格郷社
創 建明應四年(1495年)
神名帳
境内社稲荷社、湊川社、大神社、秋葉社、出雲社、天神社、金比羅社
例祭日六月十一日
御朱印
H P

参拝日:2019年12月11日

御由緒

 「富士浅間神社」と言えば、富士山頂の八合目以上を境内地とする事で有名な富士山信仰の神社であり、総本山は静岡県富士宮市に鎮座する「富士山本宮浅間大社」になります。浅間神社は全国でおよそ1,300社あるそうです。
 「富士山本宮浅間大社」の主祭神は「木花咲耶姫命」であり、配神を「瓊々杵尊」、「大山祇神」としています。この三柱については、大須の「富士浅間神社」も本山と同じく御祭神の中に列しています。

御祭神について

浅間神社で祀られている三柱は、簡単に言えば「夫婦と義父の関係」です。

 天照大御神の孫神である瓊々杵尊(「古事記」では「天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命」、「日本書紀」では「天津彦彦火瓊瓊杵尊」)が「天孫降臨」とされている、葦原の中つ国を治める為に高千穂に降臨します。
 そして、瓊々杵尊は笠沙の岬で木花咲耶姫命と出逢い、求婚しています。それを聞いた木花咲耶姫命の父親である「大山祇神」はとても喜び、瓊々杵尊に対し、木花咲耶姫命の姉である「石長比売」も一緒に娶ってほしいと共に差し出したが、瓊々杵尊は非常に美しい木花咲耶姫命とだけ結婚し、とても醜かったとされる石長比売を送り返してしまいます。
 大山祇神は、「娘二人を瓊々杵尊に一緒に差し上げたのは、石長比売を妻にすれば天津神の御子の命は岩のように永遠のものとなり、木花咲耶姫命を妻にすれば木の花が咲くように繁栄するだろうと誓約を立てたからであり、木花咲耶姫命だけと結婚すれば、天津神の御子の命は木の花のようにはかなくなるだろう。」と瓊々杵尊に告げたといいます。
 これにより、天津神の御子の子孫である歴代の天皇の寿命は神々程長くないという事に繋がるそうです。

 木花咲耶姫命は瓊々杵尊の子を宿しますが、「一夜で身籠るとは天津神としても聞いたことがない。それは国津神の子であろう。」と瓊々杵尊は認めようとしません。木花咲耶姫命は、「国津神の子ならば無事に生まれる事はなく、天津神の子ならば必ずや無事に生まれます。」と誓いを立て御殿を建て、出産のときに御殿に火をつけます。火の中で生まれたのは「火照命」、「火須勢理命」、「火遠理命(天津日高日子穂穂手見命)」の三柱になります。

 古事記、日本書紀に出てくる神々は、天津神と国津神と分ける事が出来ます。簡単に分けるとするなら、高天原にいるのが天津神であり、芦原の中つ国にいるのが「国津神」になります。そして、瓊々杵尊は天津神であり、木花咲耶姫命と大山祇神は国津神になります。どちらが上という事はないのですが、国譲りの所などを読むと、天津神のが国津神より上に立っている様に描写されている所がありますね。

 富士浅間神社では、三柱以外に、祖母にあたる「天照皇大神」と息子にあたる「彦火火出見命」も祭神として祀っています。この辺りは、境内に掲げられている由緒板に書かれているので紹介させて頂きます。

 明応四年(1495年)六月、後土御門院の勅令によって、駿河の浅間神社より分霊を勧請して奉祀したという由緒が伝えられている。
 祭神は中央に木花咲耶姫命、左に瓊々杵命、大山祇神、右に天照皇大神、彦火々出見命を合祀するほか、数社が祀られている。
 なお、この神社には、近くの那古野古墳から出土した有蓋脚付壺が保管されている。

"境内由緒書板"より

 さすがに、観光向けであろう案内板では細かいことまでは書けない(書くスペースがない)のでざっくりとした由緒しか分からなかったので、愛知県神社庁が発刊している「愛知県神社名鑑」を参照してみます。

古くは富士権現又浅間宮と称し、明応四年(1495年)六月1日、後土御門天皇の勅を奉じて駿河本宮富士浅間神社の神主小林修理が勧請し、日置荘浪越山、今の社地に鎮座する。尾張国守護斯波治部大輔義廉の一族「前津小林城」主、牧下野守義長の息「若狭守与三衛門尉源長清」信仰深く、大永六年(1526年)本殿再建、寛永十年(1633年)藩祖義直本殿を造営今も葵と鷹の羽交互打ち金物を仰ぐ。社地は本町通り接し南北七十八間、東西七十間余の広大で尾張徳川家代々の子安安産の祈願所なり。社殿修造など尾張公で明治維新まで続く。明治制度改めにより清寿院の別当は廃止となり、明治五年村社となる。子安神として賽者多し。同四十年十月二十六日、神饌幣帛料供進指定社となり、昭和七年三月二十五日、郷社に昇格する。

愛知県神社庁発刊"愛知県神社名鑑"より

 前回紹介した「日出神社」の由緒でも少し触れていますが、富士浅間神社は江戸幕府が開幕し、尾張藩が成立すると、藩主徳川義直により別当が設けられ、寛文六年(1666年)には「清寿院」と改称した別当寺が明治維新まで富士浅間神社の社務を勤めているのですが、この辺りは別当が廃止されたとしか触れられていませんね。

 日出神社と大きく違う点は、日出神社は清州越しによって現在の地に別当寺と共に遷座した神社であるのに対し、富士浅間神社は元々この地に鎮座している神社という点になります。そして、日出神社(清州越し時点では「愛宕神社」)の別当として清州から移ってきたのが「大圓坊良清」になります。そしてその後、元和二年 (1616年)に「良濟」が後を継ぎ、寛永十六年(1639年)には尾張藩主徳川義直より「浅間社(現在の富士浅間神社)と屋敷」の別当も命ぜられます。「良濟」は愛宕神社の別当は舎弟である「大圓坊良深」に譲り、自らは浅間社とその別当に専念することになります。この辺りは修験道当山派修験道本山派という宗派争いも影響しているようですが・・・。


 浅間神社が鎮座していた辺りは、名古屋城が天下普請によって築城され、城下整備と尾張国の中心を清州城から名古屋城に移す「清州越し」によって大きく様変わりし、名古屋城の南側に位置する大須周辺は「南寺町」と呼ばれる神社仏閣が意図的に纏められた場所に変貌します。

江戸時代の大須周辺の古地図を見てみると、どれだけ神社仏閣がこの地にまとめられていたかがわかるかと思います。寺院は朱色で塗られた場所になります。この神社仏閣の大半が清州越しで移転してきた訳ですから、その規模がわかりますね。

今回紹介している「富士浅間神社」の別当「清寿院」を画像の中心に持ってきました。清寿院のすぐ西隣には大須観音、南隣には七寺があります。

[ad]

 尾張藩の設立以前は正確には解りませんが元亀元年(1570年)頃までは、由緒でも出てきていますが、「前津小林城」という城があり、「牧興(与?)三右衛門尉長清」という武将が城主でした。富士浅間神社の社殿を造営したというこの「牧長清」がどんな人物だったのか「尾張志」に記述があったので紹介します。

前津村の人。斯波武衛の連枝(兄弟)「牧下野守義長」の子。織田信長公の妹を娶りて国中の幸ひ人栄花人に過たり。古書に小林殿としるせるは此人の妻「織田信秀」の娘の事也。長清佛法に帰依し諸国の名山高嶽に登る事を好む。富士愛宕等に遊ひて其社を前津村に勧請せり。後年剃髪して梵阿弥陀仏と称す。その夫婦の墓矢場地蔵の境内にあり。

「尾張志」より

 今まで、牧長清という武将を存じ上げないなかったのですが、この血筋は当時の尾張国に在ってはとても垂涎の的になりそうな感じがします。尾張守護代である斯波家の血筋(斯波家最後の尾張守護代である「斯波義銀」の従兄弟)であり、母は織田信秀の妹「長栄寺殿」になります。そして、尾張誌にもあるように、牧長清は正室に織田信長の妹である「小林殿」を娶ります。まさに織田弾正忠家の家臣団の中では特別な立場にいたことは容易に想像できます。その割には、武勲などの詳細は不明な所から、文官として仕えていたと思うのですが・・。

  何やら、尾張志を読むと、富士浅間神社は牧長清が勧請した様な書き方になっていますね。富士山信仰を始めとする山岳信仰は古来よりありましたが、山登りが高じて、自らの領地に自らが信仰する山岳信仰の神々を勧請したということなのでしょうか。

ん?そうなると、明應四年(1495年)後土御門天皇が勅を出して勧請したという由緒は一体?

更に、大正四年発刊の「名古屋市史」にはこんな記述が、

・・(前略)・・長清禅に参し、又念佛を行とせらる。当時富士山七度禅定の願を発し、三度登山せしが、年老いて且つ一地の主人たる身の軽々しき旅行も難しく、特に戦国交通の便宜しからざれば、其本意を果たす能はざると以て、近境に富士塚七丘を築き、浅間社を勧請し、七度の禅定の結願に擬す。後の清浄院の浅間社是なり。・・(後略)・・

 あら、こちらでは完全に牧長清が浅間神社を勧請、建立した事になっています。名古屋市史が大正四年発刊という事で、およそ100年前の史料になるので、それ以降に資料が見つかって後土御門天皇の勅願で建立した事になったのか・・・。

 そのあたりは、今回資料を見ててもよくわからなかったので、当サイトでは明應四年(1495年)創建はあくまでも社伝という形なんだろうとさせて頂こうかと思います。

江戸時代の富士浅間神社、清浄院の様子

 清浄院の境内にあは山の様な地形が描かれていますが、この山の様な部分が前津小林城主「牧長清」が作ったという富士塚七丘でしょうか。富士浅間社(富士権現)は左頁中央の右向きに描かれている社になります。
 ちなみに、左頁下に描かれている切妻妻入の建物は、大須観音の山門前に建てられていたという舞台小屋になります。この舞台小屋の裏手から明治二十五年に本堂、五重塔などを焼失してしまった火事が起きたのかも?

名古屋二十一大師霊場を行く-寄り道遍-

日出神社」の参拝を終え、由緒を調べて出てきた別当寺である「大乗院」と繋がりが見えてきた今は廃寺となってしまった「清寿院」が別当と務めていた「富士浅間神社」を参拝します。

 大須商店街の中でも、アーケードが設けられている通りがメインストリートになるかと思うのですが、その中でも、「仁王通り」と「赤門通り」という非常に観光客、買い物客が多い商店街が平行するように通っているのですが、その両商店街に挟まれる様に鎮座しています。

参拝記

 写真奥に見えるアーケード屋根が設けられている通りが「赤門通り」になります。非常に多くの買い物客、観光客の方が行き交う大須商店街のメインストリートの一つになります。

 こんな通りの近くに神社が鎮座しているのですが、一体どれだけの方が富士浅間神社の存在に気が付いてくれているのかな。尾張徳川家が安産の祈祷所としていたという由緒がある神社なので、もっと注目されてもいいのかなとは思いますね。

境内入口

 鳥居と富士浅間神社と彫られた社号標が据えられた境内入口になります。以前紹介した「北野神社」と同じような社殿配置になっていて、社殿と境内社である稲荷神社の間に手水舎が置かれている変形的社殿配置となっています。

手水舎・水盤

 木造銅葺四本柱タイプの手水舎になります。
 あとから稲荷社の整備を行った為か稲荷社の参道と手水舎が微妙に交差している様に見えます。

社殿

 拝殿は入母屋造銅葺妻入りの向拝が設けられているのですが、なぜか写真がなかったので、今回は、拝殿脇から見えた本殿とそれを囲む玉垣を。
 写真の構図からわかって頂けるかな? 本殿が鎮座する場所は一段高くなっていて、まさに尾張名所図巻で描かれている様な感じになっています。

境内社

 富士浅間神社の鳥居の脇に、境内社の「まねき稲荷」に通じる石鳥居も設けられています。
 本社である浅間神社には狛犬は据えられていなかったのですが、こちら稲荷神社には狛犬ならぬ狛狐が据えられています。
 社名にもなっている「まねき」は狛狐が招き猫の様に片手を挙げている所から付けられているようです。

 わかりますか?向かって左側の狛狐が右手をあげています。
 ただ、何時頃からこの様に「まねき稲荷」と称するようになったのかは不明です。

参拝を終えて

社務所がないなあと思っていたら、富士浅間神社の前横切る道路の対面にありました。境内を横切る様に通りが作られたとは思うのですが、今では境外に社務所がある様に見えてしまいますね。

地図で鎮座地を確認

神社名富士浅間神社
鎮座地愛知県名古屋市中区大須二丁目十八番二八号
最寄駅名古屋市営地下鉄 鶴舞線「大須観音駅」2番出口徒歩7分

次の目的地は?

 富士浅間神社の参拝を終えて、そろそろ大須地区を離れないと本来の目的である名古屋二十一大師の遍路が全く進まないので、バイクが止めてある場所に戻る事にします。時間がないといいつつ、まだ寄り道をしていこうと思っているので、結局予定通りには納経できていないのは仕様だと思ってください・・・。

名古屋21大師霊場を行く-寄道遍-

大須にある「赤門通り」の由来となった「興國山大光院」を参拝します。大名古屋八十八ヶ所霊場の五番札所にもなっています。

-名古屋市中区