社伝によると、延喜式神名帳に記載されている「愛知郡伊副神社」を前身であるとしています。鳴海の如意寺が別当として祭祀を行っていたとも言われる神社であり、その後成海神社の別宮となったとしています。
神社紹介
神社名 | 鳴海八幡宮 |
鎮座地 | 名古屋市緑区鳴海町字前之輪二十三番地 |
御祭神 | 應神天皇 神功皇后 瓊瓊杵尊 玉依姫命 月読尊 |
旧社格 | 神饌幣帛料供進指定村社 |
創 建 | 不詳 |
神名帳 | 延喜式神名帳 愛知郡 伊副神社 |
境内社 | 高良社 北野天満社 秋葉社 国造社 須佐之男社 金刀比羅社 御鍬社 稲荷社 香良洲社 祓戸社 |
例祭日 | 十月十五日に近い土曜日 |
御朱印 | ー |
H P | ー |
参拝日:2020年8月26日
御由緒
鳴海八幡宮の拝殿に置かれていた「鳴海八幡宮由緒書き」によると、創建は不詳なれど、「延喜式神名帳 愛知郡 伊副(いぶき)神社」を前身とする神社であると記されています。
格式となる「延喜式」の巻九と巻十が全国の当時繁栄していた神社を記載した「神名帳」になります。「延喜式=神名帳」と勘違いされている方もみえるみたいですが、延喜式とは、延喜年間に編纂の勅命が出された格式になります。奈良時代から平安時代の日本の法体系は「律令制度」を採用しており、この律令の運用を補う物を「格式」と呼びます。現代風に例えるなら、律令が憲法、格式が法律といったところでしょうか。律令は改訂することなく、「格」で改訂を行い、「式」で施工細則を取り決めていました。
ただ、当時の政の中心は宗教であり、延喜式の巻一~巻十は神祇官についでの施工細則が記述されているので、その中の一環で全国の神社が記載されている「神名帳」が作られる事になったと思います。
延長五年(927年)に完成したという「延喜式」の神名帳に記載されたという事は、当時の伊副神社の社勢はかなりのものだった事が推測できます。しかし、由緒書きによると、その後伊副神社が衰退し、平安時代末期、熱田社(現:熱田神宮)の大宮司が「応神天皇」を勧請し伊副神社の御祭神とし復興したと記されています。しかし、由緒書きには伊副神社の元々の御祭神はどの神々だったのかという記載はなく、今も配神として祀られている神々が元々の主祭神だったのかは不明です。
延喜式神名帳に記載されている「愛知郡 伊副神社」ですが、現在、伊副神社は存在しておらず、伊副神社の流れをくむ神社ではないかという論社が何社か存在している状態です。これらの論社の中から「伊副神社」であったという比定は行われておらず、今後もよほどの資料などの発見がない限りはこのままの状態ではないかと思います。
現在、伊副神社の論者となっているのは下記の通り
・愛知県東郷町鎮座 富士浅間神社
・愛知県あま市鎮座 伊福部神社
・愛知県名古屋市緑区鎮座 熊野社
・愛知県北名古屋市鎮座 天神社
今回紹介している鳴海八幡宮が伊福神社であったという説は他では正直聞いたことがなく、鳴海八幡宮の社伝のみ伝わるものなのかもしれません。
当サイトでも紹介している四国直伝弘法三番札所となる「頭護山如意寺/紹介記事」が康平二年(1059年)に現在の鳴海町の小松山に創建されます。当時の寺名は青鬼山地蔵寺。この如意寺が創建された場所は伊副神社の境内地の傍らとなる場所であり、如意寺は伊副神社の別当寺として祭祀を行っていたと伝えられています。このため、如意寺の本尊は伊副神社の祭神の本地仏であるとする説も存在している様です。
また、山口教継が織田信長を裏切り、今川方に与した事で義元は難なく鳴海城から大高城を手中に入れ、弘治三年(1557年)、成海神社と共に鳴海八幡宮に神田を寄進しています。何時ごろからか解りませんが、成海神社の別宮に鳴海八幡宮がなっていたといい、一時は例祭も同時に行われていたそうです。
創建は明らかでないが、弘治三年(1557年)十二月三日、今川義元より八幡宮と鳴海東宮(成海神社)へ神田十一貫五十文の寄進状あり。次で天正十七年(1589年)五月吉日、山口長次郎重政より両神社神主に社領二十貫文の寄進あり。古き棟札は元和八壬戌年(1622年)八月再建のものあり。殊に十月十五日の例祭には氏子の奉仕により神輿渡御数多くの神宝を捧持長蛇の列を作り氏子町内を巡幸する。町内より山車装い立て供奉し夜に入りては数百の小提灯をつけ囃子立て壮観を呈する近郷近在より参詣者で町中の賑やいは今に衰えず。神官は貞永年中(1232年)初代大賀元久社職となり三代目久野屋仲次郎に改姓し今日に至る。
明治五年七月二十八日、村社に列格し、同四十年十月二十六日、神饌幣帛料供進指定社となる。昭和四十四年九月四日、八幡社を鳴海八幡宮と改称する。
愛知県神社庁発刊「愛知県神社名鑑」より
参拝記
鳴海駅または国道1号線から県道50号線を大高駅方面に南に向かっていくと、途中に「鳴海八幡宮」の案内看板が設置されています。県道から西側に位置する場所に「鳴海八幡宮」が鎮座していますが、県道から境内に向かう道は少し狭いので注意してください。
境内入口
鳴海八幡宮の境内入口になります。道路から少し奥まった所に瑞垣があり朱色の両部鳥居がある境内入口があります。道路からこの入口の間は参拝者駐車場として用意されています。
社号標
鳴海八幡宮と彫られている社号標になります。現在の社号の八幡社ではなく「宮」になっていますね。どこまでの強制力があったのかは不明ですが、一時期社名に「宮」を使わないようにという通達があったとか・・。ただ、「宮」を使っている神社もある処から、何が何でも強制的に改称を迫ったという感じでもなさそうな感じですが。
鳥居
木製の朱塗りの両部鳥居になります。希少性も相まって両部鳥居は非常に絵になる感じがします。
手水舎
RC造の四本柱タイプの手水舎になります。柱の間隔に対してかなり屋根が大きく、すこし頭でっかちな印象をうける手水舎です。造り的に見て、社殿と同時期に造営工事が行われたのでしょう。
狛犬
昭和五十五年生まれとかなりまだ若い狛犬一対になります。何時も何気に見ている岡崎型と姿が異なる狛犬ですね。古代型とかいうそうですが、この辺りは詳しくないので調べていこうかと思います。
社殿
昭和後半から平成にかけて建立されたRC造の社殿について、その造りをどうやって形容していいのか困る社殿が非常に多い様な感じがします。ここ鳴海八幡宮の拝殿も、通常で行けば切妻造銅葺RC造の拝殿に唐破風の向拝が設けられている拝殿であるのですが、その両脇になにやら祭祀の際に氏子の方達が控える(祭祀に参列する)為の部分が作られている様です。
境内社
社殿向かって右側に境内社六社の鞘堂が設けられています。こちらの鞘堂に鎮座する境内社は、国造社、御鍬社、秋葉社、高良社、金刀比羅社、須佐之男社になります。
この六社以外に、境内には、稲荷社、香良洲社、祓戸社が鎮座しています。
ここ鳴海八幡宮には祓戸は設けられていませんが、祓戸社が鎮座しています。この祓戸社の神前で祭式の際修祓を行うのでしょうね。
地図で鎮座地を確認
神社名 | 鳴海八幡宮 |
鎮座地 | 名古屋市緑区鳴海町字前之輪二十三番地 |
最寄駅 | 名古屋鉄道 名古屋本線「鳴海駅」徒歩12分 JR東海 東海道本線「大高駅」徒歩8分 |
ご自宅にお札は祀られていますか?
実家には神棚はあっても、今お住いの所には神棚がない方も多いかと思います。神棚には、日本の氏神である"天照大御神"とご自身がお住いの氏神様のお札を掲げると御神徳が宿るとされています。
賃貸住宅などに住まわれて簡単に神棚を掲げられないという方もお勧めなのが、
南向き、もしくは東向きになる様に、そして目線の高さより上になる様に、棚などの上において頂くとよいかと思います。是非、皆様もご自宅に神棚をご用意いただき、御札を納めてほしいなと思います。