矢作神社(愛知県岡崎市矢作町)日本武尊伝説地・軽巡洋艦「矢矧」艦内神社

 古事記、日本書記に記されている日本創世の伝説の中でも最大の英雄と言えば「日本武尊」になるのではないでしょうか。日本全国には記紀に載っていない日本武尊の伝承地と伝えられる場所が非常に数多く存在しています。今回紹介する「矢作神社」も記紀には載っては居ませんが、日本武尊の伝承地との伝えられる場所の一つとなります。
 そして、日本海軍の軽巡洋艦「矢矧」の艦内神社として分霊が祀られていた事でも知られています。矢矧艦内に艦内神社として矢作神社の分霊を祀ったのは大正九年(1920年)九月七日になります。この記事を書いている令和二年(2020年)九月七日はなんと艦内神社として分霊を祀って丁度100周年になります。

神社紹介

神社名矢作神社
鎮座地愛知県岡崎市矢作町字宝寿庵一番地
御祭神素戔嗚尊、豊受大神、保食神
旧社格郷社
創 建不詳
神名帳
境内社秋葉社、社宮社、観音社
例祭日十月一日
御朱印〇(独自御朱印帳あり)
H P公式フェイスブックページあり(こちらから

参拝日:2020年7月22日

 愛知県に存在するヤマトタケルの伝承地を尋ねて、古事記、日本書記に記されていない尾張国、三河国の東征の進軍ルートを考察していく「ヤマトタケル東征伝承地を尋ねるin愛知県」という企画を始めました。是非、一度覗いてみて下さい。

御由緒

 矢作神社の創建に深く関わっているとされるのが「日本武尊(日本書記)・倭建命(古事記)」になります。景行天皇の第三子「小碓尊」であり、兄の「大碓尊」とは二子として生まれてきたといいます。
 景行天皇の子供はこの西三河に非常に縁があるのか、「大碓尊」は現在の豊田市猿投町に御陵があり、「猿投神社」の御祭神として祀られています。更に後皇后の間に生まれ、当サイトでも取り上げています「五十狭城入彦皇子」は現在の岡崎市西本郷町に御陵があり、「和志取神社」の御祭神として祀られています。景行天皇は非常に皇子、皇女を設け、全国を統治力を強化する為に皇子たちを各地に配置したと言われています。

 日本書記によると日本武尊が父景行天皇より東征を命じられたのが景行天皇四十年になります。その頃のヤマト朝廷が実効支配出来ていたのは三河地方ぐらいまでではなかったのかと思う訳です。
 そこで、日本武尊は、伊勢神宮を参拝した時に「倭姫命」より草薙剣を授かった後、海路にて尾張国に向かっています。尾張国は国造「尾張氏」が治めており、ヤマト朝廷の勢力圏内だったと思われます。そこから陸路にて東に向かい、駿河国を中心とした蝦夷と呼ばれる敵対勢力を制圧に向かっていく事になる訳です。織田信長vs今川義元を見ても分かる様に尾張国と駿河国の勢力がぶつかる場所は三河国を流れる矢作川であるという事なのでしょう。

 矢作川西岸にたどり着いた日本武尊率いる朝廷軍は、矢作川東岸に砦を築いている賊を打ち取ってほしいと地元の民達から請われ、そこで日本武尊は矢作川の中州などに自生している竹を集め、矢を矧いだといいます。

 矢作神社に掲げられている伝承では、矢作川の東側に賊が陣取っていた為、当地を訪れた日本武尊に賊の討伐をお願いした。日本武尊はそれでは矢を作る様に支持をするが、矢作川の中州の流れがつよく、矢作部と呼ばれる住民たちも竹が自生している中洲にたどり着くことができなかった。この時一匹の蝶が人に変化し中洲に渡り竹を集めてきて、矢作部たちはこの竹を使って矢を一万本も作り、この矢を使って日本武尊は対岸に陣取る賊を打ち取った。」とあります。

 この矢作神社の伝承とほぼ同様の伝承が、矢作神社の北側に鎮座している「長瀬八幡宮/紹介記事」にも伝えられています。

 賊を打ち取った日本武尊率いる朝廷軍は、矢作川を渡河した後、東に進み現在「満性寺」が建っている辺りで神事を行い、その神事で使用した矢を依代として天照大御神を勧請し「菅生神社」を創建されます。「菅生神社」は岡崎市で最古の神社と言われています。

 矢作の地で矢を矧ぐ際、日本武尊が崇敬していたという「素戔嗚尊」を祀った広前で矢を矧いだと伝承されていますが、当地に素戔嗚尊を奉る社が建てられるのはもう少し後の時代だという事になるのだと思われます。

 矢作神社という社名は明治時代以降に改称された社名になります。江戸時代以前は「牛頭天王社」と称しており、地元の人達からは「天王さん」と呼ばれていたといいます。京都の祇園に鎮座する八坂神社と同じく元々は「牛頭天王」を奉っており、明治時代の神仏分離令によって牛頭天王と同一視されていた素戔嗚尊を祭神としています。
 現在でも岡崎市矢作町に祇園という地名があり、元々矢作神社はこの祇園に鎮座していたそうなのですが、矢作川の氾濫により幾度と社殿が流出しており、現在の地に遷座したといいます。元々現在の境内地には「宝珠稲荷寺」が鎮座しており、この宝珠稲荷寺の鎮守社であった稲荷社祠に合祀するような形で遷座したとも言われています。宝珠稲荷寺が衰退すると、いつしか主客が入れ替わり、牛頭天王社となり、宝珠稲荷寺の本尊であった薬師如来像は勝蓮寺にて奉安されるようになったそうです。(現在でも薬師如来像が祀られていた痕跡が残っていて、境内の南側にひっそりと「薬師社」と彫られた石碑が残っています。もしかしたら明治時代に入るまでこの薬師社にて祀られていたのかもしれません。)

 また、河内源氏三代目「源義家」が永保三年(1083年)後三年の役といわれる奥州征伐軍を率いて東北に向かう際、矢作神社を参篭したと伝えられています。由緒によると、日本武尊の東征の故事に従い戦勝祈願をしたとされています。父である源頼義が建立したという長瀬八幡宮には参拝しなかったのでしょうかね。

 社伝に日本武尊東征の時、三河国蓬里にて軍神素戔嗚尊を祀り広前で矢を矧ぎ給いしにより、矢作神社と称す。中古牛頭天王ともいう。永保三年(1083年)七月、源義家陸奥守として奥州征伐に向う際、日本武尊の故事により参拝武運を祈願する。建武二年(1335年)矢作川を境に新田義貞と足利尊氏が戦い、義貞社前詣で、戦勝を祈る。社畔の大石(うなり石)鳴動す之加護の竒象と神明加護の幟河岸に建て大いに戦い敵を遠く駆逐すと。天文年中(1532-54年)松平広忠、社田二十石を寄進する。矢作橋架替には城主、普請奉行より幣帛と寄進物があった。明治五年九月十七日、郷社に列格。同四十年十月二十六日、神饌幣帛料供進指定社となる。昭和十二年六月十八日、社殿を改築した。

愛知県神社庁発刊「愛知県神社名鑑」より

歴史探訪

 「矢作神社」は明治四十五年(1912年)七月二十七日竣工した筑摩型巡洋艦の二番館となる「矢矧」の艦内神社であったことが知られています。ただ、艦内神社として祀られる様になったのは大正九年(1920年)九月七日の事になります。

 第一次世界大戦に大日本帝国は連合国側として参戦していており、日本海軍はドイツ領南洋諸島占領などの作戦の為、矢矧を含む艦隊を南洋に送っています。大正七年(1918年)十一月、南洋での任務を終えた「矢矧」はシンガポールにて交代艦と任務の引継ぎを行い、日本に向けて出港します。
 1918-20年は世界中でパンデミックを引き起こした「スペイン風邪(インフルエンザ)」が猛威を振るった年であり、シンガポール停泊中に感染したとみられ、航海中の「矢矧」艦内においてスペイン風邪の集団感染が発生してしまいます。12月5日にマニラに入港していますが、艦内はスペイン風邪の蔓延により悲惨な状況だったと言われています。
 矢矧の乗組員469名の1割以上に当たる48名もの犠牲を出しながらも、その後日本に帰国していますが、艦内において疫病が蔓延した大惨事を受け、大正九年(1920年)九月七日、艦名ゆかりの「矢作神社」分霊を「艦内神社」として祀ることになります。
 これ以降、幾度か船員全員による矢作神社参拝が行われ、このうち大正十年(1921年)四月五日、六日の両日、蒲郡港に停泊中の矢矧から全乗組員が半舷上陸により矢作神社に参拝した際、1/100スケールで作られた矢矧の模型が奉納されています。この模型は現在でも拝殿の中に据えられています。

 矢作神社は神職が常駐している神社ではありませんが、事前に宮司さんに連絡を入れて日時を合わせて参拝すると、拝殿を開けて頂けるので、矢矧の模型などを見学する事ができます。

 大正九年に奉納された矢矧の写真になります。必要以上に機密保持にうるさかった日本海軍では、他国と比べると軍艦の写真って極端に少ないんで、この矢矧の写真も非常に貴重なものだと思います。

参拝記

 矢作川の右岸側の堤防道路沿いに鎮座しているのが矢作神社になります。国道一号線の矢作橋から堤防道路へ進み少し北に走ると堤防の高さと同じ高さの境内の八幡社が鎮座しています。この八幡社の北側に堤防下に鎮座しているのが「矢作神社」になります。

境内入口

 矢作川右岸側の堤防道路を走っていくと、堤防道路から矢作神社の境内に向かう参道が設けられています。堤防の取付道路がそのまま境内入口になっている感じですね。

社号標

 矢作川の堤防道路を通る人にアピールするように据えられている旧社格「郷社」が合わせて彫られた社号標になります。

鳥居

 基壇の上に据えられた扁額のある明神鳥居になります。

石灯篭

 矢作神社に改称する前、「牛頭天王」と呼ばれていた時代に建てられた石灯篭になります。そういえば建立年月を確認していなかったのですが、由緒から推測すると江戸時代に建立された石灯篭になるはずです。

手水舎

 木造瓦葺四本柱タイプの手水舎になります。
 隣に見きれている格納庫と書かれた倉庫には「山車」が格納されています。

祓戸

 基壇の上に石造の瑞垣が設けられた祓戸になります。

狛犬

 大正八年生まれの狛犬一対になります。個人的には、全体のバランスが取れた狛犬だなと思っています。ただ、体に施された毛並みを表しているんだろう装飾はいらなかったかなと思わなくもないですが。

社殿

 切妻瓦葺妻入りの参拝部分に庇が設けられた拝殿を有する社殿になります。

 本殿は入母屋造瓦葺の覆殿の中に鎮座しているようです。

矢竹とうなり石

 日本武尊の伝説にもでてくる矢作川に自生していたという「矢竹」と、竹に囲まれる様に中央に祀られているのが由緒でも出てくる新田義貞が矢作川を挟んで足利尊氏の軍勢と対峙した時に戦勝祈願の際、このうなり石が鳴動し、神の加護を得たと新田軍を鼓舞する事となった「うなり石」と呼ばれる大石になります。

境内社

 境内社の秋葉社になります。

日本武尊像

 皇紀二千六百年記念として昭和十八年に据えられた日本武尊の陶像になります。建立されてもう少しで80年になるのですが、そんな時代を感じさせません。陶像はあまり風化しないものなんですかね。

地図で鎮座地を確認

神社名矢作神社
鎮座地愛知県岡崎市矢作町宝珠庵一番地
最寄駅名鉄バス「30東岡崎-JR安城駅前」他 「矢作橋バス停」徒歩7分

ご自宅にお札は祀られていますか?

実家には神棚はあっても、今お住いの所には神棚がない方も多いかと思います。神棚には、日本の氏神である”天照大御神”とご自身がお住いの氏神様のお札を掲げると御神徳が宿るとされています。
賃貸住宅などに住まわれて簡単に神棚を掲げられないという方もお勧めなのが、

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南向き、もしくは東向きになる様に、そして目線の高さより上になる様に、棚などの上において頂くとよいかと思います。是非、皆様もご自宅に神棚をご用意いただき、御札を納めてほしいなと思います。

神社誌作成プロジェクト

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