城跡巡り

寺津城址(西尾市寺津町)現:瑞松寺

2018年5月12日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

ONE POINT

 後に老中「松平信綱」を輩出する大河内氏が吉良家家臣時代に居城としていた寺津城の紹介です。

城郭紹介

城郭情報

城郭名寺津城
所在地西尾市寺津町御屋敷地内
築城主大河内大蔵少輔信政(信綱)
築城年永正年間(1504-21年)
城形状平城
規 模東西約四十間、南北約五十間
廃城年永禄四年(1561年)
遺 構土塁?

文化財

国 宝
国指定
県指定
市指定
町指定
村指定

見学情報

御城印
駐車場
訪問日2018年5月11日

御城印の保管に

 御朱印ブームの柳の下のどじょうではないですが、ある時まさに彗星の如く登場した感のある「御城印」。各神社や寺院で押印してきた御朱印と異なり、各地方自治体が観光PRも兼ねて発行している事もあり、御城印を用意する城址の数がまさに「うなぎ上り」の如く増加しています。
 御朱印帳に記入していただく御朱印と異なり、御城印は基本書置きの物になり、またそのサイズも統一されているわけではないようです。そんな御城印を管理される場合、ポケット型の御城印帳が非常に役に立ちます。御城印を集められる方は是非用意してほしい一冊です。

 

沿革

 永正年間(1504-21年)に吉良家家臣「大河内太蔵少輔信政(信綱)」が築城し、永禄四年(1561年)に落城したと伝わる。また寺津城は「臥牒城」とも呼ばれた。

 大正六年に設置された「寺津城址」の石碑の裏面に「東西約四十間、南北約五十間」と刻まれていて、往時の規模を示している。

寺津城の縄張図

 寺津城は堀と土塁で囲まれた城郭だったようです。絵図を見ると外曲輪の様な場所に城内には築城主である信政が建立した「義光寺」と大河内氏の菩提寺「金剛院」が建立されているのが見て取れます。

主な清州城主

  • 大久保信政
  • 大久保信貞
  • 大久保秀剛
  • 大久保久綱

大河内氏とは?

寺津城主だった大河内氏の解説

訪問記

国道247号線の寺津町交差点から80mほど北に進んだところに、「寺津城址」と彫られた石碑のある寺院「瑞松寺」が鎮座しています。

丁度稲荷社の鳥居に石碑が隠れてしまっていますが、ここが"瑞松寺"になります。

この瑞松寺、詳細は不明ですが、宗派としては浄土宗の寺院になります。

本堂向かって右手に寺津城址の石碑が置かれています。
石碑が右手側の木の根元に置かれたせいか、木の成長に合わせて傾斜してきているようです。

境内がさっぱりしているせいか、脇にある鎮守の稲荷社の赤い鳥居が非常に目立ちます。

この稲荷社の社が鎮座している場所は、一段高くなっていて、一説には土塁跡ではないかとの事。この辺りの地形は、国道247戦から寺津入江に向かってながらかに下っていくので、裏から見ると、正面以上に稲荷社が鎮座している部分がかさ上げされている感じがします。

 境内脇の小道から稲荷社の祠を見上げてみます。道路から3mほどの高さがあります。この見上げてている場所は周囲より少し低くなっていてより一層稲荷社が建つ場所が高く感じます。もしかしたらこの一段低くなっている場所は掘址なのかな?

 大河内氏は分家が「長縄城」、「巨海城」を築き、それぞれ独立していた様です。特に長縄城の大河内氏は松平清康が森山崩れで惨殺された遺骸を自らの居城近くで荼毘に付したという伝承があったりします。

松平清康公仮葬地之碑

松平清康の遺骸を荼毘に付した場所と伝える。

地図で場所を確認

城郭名寺津城
所在地西尾市寺津町御屋敷地内
最寄駅鉄道:
バス:名鉄バス「寺津神社前バス停」徒歩2分

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