三河海岸大師八十八ヶ所 西尾市 西条吉良観音三十四ヶ所

石橋山 福泉寺(西尾市行用町) 三河海岸大師 五十四番札所

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寺院情報

寺院名 石橋山 福泉寺
所在地 西尾市行用町西屋敷四十六番地
御本尊 不明
宗 派 浄土宗西山深草派
創 建 不詳
札 所 三河海岸大師 五十四番札所
御朱印
H P

参拝日:2018年5月29日

三河海岸大師霊場札所一覧


沿革・由緒

往古華厳宗の道場なり。六代目宗珍家康公へ助力致したる功により矢作川下流の芦野を下附せられ刈宿にありたる庵室を移したものなり。萬斎和尚始めて浄教となす。故に之れを中興の開山とす。和尚は天正元年三月二十五日寂す。寺号を石橋山と号す。

「碧海郡福地村誌」より

三河海岸大師霊場を行く

参拝記

西尾市の寺津地区から西尾市吉良町の荻原に抜ける東西に走る県道312号"荻原巨海線"沿いにあるのが福泉寺になります。残念ながら、現況で判断すると、無住の寺院もしくは廃寺になってしまっているようです。

由緒にもでてきていますが、元々この福泉寺は華厳宗の道場だったそうです。華厳宗とはなんぞや?

元々華厳州は、中国の杜順という僧にによって開宗され、「華厳経」と呼ばれる経典を元としています。奈良時代に日本に華厳宗が伝わり、本山は東大寺、本尊は盧舎那仏像(大仏様)になります。
日本の仏教は大きく「奈良仏教」「平安仏教」「鎌倉仏教」の三つに分けることができます。華厳宗は奈良仏教に属し、「南都六宗」とも呼ばれています。
南都六宗


・三論宗 ・成実宗 ・法相宗 ・倶舎宗 ・律宗 ・華厳宗

余り聞き覚えのない宗派なんです。そもそも南都六宗も半分は廃れてしまい今では存続していないんだとか。そんな華厳宗ですが本山が奈良の東大寺になり、本尊が大仏様なんだとか。修学旅行の舞台が奈良京都の方ならほぼ100%は拝観した事がるであろう場所になりますね。

何時頃三河のこの地に道場が建立されたのかは不明ですが、こういった宗派の道場が地方にあったことに驚きです。


寺院全景

 

先にも述べていますが、今回紹介する福泉寺なんですが、庫裏がなくまた全体の雰囲気がかなり閑散となってしまっている為、無住の寺院になっています。本堂の中を窺う事ができなかったのでなんとも言えませんが、廃寺になってしまっているかもしれませんね。

石柱門

寺院である事を示す石柱門が本堂前に建っています。寺号などは彫られておらず、資料がなければ寺院名も分からない所でした。

水盤

手水舎はなく露天の水盤が置かれているのですが、どう考えても水道の蛇口から考えて水盤をずらしているとしか思えません。もし仮に元からこの置き方だったとしたら、水盤の据え方が前後反対になっていると思うのですが。

本堂

寄棟造瓦葺妻入りの向拝の設けられた本堂になります。
壁がトタン板葺になっていたりして、何となく仮本堂の雰囲気もしてきます。資料はまったくないのですが、もしかしたら依然、天災などで本堂が倒れてしまい、仮設で作った本堂がそのまま残っているのかもしれませんね。

三十三観音

境内には、台座が設けれてている西国三十三観音の移本尊が安置されています。
なんとなく、三河地方の寺院を参拝してまわっていると、西国三十三観音像が多くの寺院で安置されています。もう少し統計の数値が取れてきて、かなりの確率で観音堂が据えれていたとしたら、三河地方の寺院といえば三十三観音像もしくは観音堂と認識してもいいかもしれませんね。また、宗派によっても観音堂の有無の違いがあるかもしれませんので、その辺も調べていこうかなと思います。

役行者像

境内の中央辺りに、石組があってその上に安置されている「役行者像」になります。
元々は祠の中に安置されていたんだとは思うのですが・・・・。

それにしてもこの役行者像は非常に優しい顔つきをされていますね。

不動明王像?

本堂の垣根の脇にも石像が安置されています。
こういった石造を見分ける力が皆無な為、どんな石像なのかさっぱりわかりませんが、なんとなくお姿が不動明王の様にみえるのです。いや・・・もしかしたら毘沙門天?・・・そんな荒々しいお姿をしているとおもうのですけどね・・・どうなんでしょうか。

三河太守源家康鷹野陣跡

ここ福泉寺は由緒にありますが、時の住職が徳川家康に助力をしたため、この地に寺領を受けたとされています。その為、家康とも面識があったと思われるので、この地で鷹狩をした際の本陣を福泉寺においてもおかしくはないかなと思われます。ただ、実際にこの地で鷹狩が行われたのかは・・・・・。

文献では鷹狩の資料は残っていないと思うのですが、この福泉寺に残る口伝、寺伝などで鷹狩の際本陣が置かれていた事が今に伝えれているのかもしれませんね。

特に、この福泉寺のすぐ西側には、戦国時代から江戸時代初期にかけて弓取川が流れていて、岡崎まで船が航行していたと思います。その後川の付け替えで弓取川は廃河になり矢作川が誕生します。

参拝を終えて

何時頃から無住になってしまったのかは不明ですが、江戸時代までは由緒から見ても幕府からの庇護があったんだろうと思うのですが。華厳宗という正直今まで触れたことのない宗派にも由緒の中で触れる機会があり、もっと勉強しないとなあと実感させられる寺院でした。

次の目的地は

三河海岸大師五十四番札所「石橋山 福泉寺」を後にして、同じ行用町にある三河海岸大師五十三番札所、西条吉良観音十七番札所である「鳳鳴山 楽善寺」を目指していきます。

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