ONE POINT
江南市小折町を治めていた「生駒氏」の屋敷跡になります。一時は城郭化され「小折城」とも呼ばれていた様ですが江戸時代になり城郭部分は破却され生駒氏の別屋敷として明治維新まで使われてきた屋敷跡になります。
城郭情報
城郭名 | 小折城/生駒屋敷 |
所在地 | 愛知県江南市小折町地内 |
築城主 | 生駒家宗 |
築城年 | 弘治・永禄年間(1555-1570年) |
城形状 | 平城 |
規 模 | 約五町歩 |
廃城年 | 明治四年 |
遺 構 | 中門(江南市指定文化財) |
御城印 | ー |
駐車場 | ー |
訪問日 | 2022年2月9日 |
城沿革
生駒家は藤原北家の末裔とされ、藤原家広の時に大和国生駒邑を本貫地とし生駒を証したとされ、さらに家広は文明年間(1469~1486))に尾張国丹羽郡小折邑に移り住んだとし、この時に館を築いたと思われる。
生駒氏とは?
江戸時代に各武家の家系を纏めた「寛政重脩諸家譜」巻第千四百二十九に生駒氏についての記述があります。これによると、生駒氏は「参議藤原房前の後胤である。」としています。左京進家広の時に大和国生駒邑に居住せしにより家号とする。藤原房前は藤原北家の祖。ただ、分家の祖が不明の為、北家庶流とする。
- 生駒家広
- 大和国生駒邑から文明、明徳の頃尾張国丹羽郡小折邑にうつる。
- 生駒豊政
- 生駒家宗
- 生駒家長
- 生駒利豊
三代生駒家宗の娘が織田信長の側室となった「吉乃の方」がいます。
生駒家は小折邑に移住後、尾張国守護代である織田家に仕えたようですが、Wikipediaや生駒家についての記述を読むと「生駒家は馬借を営んでいた武家商人だった。」としています。武家商人とは何ぞや?大和国から尾張国に移り住んだのは尾張守護である斯波義廉との縁があったからであって商売が苦しくなったからではない気がします。
「斯波義廉は岩倉織田家とも言われる「織田犬山城主である織田敏広を頼って尾張国に入国し、義廉に従って尾張国に入国した家広は岩倉からほど近い小折邑に居を構える様になった。」と考えると、生駒家は最初岩倉織田家に仕えていたという事に納得できると思います。
三代生駒家宗の娘である吉乃が(どういった経緯で知り合ったのかは不明ですが・・。)、織田信長の側室となると生駒家宗は織田信長に仕えた。
織田信長が本能寺の変で没すると、信長と吉乃の間で生まれた「織田信雄」に仕えた。その後、織田信雄・徳川家康と豊臣秀吉が激突した小牧長久手の戦いでは小折邑周辺も戦場となってしまうが、戦いの後も秀吉から所領を安堵され、信雄が改易された後は清州城主となった福島正則に仕えたようです。関ヶ原の戦いでも、生駒利豊は福島正則の軍勢に加わっていたが、家臣とは違う立場だったのか、福島正則が広島に転封され、松平忠吉が清州城に入城すると忠吉に仕え、忠吉が亡くなると尾張徳川藩初代「徳川義直」に仕え、その後代々尾張藩士となっていきます。
元々は生駒氏の居館だったが、吉乃が織田信雄を産んだとされる頃から城郭化されていった様です。まあ、信長の側室とはいえ真偽はともかく嫡子である信忠も産んだとする「吉乃」はそのまま生駒氏の館に住んでいたので、この館の城郭化は吉乃と子供の安全を確保する為にも必要不可欠だったのではないかなと思う訳です。
こうした城郭化も織田信長の勢力拡大、豊臣秀吉による天下統一などにより周囲に敵対勢力が駆逐された事で形骸化していたのは間違いないと思いますし、江戸幕府が開幕し、一国一城令によって小折城の城郭部分は破却され、再び生駒氏の居館の姿に戻っています。
清州越しで尾張藩の城が清州城から名古屋城に移ると生駒氏の屋敷も名古屋城下に築かれますが、小折の屋敷は生駒氏の所領管理の代官所の様な形で明治維新まで存続しています。
武功夜話を是非
江南市前野町の吉田氏の屋敷で見つかったとする「武功夜話」はそれまでの織田信長を取り巻く歴史観を一変させてしまう可能性がある歴史書であるとして大きく注目を集めています。ただ、それゆえに真贋論争が巻き起こっているのも事実ですが・・・。
武功夜話は歴史書なのか?それともフィクションなのか?
是非、あなたの目で確認してみて下さい。
生駒氏所縁の場所
村基山薬師寺(愛知県江南市北山町)
江南市北山町にある曹洞宗の寺院である「村基山薬師寺」の紹介になります。江南市史では、江戸時代の創建の寺院であるとし、現在本堂前には切支丹石灯籠が据えられているとしています。布袋二十一大師、尾張国四郡大師
丹羽山本曽寺(愛知県江南市曽本町)
江南市曽本町に建つ曹洞宗の「丹羽山本曽寺」の紹介です。江戸時代に創建された寺院であり、境内入口には「足止め六部さん」の看板が設置されています。布袋二十一大師、尾張国四郡大師
神明社(愛知県江南市曽本町)
江南市曽本町に鎮座する神明社の紹介です。詳細は不詳なんですが、江戸時代には曽本の集落には神明社の他に天神社が鎮座していた様で、現在では天神社は神明社の境内社となっています。
八剱社(愛知県江南市北山町)
名鉄布袋駅近くに鎮座する「八剣社」の紹介です。創建時期は不詳ですが、元々は石作神社という尾張国造の祖「火明命」を御祭神とする神社だった様ですが室町時代に八剣社に改称したみたいです。
仙境山松岩寺(愛知県江南市布袋町)
名古屋鉄道犬山線の布袋駅から北に2~3分歩いた場所に建つ曹洞宗の仙境山松岩寺の紹介です。明治七年に緝煕義学校がおかれ、児童教育の場となった寺でもあります。布袋二十一大師霊場
訪問記
現在、現地には生駒屋敷の遺構はまったくのこっておらず、布袋保育園の南側に設けられた石碑だけがここに生駒氏の屋敷があった事を示しています。
この石碑の脇に江南市が設置した生駒屋敷の案内板があります。
江南市の説明板は「武功夜話」に基づいた記述内容となっているのが特徴です。真贋論争が起こっている「武功夜話」ですがそれまで知られていた歴史を一変させてしまう内容が多いのが特徴なのです。
現在でも元々武家の方の屋敷には日の目を見ない歴史書などが存在して、歴史を一変させてしまう史料が見つかる事もあるのやもしれません。それくらいのインパクトを「武功夜話」は持っているということなのでしょう。
生駒屋敷の縄張り図も案内板に載っていました。この縄張り図を見る限りでは、石碑の建っているばしょは右下の本丸部分または二の丸部分になるのかなとおもいます。城郭化された屋敷なので、本丸、二の丸など普通武家屋敷では見られない区割りがのこっているのも特徴でしょうか。
所在地を地図で確認
城郭名 | 小折城/生駒屋敷 |
所在地 | 愛知県江南市小折町地内 |
最寄駅 | 名古屋鉄道犬山線「布袋駅」徒歩18分 |