寺院情報
寺院名 | 遍照山 光明寺 |
所在地 | 豊田市下市場町5-20 |
御本尊 | 浄土宗 |
宗 派 | 阿弥陀如来 |
創 建 | 元亀元年(1570年) |
札 所 | 三河新四国霊場 九、十番札所 |
御朱印 | 〇 |
H P | - |
参拝日:2019年5月15日
三河新四国霊場札所一覧は「こちら」から
沿革・由緒
織田信長の家臣「坂井久蔵」が姉川の戦いにて戦死(享年16歳)し、その死を惜しんだ余語勝久と余語正勝が久蔵に似せた地蔵菩薩を彫り、自らの屋敷にて供養していたという。その後、その屋敷を譲り、光明寺として開基し坂井久蔵を改宗大施主としたのが始まりという。現在も余語氏が彫った地蔵菩薩は「久蔵地蔵」として奉安されているそうです。
豊田市で織田家ゆかりの寺院に出会うとは思っていませんでした。どうも、尾張国と三河国を分ける境川で綺麗に織田家と松平家(織田家)の領地が分けられていたと思いがちなんですが、実は現在の豊田市周辺は織田家が治めており、織田家筆頭家老"佐久間信盛"の領地となっていた様です。その佐久間信盛が天文八年(1580年)に「19条の折檻状」をもって織田家臣団から追放される事件があります。佐久間が去った後の挙母城の城主に任ぜられたのが「余語正勝」でありその城代として「余語勝久」が任命されたといいます。そして、皆様が一度は目にしているはずの織田信長の肖像画を豊田市にある「長興寺」に寄進したのが「余語正勝」になります。
本能寺の変の一年後に織田信長の一周忌法要を長興寺で行った際、狩野宗秀に依頼して書かせたもので、一番織田信長に似ている肖像画だとされています。
で、坂井久蔵と余語勝久、余語正勝の関係なんですが、光明寺の説では、坂井久蔵の叔父にあたるのが余語正勝でありその兄が余語勝久であるとされています。しかしこの説には異論も様々ある様ではっきりした事がわかっていないのが実情の様です。
坂井久蔵とは?
坂井久蔵の父である坂井政尚は織田信長の直轄の家臣として柴田勝家、蜂屋頼隆、森可成、佐久間信盛らと並んで名前が出てくる武将になります。その息子が久蔵は非常に武芸に長けた美男子だったと言われ、一説には信長の寵愛を受けていたそうです。そして、織田信長が浅井・朝倉軍と衝突した姉川の戦いに坂井親子も参陣しています。坂井政尚率いる軍勢は織田軍の第一陣として浅井軍と正面から対陣します。浅井軍の第一陣は猛将として名が知られた「磯野丹波守員昌」であり、姉川を渡った磯野軍は一気に坂井軍を蹂躙してしまいます。坂井政尚は後退していきますが、久蔵はその場に留まり奮戦しますが、最後は討ち死にしてしまいます。磯野軍はその後も勢いが留まらず、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)軍。柴田勝家軍なども次々と撃破し信長本陣まであと少しの所まで軍を進めていきますが、最後は朝倉軍を打ち破った徳川軍に側面を突かれ、浅井軍は総崩れとなり磯野軍も撤退していきます。
姉川の戦いが終結した後、坂井久蔵の死を惜した武将が後を絶たず、彼の戦死した場所の土を持って帰るものが現れ、皆それに続き、そこに大きな穴が開けられてしまったとも言われています。
ただ、久蔵の死を惜しんだ武将の筆頭格が 余語勝久、余語正勝になるんでしょうね。久蔵と弔う為の地蔵菩薩を刻み、それを奉安しその後寺院を建立している訳ですから。
三河新四国霊場を行く
三河新四国霊場七、八番札所「金谷山三光寺」を後に、旧道を南に向かい道なりに進み、国道248号線と合流する「下市場町五丁目北」交差点の角にあるのが今回参拝する「遍照山光明寺」になります。国道の交差点の角にあるので非常にわかりやすい場所ではないかなと思います。
・駐車場は境内の脇に用意されているので安心して参拝できます。
参拝記
国道248号線から見た光明寺になります。
目印としては、境内の脇に据えられている「秋葉山常夜燈」ですかね。(ストリートビューを見ててここに常夜燈がある事に気付きました・・・・。常夜燈ウォッチャーとしては痛恨の失態です・・。)
境内入口
寺号標が据えられている境内入口になります。やはり、山門部分がコの字というか凹型というかその辺の名称があるのか解りませんが、一段奥に控えたような形状になっていますね。
山門の右手の壁が切れている部分は駐車場になります。
山門
袖壁が設けられた薬医門の山門になります。
山門の大棟の部分に山号である「遍照山」という化粧瓦がはめられています。山門にこういった意匠は珍しいと思います。
本堂
入母屋造瓦葺平入の向拝の設けられた鉄筋コンクリート造りの本堂になります。
木造の意匠を極力再現しようとしている様に見えますが、どうしても木鼻の部分とかの造形が木造と比べると大雑把になりやすいですね。昭和五十年代以降から平成十年頃まで木造では耐震基準が満たせず鉄筋コンクリート造りや鉄骨造りの本堂が非常に増えていたのですが、ここ最近建て替えを行っている寺院の本堂とか見ると木造の所が増えてきて、耐震基準を満たす技術が開発されたようですね。
中央に本尊である阿弥陀如来像が奉安され、その向かって左側に三河新四国霊場の札所となる弘法大師像が奉安されています。このどこかに由緒に出てくる「久蔵地蔵」が奉安されているはずなのですが。
「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」・・・
直心殿
本堂と相対するようにある直心殿になります。こちらが三河新四国十番札所になります。
扉は閉じられていた為中を確認することはできませんでしたが、こちらにも弘法大師像が奉安されているはず。
「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」・・・
役行者像
境内の奥まった所に安置されている役行者像になります。比較的新しい御影石の祠の中に安置されています。
御朱印
参拝を終えて
本堂前に掲げられていた光明寺文化財の案内と光明寺の史蹟案内
本尊は阿弥陀如来像なんですが、日本三躰伊勢国府弥陀同木同作とあります。また新しい"日本三躰”が出てきましたが、それよりも注目すべきは「国府阿弥陀」です。
国府阿弥陀像が奉安されているのは、津観音で有名な「恵日山観音寺」です。日本三大観音の一つが津観音なんだそうです。日本三大〇〇がよほど好きなんだなあと思ってしまうのですが、この日本三大観音については、三ヶ寺で決まっているようですね。
日本三大観音
浅草観音(東京都台東区)
大須観音(愛知県名古屋市)
津観音 (三重県津市)
浅草は言うまでもなく、大須観音も名古屋市を代表する商店街である大須商店街があり、非常に大勢の参拝者、観光客が訪れるのですが、それに比べると津観音は津城址の近くにあり、周囲も商店街に囲まれているのですが、他の二カ寺と比べてしまうと少し知名度が劣るかな?と思うのですが、日本三大観音と聞いては行かざるを得ませんよね。
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やはり、旅先の情報はネット検索もいいですが、るるぶなどの旅行ガイド雑誌が一番ではないかなと思います。ネット情報はどうしてもディープになりがちで、いざ旅行に行こうと思っても、俯瞰的な情報が不足しがちな気がします。
やっぱり、"るるぶ"を見ながら、旅の予定表を作っていくのも、旅行の醍醐味ですよね。
所在地を地図で確認
寺院名 | 遍照山 光明寺 |
所在地 | 豊田市下市場町5-20 |
最寄駅 | 名古屋鉄道三河線「上挙母駅」徒歩13分 |
寺院・霊場巡りの際のバイブルに
元々、当サイトは神社巡りを通じて、皆様の住んでいる所にある"村の鎮守の神様"と呼ばれる神社を紹介してくサイトを目指していたんです。むしろ寺院については、縁遠いものとおもっていたんですよね。しかし、ちょっとした御縁で弘法大師霊場に出会い、そして愛知県では一番活動が盛んな"知多四国霊場"を巡礼、結願する事になりました。でも、神社の事はある程度知識があっても、寺院については未知の世界だったので、少しでも巡礼の時に役に立てばと思い、こちらの本を読ませて頂いております。
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少しでも巡礼の時にお役に立てる事もあるかと思います。是非一度読んでみてくださいませ。
次の目的地は?
今回紹介した光明寺で三河新四国霊場の豊田エリアの巡拝が終了です。次回からは、蒲郡エリアの札所を巡拝していこうと思います。蒲郡エリアの札所の内、(旧)三河新四国霊場、三河海岸大師霊場の札所も兼ねている寺院については、既に参拝記をアップ済みですが、納経印をアップも兼ねて各記事をブラッシュアップしていきたいと思います。
蒲郡エリア最初の巡拝先は、45,46番札所「弘法山 金剛寺」になります。