名所旧跡など

松平念誓と上林竹庵とお茶壺道中

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

松平念誓とは

三河新四国霊場の二十七,二十八番札所になっている「浄誓院松本観音」の由緒に

佐口市郎左衛門久喜は、甲斐源氏の末流にして、始め今川義元に従い駿州府中、遠州佐久羅等の合戦に軍功あり。永禄三年桶狭間敗戦の後、当国碧海郡鷲塚村に退居した。慶長年中縁族「松平念誓」(久喜の長子三十郎の妻は念誓の娘だった。)の招きに依って、岡崎板屋町に移り、老後入道して浄誓と号し、寛永十二年六月七日没す。嗣子元次、養父菩提の為め松應寺境内に一宇を建立す。これが浄誓院の起源である。

大正十五年発刊「岡崎市史」より抜粋

浄誓院が岡崎市に建立されるキーパーソンとして登場するのが「松平念誓」になります。
慶長年中(1596-1615年)という事で、徳川家康に仕えていた武将であることがわかりますね。

浄誓院:松本観音紹介記事

そこで、松平念誓について調べてみました。

経歴

松平念誓は、その苗字が示す様に松平一門であり、松平宗家三代「松平信光」の息子「親則」が宝飯郡長沢の地を領し長沢常を本拠地とした「長沢松平家」の庶流の出身になります。名を親宅(ちかいえ)と言い、天正七年(1579年)出家し「念誓」と称するようになったと思われます。
松平広忠が暗殺今川義元が岡崎城を中心とした松平領を併合した時も、長沢松平家そして松平念誓は松平元康の与力として駿府もしくは岡崎領で松平家に従事していた考えられます。そして桶狭間の合戦後、松平元康が今川家から独立し三河統一へまい進する中、永禄六年(1563年)に松平念誓は長沢の代官に任ぜられています。松平念誓はかなり松平元康からの信頼は厚かったことが伺う事ができます。

新編福岡町誌」に松平念誓についての記述がありましたので参照させて頂きます。

長沢松平家庶流甚右衛門親常の子、天文三年(1534年)に出生。永禄六年(1563年)家康の家臣として長沢の代官となる。一向一揆や長篠の戦いなどに加わり、戦功をあげた。元亀元年(1570年)、家康の息子信康の補佐役として岡崎城に入る。天正七年(1579年)信康の急死により悲嘆のあまりに髪を落として念誓と名を改める。しかし、家忠誕生の慶賀のために浜松城に参内した折り、家康から貞宗の名刀を賜り、再び家康に仕える。
天正十一年(1583年)、浜松の家康を訪れた念誓は、名器と言われた茶壺「初花」を献上する。この「初花」には、「茶壺の涙雨」の伝説が秘められています。この「初花」に念誓の敬意を感じとった家康は、返礼として若干の知行を与えようとしたが、念誓は固く辞退した。家康は再度念誓を呼び寄せて、酒造の独占権を認めると共に、「初花」に入れる茶を毎年作るように命じた。岡崎に戻った念誓は、最初に選んだ菅生周辺の茶場を額田郡土呂郷(現福岡町、上地町)の地に変えた。
そして、この地に庵を作り、天正十一年、京都から呼び寄せられた「上林竹庵」と一緒になって茶の栽培に励んだ。年々宇治から初音、白昔、初鷹といった良質の苗木を取り寄せ、茶園も年と共に広がっていった。時には土呂の苗木が宇治に送られる事もあったという。この茶造りは天正十八年(1590年)家康の関東移封後も行われ、お茶壺行列も続けられた。慶長九年(1604年)に亡くなる。享年七十一歳、三河国岩津の妙心寺に葬られる。

新編福岡町誌」より

この松平念誓の子孫も代々土呂郷に居を構えたため、土呂松平家とも呼ばれるようになります。その後七代まで世襲代官として幕府の直領の代官としての一面を持ちつつ、菅生、土呂郷の酒造免許を持ち、商人としての一面も持っていたと言われています。
現在、土呂郷には土呂茶の遺構などは残っていません。

初花の茶入と茶壺

「初花」には「初花茶入」と「初花の茶壺」があり、よく混同されて紹介されていたりするので注意が必要です。

まずは、「初花の茶入」とも呼ばれる「初花肩衝」なんですが、こちらは現在「徳川記念財団」が所蔵しており、国の重要文化財に指定されている茶器になります。織田信長、豊臣秀吉も所有したとされる茶器になります。

元亀二年(1571年)と天正二年(1574年)「織田信長」の茶会で使用されたことが確認されています。当時、初花肩衝は新田肩衝に次ぐ「天下二」の肩衝と評価されていたという。天正五年(1577年)十二月二十八日、信長は嫡男の「信忠」が三位中将に昇進した祝いと家督相続の印として他十種の茶道具とともに初花を譲るが、天正十年(1582年)に本能寺の変により流出。具体的な経緯は不明だが松平親宅(名・念誓)が所有した。その後、徳川家康に献上され、親宅はこの功績によって倉役・酒役など一切の諸役を免許状が与えられた。

Wikipedia」より

対して、「初花の茶壺」は、お茶壺道中で使用された茶壺の中の一点になります。関ヶ原の合戦後、松平忠直に対し、「初花」を恩賞に与えるが、忠直は領地を貰えなかった事に不満を持ち初花を打ち砕いたという話もあるが、これが「初花の茶壺」であり修復されたと言われています。現在「福井市立郷土歴史博物館」に所蔵されています。

ある年の夏、長雨の為、大草字山寺(現在の幸田町)で山崩れがあった。この土中から珍しい壺を里人が見つけた。近くの谷川でこの壺を洗っていたところ、中に詰めてあった真っ赤な物が河水が朱色に染まった。折りも折り、菱池のほとりを散策していた念誓は、美しい色をした川水を見て不思議に思った。上流をたどって行くと、山寺の川堤で壺を乾かしている男がいた。
なにがしかの金子と引き換えに、この壺を譲り受けた。その年の冬のこと、壺の中に夏に食べ残した瓜がある事に気付いて壺をのぞいたところ、壺の中の売りは何ら変色しておらず、真夏の瓜そのままであった。試みに食べてみると、味も香りも何ら変わりがなかった。喜んだ念誓はこの壺を「初花」と名付け、自家製の茶を摘めて家康に献上したという。
その後、徳川将軍家代々、この壺を山城の宇治に送って新茶を詰めさせる習わしとなった。以来、壺を安全に宇治に送り届ける為に、護衛の役人を付けたお茶壺道中が始まった。

ところが、この茶壺が藤川の宿を通る時、必ずといってよいほど雨が降る。これを役人は「茶壺の涙雨」と呼び、お茶壺が山一つ隔てた故郷の山寺を想い慕って降らせる雨だと語り伝えている。

新編福岡町史」より

両方の初花を松平念誓が手に入れ家康に献上したのか、どうかよくわからない所ですね。ただ、織田信長所縁である「初花の茶入」を経緯は不明ながら代官である松平念誓が手に入れるという事が可能かどうか・・・やはりこういった由緒も混同している可能性がある様な気がします。

上林竹庵

コカ・コーラ社が販売している日本茶の「綾鷹」の開発アドバイザーとして「上林春松家」が関わっています。この「上林春松家」なんですが、豊臣秀吉に重用された「上林一族」の末裔になります。

永禄年間に宇治の地に移住した上林久重がお茶の栽培を始めたのが上林家と宇治茶との結び付けの始まりと言われています。その久重には四人の息子がおり、その四人がすべて茶師として重用されています。三男の秀慶の子孫が「上林春松家」になります。そして、その四男が「政重(後の竹庵)」になります。

そんな上林竹庵は天文十九年(1550年)に生まれます。天正元年(1573年)に徳川家康より百石の知行を受け、土呂八町新市を長く継続するように任ぜられた。同二年三月、土呂郷中の諸職人への人足役申しつけを許された。同七年三月「土呂茶」の栽培に係る様に命ぜられた。そして土呂茶製造の為に土呂郷の郷民の動員する事を許された。その後天正十一年からは松平念誓と共に土呂茶栽培に尽力を尽くすが、何時頃か不明だが、土呂から宇治に戻り上林又兵衛家(竹庵家)を立て、宇治茶の栽培に専念した。慶長五年(1600年)関ケ原の合戦の折、家康の恩に報いるために戦に加わり、伏見城に籠り「鳥居元忠」「松平家忠」と共に奮戦するが、西軍が城内に突入し、竹庵も戦死します。(享年51歳)

この忠節に家康は深く感銘し、高野山にいた竹庵の子政信に代官職、並びに茶頭取を任命したと言います。

新編福岡町史」より

三河一向一揆の一向衆のの本拠地と言えば「本證寺(安城市野寺町)」、「上宮寺(岡崎市上佐々木町)」、「勝鬘寺(岡崎市針崎町)」となるのですが、土呂郷には三河本願寺教団を統率したと言われる「鷲塚山本宗寺」がありました。本願寺派八代目宗主だった「蓮如」が開基した寺院と言われており、代々蓮如の孫である実円が初代住職となり、門主の血縁関係者が継承する一家衆寺院となっています。三河三ヶ寺を始めとする三河本願寺教団の総本山の様な立ち位置だったのが「本宗寺」ともいえるかと思います。

三河一向一揆の際、本宗寺は徹底的に破却され、一揆前は近郊では一番栄えていたとも言われていた土呂郷も衰退してしまします。土呂郷の復興の為に派遣された武将が「石川数正」になります。数正は本宗寺の跡地に、土呂城と築き、土呂八幡宮を造営します。そして、現在まで続く、三八市と呼ばれる"市"の設置が認められ、近隣から市を目当てに訪れる者も増え、徐々に土呂郷も復興を始めます。

上林竹庵が「天正元年(1573年)に徳川家康より百石の知行を受け、土呂八町新市を長く継続するように任ぜられた。」とある様に、この「新市」とは、石川数正が土呂郷復興の中で設けられた「三八市」の事だと思われます。

土呂郷は、本宗寺の寺内町として発展をし、都にも負けないほどの盛況ぶりともいわれ「都路」(とろ)とも呼ばれていたほどだと言います。三河一向一揆の鎮圧に伴い本宗寺は破却されてしまいますが、三河国内でも有数の集落だった土呂をそのままにしておくことも出来ず、家康の宿老でもあった「石川数正」が土呂郷に派遣されます。(元々本宗寺の境内は石川家が三河本願寺教団に寄進したとも言われています。)その後、上林竹庵が土呂郷に派遣され、市を中心とした土呂郷の発展に尽力をつくしつつ、土呂茶の栽培を始めたと思われます。その後、松平念誓が上林竹庵と共に土呂茶の栽培規模を拡大し、将軍家に献上するまでになったと言われています。しかし、何時頃から土呂茶の栽培が取りやめになったのかは史料等は残っておらず不明なんだとか。

土呂八幡宮 紹介記事

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