寺院情報
寺院名 | 浄誓院(松本観音) |
所在地 | 岡崎市松本町一丁目二十一 |
御本尊 | 阿弥陀如来 |
宗 派 | 浄土宗鎮西派 |
創 建 | 慶安四年(1651年) |
札 所 | 三河新四国霊場 二十七,二十八番札所 三河観音霊場 六番札所 岡崎三十六地蔵 十四番札所 |
御朱印 | 〇 |
H P | ー |
参拝日:2019年5月29日
再訪日:2020年11月18日
沿革・由緒
寺伝によると、元々今川家家臣であった「佐口市郎左衛門久喜」の菩提を弔うために嗣子「佐口興左衛門元次」が慶安四年(1651年)松應寺の境内に一宇を建立したのが創建であると伝えられています。その後、松應寺の塔頭として寺格を得て「浄誓院」と号するようになったようです。
佐口久喜は永禄三年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元軍が壊滅すると遠江・駿河に戻らず三河国碧海郡鷲塚村にて隠居したといいます。久喜の長子「三十郎」の妻は十八松平の一「長沢松平家」の出身である「松平念誓」の娘でした。隠居したとはいえ、松平一族である長沢松平家出身の娘を迎え入れている佐口家は名主的な立場になっていたのではないでしょうか。
久喜の晩年近くになるだろうと思いますが、松平念誓の招きに応じて岡崎城下の板屋に居を移し、出家して「浄誓」と号したといいます。久喜の没後、その菩提を弔うために松應寺の境内に一宇を設け久喜の法号をとって「浄誓院」とした事から、久喜が松應寺にて剃髪したのかなと思います。
また由緒に出てくる「松平念誓」なんですが、長沢松平家出身の武将であり、松平信康付に任ぜられています。この「松平念誓」は私が住む地区にとって非常に所縁のある人物になります。この辺りの事はいずれ別記事にまとめていければと思います。
松平念誓と上林竹庵とお茶壺道中
浄誓院は松本町四十一番地に在り。境内三百二十三坪九合八勺を有す。同町松應寺の末寺である。
慶安四年佐口興左衛門元次の創立である。元次の養父を佐口市郎左衛門久喜を云い、甲斐源氏の末流にして、始め今川義元に従い駿州府中、遠州佐久羅等の合戦に軍功あり。永禄三年桶狭間敗戦の後、当国碧海郡鷲塚村に退居した。慶長年中縁族松平念誓(久喜の長子三十郎の妻は念誓の娘だった。)の招きに依って、岡崎板屋町に移り、老後入道して浄誓と号し、寛永十二年六月七日没す。其嗣子元次、養父菩提の為め松應寺境内に一宇を建立す。是れ浄誓院の起源である。延享二年二月当院十世順應の時、堂宇を再建す。本造は阿弥陀如来立像(運慶作と伝わる)にして元次の子佐口五郎兵衛信定の寄附せしものである。
大正十五年発刊「岡崎市史第七巻」より
霊場をめぐる
三河新四国霊場をいく
三河新四国霊場二十五,二十六番札所「龍北山持法院/紹介記事」を後にして、岡崎市松本町にある二十七,二十八番札所「浄誓院松本観音」を目指します。浄誓院が建っている辺りは岡崎城の北側に位置し、その昔、松平宗家三代「松平信光」の八男、「松平光親」がこの辺りに領地を与えられ「能見松平家」が治めていた場所になります。
岡崎三十六地蔵霊場を行く
岡崎三十六地蔵霊場十三番札所の「九華山地蔵院/紹介記事」の参拝を終えて、80mほどの距離に建つ十四番札所「浄誓院」を目指します。通称「松本観音」と呼ばれる元々は松應寺の塔頭であった寺院になります。
この記事を書いている時点でスタンプラリーに使うスタンプ台などが設置されているのかは不明ですが、現在でも「おかまいり」の公式サイトが稼働している(H3.4.29現在)ので、まだスタンプラリーは実施されているのかも?。巡ってみたいと思った方は、まだスタンプラリーがやっているかどうかを岡崎市観光協会に問い合わせる事をお勧めします。
ストリートビューの右側から伸びてくる道が地蔵院の前を通る「城門通り」になります。そして左から伸びる道が「浄誓院」の境内北側を通る市道になります。道なりに歩いても先に述べたように80mほどしか離れていません。この辺りは岡崎三十六地蔵の札所が四カ所ほど固まっている場所になっていいます。その札所が松應寺・大林寺関連の寺院が選ばている事からも江戸時代には大林寺・松應寺がそれだけ寺勢があったという事の証左になるのかなと思います。
3/36
浄土宗は赤地に文字ぬきのスタンプ!
参拝記
まさに、松應寺の門前から伸びる道の脇にあるのが今回紹介する浄誓院:松本観音になります。現在では松應寺の前にはアーケードが設けられた商店街が軒を連ねている為門前という感じがあまりしないのですが、古い史料などみると松應寺の境内はかなり広く、この浄誓院があるあたりは松應寺の境内だったのであろうと思います。
アメリカ軍による岡崎空襲でこの辺り一帯も焼夷弾が降り注ぎ、浄誓院、松應寺共に本堂などが灰燼に帰したと言います。戦後の復興でこの辺りも区画整理されて、松應寺の境内もかなり小さくなった可能性がありますね。
境内入口
浄誓院の境内正面入り口になります。石柱門でもないですし、石柱の間に設けられた切妻屋根の庇?は寺名が書かれた看板を掲げる為に作られた感じがします。
二十八番札所
正面境内入口を入るとすぐ左手に三河新四国二十八番札所があります。
優しいお顔立ちの石造りの大師像が札所本尊の様です。
「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」・・・
本堂
入母屋造瓦葺平入の唐破風の向拝がもうけられた本堂になります。
こちら浄誓院の本堂は、外壁から一間分が土間となっている造りになります。
唐破風の向拝も本堂の幅に比べるとかなり大きくせり出しており、そして外陣部分が土間となっている造りで、雨の日でもゆっくりと参拝できるような造りになっています。
本堂内に飾られている事が多い提灯ですが、浄誓院では外陣部分が土間になっている為か、外側に掲げられています。(この土間部分を外側と呼んでいいのかはよくわからないですが。)
自分が参拝している時、中から朝の御勤めの住職さんがお経をあげておられました。お経に合わせる様にゆっくりと参拝させて頂きました。
「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」・・・
また、おかまいりの公式サイト見ると、浄誓院の岡崎三十六地蔵霊場の札所本尊となる地蔵尊はは本堂の右手側に奉安されている石造地蔵菩薩坐像(抱き地蔵)になるそうです。
スタンプ台は本堂のところにはおいてなく、境内に石造蔵菩薩立像の前に置かれています。石造りの瑞垣を見ても近年据えられたお地蔵様かな?
もう一つの境内入口
本堂の脇から北側抜ける参道がありました。庫裏なのか寺務所を潜り抜ける様になっていて、境内の外側から見ると、松本観音と書かれた看板が掲げられていました。
参拝を終えて
本堂の手前に、松本観音の文字が見える茶釜が奉納されていました。こういう茶釜が「分福茶釜」でたぬきが化けていた茶釜の形になるんですかね。
雑誌・マンガに加えて旅行雑誌の定番"るるぶ"も月額500円(税抜)で読み放題!
やはり、旅先の情報はネット検索もいいですが、るるぶなどの旅行ガイド雑誌が一番ではないかなと思います。ネット情報はどうしてもディープになりがちで、いざ旅行に行こうと思っても、俯瞰的な情報が不足しがちな気がします。
やっぱり、"るるぶ"を見ながら、旅の予定表を作っていくのも、旅行の醍醐味ですよね。
所在地を地図で確認
寺院名 | 浄誓院 松本観音 |
所在地 | 岡崎市松本町1-21 |
最寄駅 | 名鉄バス「能見町」バス停 徒歩5分 |
寺院・霊場巡りの際のバイブルに
元々、当サイトは神社巡りを通じて、皆様の住んでいる所にある"村の鎮守の神様"と呼ばれる神社を紹介してくサイトを目指していたんです。むしろ寺院については、縁遠いものとおもっていたんですよね。しかし、ちょっとした御縁で弘法大師霊場に出会い、そして愛知県では一番活動が盛んな"知多四国霊場"を巡礼、結願する事になりました。でも、神社の事はある程度知識があっても、寺院については未知の世界だったので、少しでも巡礼の時に役に立てばと思い、こちらの本を読ませて頂いております。
少しでも巡礼の時にお役に立てる事もあるかと思います。是非一度読んでみてくださいませ。
次の目的地は
三河新四国霊場二十七,二十八番札所「浄誓院松本観音」を後にして、二十九,三十番札所「金寶山 安心院」を目指します。