土呂八幡宮(愛知県岡崎市福岡町)

神社紹介

神社名八幡宮
鎮座地愛知県岡崎市福岡町南御坊山十九番、二十番
御祭神応神天皇、天照皇大神、白山姫命、伊雑大神、罔像女命
旧社格郷社
創 建伝)天平宝字年間(757-765年)
神名帳
境内社白山社、天神社、稲荷社、秋葉社
例祭日十月第三日曜日
御朱印
H P〇 / Web

参拝日:2010年10月1日
再訪:2020年5月23日

由緒・沿革

 寺伝では、平安時代となる「天平宝字年間(757-765年)」に開創されたと伝えています。境内には鎌倉時代に作られたとされ愛知県重要文化財に指定されている「木造阿弥陀如来坐像」を奉安している大仏殿があります。こちらの阿弥陀如来坐像は、八幡宮の神宮寺の本尊であったと伝えられ、「元亀年間(1570-1573年)」に神宮寺が廃退した後は、八幡宮拝殿に前立仏として安置されています。(この辺りの大らかさが神仏習合期のいい所だとおもうのですが。)貞享四年(1687年)に領主甘縄藩主松平家より寄進を受け大仏殿を建立し拝殿より大仏を移しています。
 甘縄藩が土呂の領主となる以前は幕府の天領であり、代官が派遣されていました。現在の八幡宮本殿は元和五年(1619年)、代官「畔柳寿学」が伊勢の大工河北次郎兵衛定守に命じて再建したもので、国の重要文化財に指定されています。
 明治五年に村社にそして、大正五年に郷社に列格しています。
 明治四十二年には字御坊山「無格社御鍬社」、字東市仲「無格社水神社」を本社に合祀しています。

鷲塚山本宗寺

 ただ、八幡宮の歴史を語るうえで外すことのできない事柄として、文安三年(1446年)又は応仁二年(1468年)とされる「鷲塚山本宗寺/紹介記事」の創建になります。

 三河国における浄土真宗は真宗高田派がどちらかと言えば本流であったのですが、真宗本願寺派八世「蓮如」と石川政康らの布教により、上宮寺、勝髪寺、本証寺などが本願寺派に改派していき、徐々に真宗本願寺派三河教団が形成されていきます。この真宗本願寺派三河教団を統率したのが一家衆寺院である「本宗寺」になります。

※一家衆寺院とは、浄土真宗本願寺派は、血脈相承によって法流を伝持していた為、この血族が法主を勤める寺院を一家衆寺院と呼びます。

 一説には、この土呂の地に所領を有していた「石川政康」が石川家の菩提寺として建立した寺院を土呂八幡宮の神宮寺の近くに建立し、その後、真宗本願寺派に寄進されたという「本宗寺」は本願寺派八世「蓮如」九世「実如」も長年滞在していたとも伝えれ、その寺領は年々拡張されていき、何時しか八幡宮、神宮寺をも取り込んだ寺内町を形成していくまでになります。東西二町、南北一町余を有するまでになった本宗寺の境内は土塁と堀で囲まれ、その周囲に南北十町、東西八町にも及ぶ寺内町が形成されていたといいます。土呂本宗寺から東に住む人達は京都本願寺まで参拝するには遠すぎる為、本願寺の出張所と言うべき寺院としても機能していた様で、最盛期には西三河随一とも言われるほどの街の規模と商業力を有していたといいます。
 そんな栄華を誇っていた土呂本宗寺ですが、永禄六年(1563年)から永禄七年(1564年)の間に起こった「三河一向一揆」において運命が大きく変わってしまう事になります。松平家康との武力衝突となった三河一向一揆において、三河三ヶ寺と呼ばれる「上宮寺勝髪寺本證寺」と共に一向宗の拠点となっていた本宗寺は徹底的に破却され灰燼に帰してしまいます。さらに、家康の所領では真宗本願寺派は禁教となり、およそ20年間西三河には本願寺派の寺院が存在しなくなったと言います。三河三ヶ寺など大きな寺院はすべて国外退去となっています。

 「一向一揆=浄土真宗」というイメージがどうしてもついてしまっていますが、これは間違いなんです。正確には「一向一揆=浄土真宗本願寺派」になります。三河一向一揆において、同じ浄土真宗でありあんがら別派である高田派は一向一揆には参加しておらず、当然その後の本願寺派禁教時代も普通に寺院は存続しています。

 本宗寺が破却され、寺領町全体も大きな被害を受けてしまっていた土呂の再興の任を任されたのが「石川数正」になります。家康の筆頭家老とも言うべき武将であり、前述いした本宗寺を真宗本願寺派に寄進した「石川政康」の子孫になります。石川家はその経緯から真宗本願寺派三河教団の大旦那と言える立場であり、実際数正の父親は一向一揆側に与しています。数正は浄土宗に改宗してまで家康に従い一揆勢と対決した武将であり、一向一揆勢の総本山があった土呂の地の再興を任せるには石川数正以外居なかったのでしょう。

土呂城

 石川数正はまず、本宗寺の境内を徹底的に破却した上で、この地を納める為に本宗寺跡に「土呂城/紹介記事」を築城したと言います。その規模はほぼ本宗寺の境内と同じだったといいますから、城郭に変える事で本宗寺の痕跡をさらに無くしたかったのでしょうね。そして、土呂の街並みを土呂城から一段低い低地に移動させています。(現在福岡商店街が存在している場所になります。)そして、復興を後押しするために、三と八がつく日に市を開催(三八市)できる様にしたと言います。

 この三八市は平成の初めくらいまで続いていました。市に参加する業者が減った事と市が行われていた砂川堤防が護岸工事を行う事になった事からいつしか消えてしまっています。

 石川数正が土呂城築城の際、八幡宮を城内に遷座させたのか、土呂城が廃城となった後に城跡の一部に遷座したのかはよくわからないのですが、神社の境内には岡崎市による「土呂城址」の案内柱が設けられています。

歴史探訪

 「三河一向一揆」という徳川家康の人生の中でもかなり苦境に陥った戦いの一揆側の総本山とも言うべき「鷲塚山本宗寺」の跡地に鎮座する神社が「土呂八幡宮」となります。本宗寺→土呂城→土呂八幡宮という数奇な運命をたどったこの場所を追っていきたいと思います。

参拝記

 土呂本通りと呼ばれる福岡商店街の中を抜ける市道から一本北側を平行するように走っている路地があります。この細い路地沿いに鎮座しているのが今回参拝する「八幡宮(通称:土呂八幡宮)」になります。
 由緒の所で、「石川数正の土呂再建計画によって、土呂の商店街は一段低地になった場所に移設された」と述べていますが、この土呂八幡宮に通じる路地を歩くと、商店街からかなり急な坂道が続き登り切った場所に土呂八幡宮が鎮座していて、確かに八幡宮が鎮座している場所から見れば一段低地になっているなと実感できるかと思います。

境内入口

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社号標と一の鳥居になります。
住所に南御坊山とあるように、丘陵地のような場所に鎮座しています。

祓所

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 一瞬、御神木か?と思ったのですが、境内の案内板によると祓所のようです。

二の鳥居

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 二の鳥居から社殿を望みます。神社では珍しいと思うのですが、鳥居を潜ると下り階段になります。

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 こんな感じで、緩やかに下っていきます。

手水舎・水盤

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 階段を下ると設置されているコンクリート造り瓦葺四本柱タイプの手水舎になります。これだけ境内の内部に手水舎が設置してある神社も珍しいですね。

参集殿

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 舞台小屋があります。今ではお祭りの時くらいしか使われることがないですね。

何時建て替えられたか詳しい年月は覚えていませんが、平成30年か令和元年に建て替えられました。

右近の橘、左近の桜

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社殿前には「右近の橘、左近の桜」が植えられています。

狛犬

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狛犬です。

狛犬の作成というか掘り方変遷を考察していく中で、かなり重要な狛犬らしいです。

まぁ・・・現在掘られている狛犬がごつすぎるような気がしますが・・・。

社殿

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社殿を望みます。
この辺りによく見かける拝殿のタイプになります。
この一見お堂の様に見える拝殿が全国的に多く存在するのか興味がありますね。

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土呂八幡宮の本殿は国の重要文化財に指定されています。
詳しくは、愛知県庁のホームページにて 「 こちら 」

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中々趣のある神社ではないでしょうか。

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地図で鎮座地を確認

神社名八幡宮
鎮座地愛知県岡崎市福岡町南御坊山十九番、二十番
最寄駅名鉄バス「福岡町バス停」徒歩9分

投稿者プロフィール

成瀬晃ドクターレザーおかざき 店主
愛知県岡崎市で「かばん・くつ✚革の病院ドクターレザーおかざき」を営んでいる成瀬と申します。
史跡、神社などを巡った事をなどをつぶやきつつ、お店のブログではつぶやけないような事も書いていこうかと思っています。
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