
寺院情報
寺院名 | 田生山満性寺 |
所在地 | 愛知県岡崎市菅生町元管57 |
御本尊 | 阿弥陀阿如来 |
宗 派 | 浄土真宗高田派 |
創 建 | 正応二年(1289) |
札 所 | 岡崎三十六地蔵 三十四番札所 |
御朱印 | ー |
H P | ー |
参拝日:2021年1月13日
沿革・由緒
満性寺の由緒などの検証については、「新編岡崎市史第二巻中世編第一章第三節四真宗とわたり」の中で詳しく述べられています。
岡崎や安城辺りに建っている鎌倉期から室町期に開創された浄土真宗の寺院の由緒を調べるとほぼ登場してくるのが和田円善が率いた「和田門徒(後に三河教団とも呼ばれていきます。)」になります。この和田門徒に属していた寺院がその後高田派や本願寺派に吸収されていき三河地方では和田門徒の流れは断絶してしまうのですが、実はこの和田門徒の流れを組む流派が福井県に存在していたりします。三河地方でほぼ土着の浄土真宗の流派として成長した和田門徒が越前地方に布教されていたという事も驚きです。
惜しむべきは、和田門徒に属していた寺院が本願寺派や高田派に改派した後、どうやら「和田門徒」の歴史を改竄している痕跡があり、その全容が見えなくなってしまっている点です。
大根本とも言うべき、「誰が一番最初に三河国に浄土真宗を布教したのか?」という事すらわからなくなっています。
で、実は今回紹介する満性寺は和田門徒によって開創されていない数少ない三河地方の真宗寺院になります。後に真宗三河教団は、妙源寺・満性寺・勝髪寺・本證寺・上宮寺の五ヶ寺が中心となっていきます。この中で和田門徒以外の流れを汲む寺院は満性寺のみになります。
満性寺の開基は「了専上人」と伝えられ、真仏の弟子「源海」の弟子であると伝えれています。源海は武蔵国の荒木に居し、萬福寺を建立し、「荒木門徒」と呼ばれる流派を率いています。満性寺の寺伝によると、源海は河内国荒木村萬福寺の僧侶であるとしています。源海については不明な点も非常に多いとされ、河内国の部分が武蔵国の誤植であるとは断言できないようです。
満性寺は開基後の正安三年、足利尊氏の側近「高師直」を輩出したことで有名な「高」一族の高松本大上﨟から境内の寄進を受けています。三河地方は足利尊氏の本拠の一つであると同時に、高氏の拠点ともなっており、高氏を通じて足利尊氏の帰依を受けていた寺院で暦応五年(1342年)に尊氏によって伽藍が整備されています。
岡崎市の市街地に境内があるのですが、太平洋戦争時の岡崎空襲などでは奇跡的に戦火を逃れ、江戸時代からの伽藍や国の重要文化財である「色紙阿弥陀経」を始めとして愛知県文化財、岡崎市文化財に指定されている寺宝が数多く残されています。
満性寺は田生山と号す。菅生町字元菅五十七番地に在り。境内千四百五十七坪を有す。高田派専修寺の末寺である。
昭和七年発刊「岡崎市史」第七巻より
開基は河内国荒木村万福寺源海上人の弟子「了専上人」にして、正応二年(1289年)の創立に係る。正安三年(1301年)二月十五日菅生の郷司高松本大上﨟境内を寄付す。その後足利尊氏帰依ありて暦応五年(1342年)伽藍を建立せしも、程なく回祿(火災)に逢いて漸く太子の尊像のみが残った。応安三年(1370年)十月二十七日足利義詮から尊氏菩提の為田畑七段の寄進があった。明応五年(1496年)七月松平親忠境内四至の寄進状を附興し、同六年二月太子堂を建立した。然るに永正三年(1507年)伊勢新九郎長氏の兵火に罹りて又焼失し、天文元年(1532年)に至り本堂を再建した。同九年松平広忠寄附状を附興し、又太子堂を再建した。永禄年中徳川家康當寺太子堂の藪に於て旗竿を切らしめ、又門徒一揆の節も當寺に立ち寄られた。天正十八年(1590年)田中吉政岡崎入部の際、領内の寺社領を検地し、當寺また領分の多分を没収せられた。その後慶長七年(1602年)八月、伊奈備前守忠次を以て寺領五十石の朱印を賜った。
満性寺は古くは真言宗の霊地でしたが戦によって焼失し、聖徳太子十六歳の尊像を残すのみで荒れ野原(菅の原=菅生郷)になっていました。そこへ正応2年(1289)、親鸞上人の孫弟子である了専と了専の弟・親重が河内国から戦乱を避けて菅の原を切り開き一宇を建立して田生山満性寺と名付けたのが満性寺の始まりと言われています。
おかまいり岡崎三十六地蔵三十四番「田生山満性寺」由緒・歴史より
正安3年(1301)には足利氏の家臣で菅生の郷氏だった高師氏の妻から境内寄付の書状を送られ、暦応5年(1342)には、足利尊氏が上京の際には太子堂に参詣して武運長久の祈願をするなど、伽藍も建立されて真宗教団の一中心地となっていきました。
満性寺は松平氏や在地の領主層の帰依を受けていた経緯から、三河一向一揆(1563年~1564年)では家康公に味方しました。以降、寛永13年(1636)に三代将軍・徳川家光から朱印地50石を拝領するなど、歴代の徳川将軍に保護されることになります。
本堂をはじめ太子堂、鐘楼門などは、いずれも300年以上の歴史を持つ江戸初期~中期の建築です。
真宗高田派としては妙源寺(大和町)とともに由緒ある寺院で、国、県や市の文化財に指定された古文書、古画、宝物類を数多く有し、毎年8月7・8日の両日には宝物展が開催されます。俳人鶴田卓池の句碑と墓があり、春はしだれ桜の名所としても知られるなど、見どころの多い寺院です。
また、「岡崎市指定ふるさとの名木」に指定されている二本のもみの木は、推定樹齢250年以上と伝えられ、江戸時代中期の本堂改修の記念に植樹されたといわれています。満性寺は、空襲で灰燼に帰した旧岡崎城下で、歴史ある建物とそれを見守る大木が残った奇跡的な場所といえるでしょう。
霊場をいく
岡崎三十六地蔵二十七番札所「龍城地蔵堂」を参拝した後、菅生川の堤防を歩いていくと、令和二年に開通した人道橋「桜城橋」が見えてきます。この桜城橋から籠田公園にかけて大規模な改修が行われて、テラスが設けられるなど今までの雰囲気を一新した新たな街づくりが行われています。

木製の人道橋となる「桜城橋」になります。現在岡崎ではQURUWAプロジェクトが実施されていて、東岡崎→桜城橋→籠田公園→二七通・連尺通・康正通→岡崎公園→コンベンションホテルプロジェクトを繋げるとQの字に見えるこの岡崎市の中心街の活性化が行われています。自分も岡崎市民なんですが、この中心街から離れた隣の幸田町から数百メートルの場所に住んでいる身としては中心街の活性化プロジェクトには縁がないというか正直実感がわかないんですが・・・。

昨年の11月だか12月に開通した桜城橋なんですが、以上に広い橋だなとおもったのですが、何やらこの橋の上に店が設置されていくそうです。一級河川を渡河する橋の上にお店が建つっていうもの他では聞かないですね。
あっ、上記写真で橋の上に緑色の何かがひかれているのがわかるかと思いますが、これ人工芝がひかれています。
なんで人工芝が?って思いますよね。
なにやら聞いた所によると、木って凍るんです。そして滑るです。桜城橋は木製です。わかりますかね・・・。寒くなると桜城橋は凍結してめっちゃ滑るんです。しかも遠景の写真で分る様に橋の形状はアーチを描いています。上る時、下る時、めっちゃ危ないんです。滑って転倒を避ける為に、人工芝がひかれたそうです。
桜城橋を渡ると籠田公園の間には中央緑道の改修工事が行われていました。一部は完成していて

今まではただ木々が植わっていたって感じだった所をテラスなどを設置して公園化を行うようです。
この記事を書いている時点では既に工事は完了しているのですが、なかなかのおしゃれ空間に生まれ変わっています。
中央緑道にはなにやら石像が設置されるそうです。その内二体については桜城橋の開通式の時に除幕されています。


最終的には徳川四天王の石像が設置されるそうなのですが、この時は四天王のうち、酒井忠次と本多忠勝の石像だけが除幕されていました。本多忠勝は何時頃をモチーフにしたのかは不明ですが、酒井忠次は三方ヶ原の戦いで浜松城で陣太鼓を叩いていた時の様です。

この桜城橋前を通過し、東岡崎駅前から北に延びるモダン道路(名代橋)を渡ると、いよいよ目的地である岡崎三十六地蔵三十四番札所「田生山満性寺」の本堂を始めとする境内が見えてきます。

満性寺の境内が見える場所から菅生川越しに対岸を望むと、東岡崎駅周辺の再開発事業でつくられた「オトリバーサイドテラス」を見る事ができます。先の述べたQURUWAプロジェクトの一つにも入っています。岡崎僻地住民の自分にしてみると、シャレオツな空間に戸惑ってしまいます・・。

あと、プロムナードからしか見る事ができない位置関係に設置された徳川家康の銅像も見る事ができます。プロムナード(空中回廊)からでも見上げる場所なので、車や普通に地上を歩いている人はまず気付くことが無い銅像です。せっかくりりしい徳川家康像なのに勿体ないですな。

この記事を書いている時点でスタンプラリーに使うスタンプ台などが設置されているのかは不明ですが、現在でも「おかまいり」の公式サイトが稼働している(H3.4.29現在)ので、まだスタンプラリーは実施されているのかも?。巡ってみたいと思った方は、まだスタンプラリーがやっているかどうかを岡崎市観光協会に問い合わせる事をお勧めします。
参拝記
菅生川とは菅生川の堤防を挟んだ場所に境内を有する満性寺になります。江戸時代からの伽藍が残っている為か、満性寺周辺の土地は嵩上げされておらず。堤防が無かったらほぼ菅生川の川面の高さとほぼ同じ高さっぽいですね。その昔は境内からそのまま菅生川にでられたのかな?。まあだから菅生川が氾濫すると寺社が流されているんだろうとは思いますが。
山門

袖壁のある一間一戸式鐘楼門の山門になります。

一間一戸式鐘楼門も数多く見てきましたが、大半の鐘楼門はその造りがから危うさを感じてしまっていましたが、ここ満性寺の鐘楼門はそんなことを微塵も感じさせないどっしりとした印象を受けます。何がどう違うって感じもしないのですが、この受け取る感じは何なのかな。(抱く印象は個人差があるかと思います。)
手水舎・水盤

山門の脇に据えられている木造瓦葺四本柱タイプの手水舎になります。柱に転びが一切付けられていない垂直な柱の手水舎って案外珍しい造りだったりします。転びのあるなしだけでも受ける印象は変わりますね。
本堂

寄棟瓦葺平入の向拝と高覧のある濡れ縁が設けられている本堂になります。
この本堂と渡り廊下で結ばれているのが・・・
太子堂

1648年建立の太子堂になります。
浄土真宗の寺院を参拝していると境内には本堂、庫裏、鐘突堂、手水舎以外の建物ってあまり見かけない気がします。しかし、三河国に真宗の布教が始まった頃は、聖徳太子信仰も非常に熱心だったと言われ、更に真宗の本尊は阿弥陀如来となっているのですが、善光寺如来も奉安する寺院が多かったと言われています。ちなみに、ここ満性寺はその事を裏付ける様に、全国善光寺会にも名を連ねています。(浄土真宗の寺院で善光寺会に加盟している寺院は少ないのではないかなと思います。)

聖徳太子像なのかな?
地蔵尊

門前には、岡崎三十六地蔵霊場三十四番札所の札所本尊となる地蔵尊が奉安されています。おかまいりのサイトでは石造地蔵菩薩立尊が本尊であるとされていますが、この六体のお地蔵様がすべて札所本尊なのかしら?
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やはり、旅先の情報はネット検索もいいですが、るるぶなどの旅行ガイド雑誌が一番ではないかなと思います。ネット情報はどうしてもディープになりがちで、いざ旅行に行こうと思っても、俯瞰的な情報が不足しがちな気がします。
やっぱり、"るるぶ"を見ながら、旅の予定表を作っていくのも、旅行の醍醐味ですよね。
所在地を地図で確認
寺院名 | 田生山満性寺 |
所在地 | 愛知県岡崎市菅生町元管57 |
最寄駅 | 名鉄名古屋本線「東岡崎駅」徒歩7分 |
寺院・霊場巡りの際のバイブルに
元々、当サイトは神社巡りを通じて、皆様の住んでいる所にある"村の鎮守の神様"と呼ばれる神社を紹介してくサイトを目指していたんです。むしろ寺院については、縁遠いものとおもっていたんですよね。しかし、ちょっとした御縁で弘法大師霊場に出会い、そして愛知県では一番活動が盛んな"知多四国霊場"を巡礼、結願する事になりました。でも、神社の事はある程度知識があっても、寺院については未知の世界だったので、少しでも巡礼の時に役に立てばと思い、こちらの本を読ませて頂いております。
少しでも巡礼の時にお役に立てる事もあるかと思います。是非一度読んでみてくださいませ。