寺院情報
寺院名:龍台山 天桂院
鎮座地:愛知県蒲郡市蒲郡町荒子八十三番地
本 尊:十一面千手観世音菩薩
宗 派:曹洞宗
創 建:文亀三年(1503年)とも永正九年(1512年)と伝承
札 所:三河三十三観音 十三番札所
H P:-
御朱印:〇
沿革・御由緒
この寺境内に四頭三曲の松及び沙羅双樹、浅黄桜等あり。領主松平家の菩提所として同家歴代の墓碑あり。寺領七石
宝飯郡誌より
竹谷松平氏初代"松平守家"の菩提を弔う為に建立されたのが始まりと言われ、竹谷松平氏の菩提寺となっていました。建立当時は"龍台院"と称していましたそうです。竹谷松平氏五代目"清宗"の時、家康の関東移封に伴い、竹谷松平氏も武蔵国八幡山に一万石の領地を得て入封します。この際、龍台院も八幡山に移設されています。移設言っても、建物は破却される訳ではなく、全保寺として竹谷に残り、現在まで続いています。そして、関ケ原の合戦後、三河国吉田藩三万石に国替えとなります。この時も、龍台院は吉田藩に移設されているそうです。この吉田の地で松平清宗は亡くなり、全栄寺が建立され埋葬されたと言います。
その後、竹谷松平氏七代目当主"松平忠清"が慶長十七年四月二十日に二十八歳にして死去しましたが、世継ぎがおらず、無嗣除封となってしまいます。しかし、これまでの竹谷松平氏の後見を鑑みて、幕府は忠清の異母弟である松平清昌に竹谷松平氏を相続させますが、その際、吉田藩三万石から宝飯郡西ノ郡五千石に領地替えとなり、大名ではなく交代寄合となっています。西ノ郡という竹谷松平氏に所縁のある場所に領地を得て幕末まで存続しています。この領地替えに際しても、菩提寺であった龍台院と全栄寺を西ノ郡に移設させるのですが、この際、両寺院を合併させて竜台山天桂院として現在の地に移設されています。
そして、この天桂院には、五十一代横綱"玉の海"の墓もあります。
参拝記
蒲郡市の中央公園の南側に鎮座するのが今回紹介する天佳院になります。
由緒にも書きましたが、元々は竹谷松平氏初代"松平守家"の菩提を弔うために建立された寺院になります。そして家康の家臣団の大半と同じように、竹谷松平氏も関東移封の際、菩提寺も新たに与えられた領地に移動させています。
異例なのは、深溝松平氏で、菩提寺は現在の幸田町深溝にある"本光寺"であり、島原藩主として移封していても菩提寺は移動させず、年に一度の正式参拝、そして当主が亡くなった時は船で遺骸を本光寺まで運んで埋葬をしています。
現在の天佳院は、慶長十七年(1612年)以降に建立された寺院であり、西ノ郡を治めていたという事から西郡松平氏と呼ばれたりする竹谷松平氏五代目"松平清宗"からの墓所となっています。
天佳院の入口になります。
ストリートビューを見てもらうとわかる通り、参道を東海道新幹線が東西に横断しています。参道の途中に踏切がある神社や寺院はたまに見ますが、新幹線が横断している所は・・・珍しいかも?
自然石を利用した寺号標になります。
山門
参拝時(2018年10月)は工事中で山門を潜ることはできませんでした。
扁額が掲げられている薬医門の山門になります。
参道が山門を潜って本堂までまっすぐ続いているのが解りますね。
新幹線の橋脚が山門みたいにみえてくるのが不思議です。
西国三十三観音堂
山門を潜ると、西国三十三観音が祀られている観音堂があります。
写真の様な三十三観音堂はこの辺りに多い様式なのか、全国的なものなのか・・・いずれは愛知県外の寺院も参拝しつつ確認していきたい所です。
手水舎・水盤
瓦葺木造四本柱タイプの手水社になります。
水盤の横は・・・手荷物をおく台なんでしょうか?
本堂
寄棟平入の本堂になります。
本堂は施錠されておらず、本堂の中でゆっくり参拝することができました。
鎮守社
本堂向かって左手から奥に進むと、鎮守社になると思われる稲荷社が鎮座しています。
なんとなくのイメージですが、寺院の鎮守社として稲荷社が鎮座している所が多いような気がします。
西郡松平氏の墓所
天佳院にある墓地からは一段高い場所に、西郡松平氏の歴代の墓が安置されている墓書があります。
松平宗家三代目"松平信光"の長男が起こした竹谷松平氏が、紆余曲折はありながらも初代が領地を得た同じ場所で明治維新までの凡そ四百年近く領主として家柄が続いていたことになりますね。
墓所からは木々がなければ西郡の街並みが良く見えるんでしょうね。
玉の海 墓地
天佳院の墓地の一画に五十一代横綱"玉の海"の墓があります。
今でも名古屋場所の時には、大相撲関係者が参拝に訪れるんだとか。
参拝を終えて
竹谷松平氏菩提寺になります。
実は、竹谷松平氏の初代から四代目までは元々居城だった竹谷城近くに墓所があるので、そちらにもうかがっていこうと思います。