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昭高山願照寺(愛知県岡崎市舳越町) 真宗本願寺派三河七カ寺

2020年8月31日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

 親鸞聖人の直弟子であった「専信房専海」の開基伝わる浄土真宗本願寺派の寺院になります。三河一向一揆前までは真宗本願寺派三河七ヶ寺の一つに数えられ、真宗本願寺派三河教団の中心的寺院となっていました。願照寺がその名を知られるのは、現在国宝となっている親鸞聖人の肖像画「安城御影」を元々収蔵していた寺院であったという事です。それだけ親鸞聖人と結びつきが強い寺院でした。

寺院情報

寺院名昭高山願照寺
所在地愛知県岡崎市舳越町本郷三十二番地
御本尊阿弥陀如来
宗 派真宗本願寺派
創 建不詳
札 所
御朱印
H P

参拝日:2020年7月22日

沿革・由緒

 碧海郡誌によると、創建は不詳なのですが、寺伝には聖徳太子の創建とも伝えられている寺院となり、その昔は天台宗の寺院で寺号を「栄光院」と号していたといいます。
 そして、当サイト「桑子山妙源寺/紹介記事」記事の中でも紹介していますが、「三河念仏相承日記」という書物の中に、

建長八年(1256年)十月十三日、親鸞の弟子である「真仏」、「顕智」、「専信」と下人の弥太郎が関東より親鸞に面会するために上洛する途中、矢作の柳堂薬師寺(現在は廃寺)において念仏勧進を行った。

と書かれています。この時は、一日又は二日ほどで岡崎を立ち京に向かったと思われますが、親鸞聖人との面会を終えると、「真仏」、「専信」と下人の弥太郎は京を立ち、東国に帰国したとされています。この帰路の途中、「専信」が再び岡崎の地に立ち寄ったのか、栄光院の住職が専信に帰依し、浄土真宗に改宗し、寺号を妙源寺に改称したといいます。この事から、専信(専信房専海)が開基とされています。

 室町時代中期になると、願照寺の西側「小針」の地に「小針城/紹介記事」城館を構えた「阿部忠正」の帰依を受け、以降阿部氏が関東移封によりこの地を離れるまでの香花院(菩提寺)となっていたようです。

 元々は真宗高田派に属していたと思われますが、蓮如上人の布教により西三河で急激にその勢力を伸ばしていた真宗本願寺派に宗派替えを行っています。三河一向一揆がおこる前には「本願寺派三河七カ寺」に寺名を連ねるなど、浄土真宗本願寺派の中では中心的な寺院になっていきます。しかし、徳川家康と激突した三河一向一揆では当然一揆側に立った為、一揆終結後は他の本願寺派の寺院と同様に徳川家領内から追放処分を受けています。(その後、処分は取り消された為、現在の境内地に戻っています。)

歴史探訪

 「昭高山願照寺」がその寺号を全国的に知られる所以となったのが、「安城御影」と呼ばれる親鸞聖人八十三歳の時の肖像画を元々所蔵していた寺院であるという事です。

 親鸞聖人八十三歳の姿という事ですので、建長七年(1255年)に描かれたものとされています。書いた人物は「朝円」という絵師になります。この安城御影については親鸞聖人の曾孫である本願寺三世「覚如上人」の長男「存覚上人」が書き残した「存覚上人袖日記」にその由来などが書かれています。

「存覚上人袖日記」には、
文和三年(1354年)九月、存覚上人は三河国安城に住む照空房が代々伝えているという「親鸞聖人の御影」の存在を知り、翌文和四年(1355年)、存覚上人は、照空を京に招き「親鸞聖人の御影」を見たことが記されています。
 ・どんな御影だったのか略図も用いて詳細に記録
 ・最初の所有者は親鸞聖人の弟子「専信房専海」
 ・照空は専信の子孫にあたる
 ・肖像を描いたのは「朝円」という絵師

 浄土真宗を三河に広めたのは、「顕智」であるとされていますが、三河の真宗寺院の資料や今回紹介している「願照寺」に伝わる資料などから、実は矢作を中心として浄土真宗を布教したのは「専信房専海」ではないかと言われつつあります。
 元々は関東に住んでいたという専信は、安城御影が書かれた翌年の建長八年(1256年)に遠江国に移り住んだとされています。そしてこの年に、前述したように「真仏」、「顕智」らと共に親鸞聖人に面会の為京に向かい、その途中、矢作の柳堂にて念仏勧進を行う事になります。
 親鸞聖人との面会を終えた「専信」は遠江への帰国の途中、矢作の地において真宗の布教の為、しばらく滞在する間に、円善権守を弟子とし「和田門徒」形成の素地を作り、天台宗だった栄光寺を真宗に改宗、寺号を「願照寺」と改称させ中興開山したとされています。そしてこの願照寺の歴代住職は専信の子孫が継いで行く事になったのではないでしょうか。

 真宗三河教団は元々は円善が率いる聖徳太子信仰が強い「和田門徒」が中心として布教が行われていきますが、その後の真宗高田派と真宗本願寺派の勢力争いの中で、三河で布教を行ったは「専信」から「顕智」へと改竄されたのではないか言われている様です。(岡崎市史参照)

参拝記

 平針街道の「越野神社北交差点」の南東に鎮座する「越野神社」の境内前を横切る路地を西に向かうと今回参拝する「昭高山願照寺」の門前にたどり着く事ができます。平成の初めの頃まで、越野神社の境内横には長瀬八幡宮の両部鳥居があり、この鳥居が一つの目印となっていたのですが、台風によって倒壊してしまい、今では鳥居が建っていた跡地(基石が残っています。)はありますが、いまいち目印にはならなくなってしまっています。

 越野神社の境内より長瀬八幡宮の社号標のが目立ってしまいますが、境内の右側を進むと平針街道との「越野神社北交差点」になり、左側を進むと「願照寺」に行きつくことができます。昔の地図をみてると、左側の願照寺に向かう道は旧道のようで、今では表通りの様になっている右側の道路は長瀬八幡宮の参道だったようです。

石碑

 願照寺の門前に「二十四輩」と彫られた石碑が建っています。
 この二十四輩というのは、親鸞が関東滞在時の親鸞直弟子二十四名を親鸞の教えを引き継ぐ高弟としたことから付けられた名数になります。現在では二十四輩というとこの直弟子二十四名と彼らが開基開山した寺院を指すといいます。
 しかし、ここ願照寺は二十四輩に名を連ねる高弟によって開基された寺院でもなく、どういった経緯でこの石碑が据えられているのかよくわかりません。
 これと同じ「二十四輩」が彫られている寺号標を有しているのが以前当サイトでも紹介している安城市にある「塚本山明法寺/紹介記事」になります。

 願照寺の開基「専信」は二十四輩第二席「真仏」の弟子であり、その後親鸞の直弟子になったという経緯を持つ僧侶の様で、もしかしたら「真仏」所縁という事で二十四輩を称しているの・・・かも?

 さらに、山門前には、「国宝安城御影御出立地、専信房専海法師墓所、小針城主阿部家墓所」と彫られた石碑が建てられています。
 「安城御影」は元々この願照寺の住職「照空」が所有し、その後、現在の西本願寺に寄贈した事から、御出立地は分からなくもないですが・・・でも、御出立って言うのかな?
 そして、安城御影を最初所有し、願照寺の開基でもある「専信房専海」の墓所でもあると石碑には書いてありますが、一応墓所などもぐるっと回ってみたのですが、よく解りませんでした。墓石ではなく位牌があるのかな?

 小針城を築城した「阿部忠正」の墓石が元々は小針町の神明社の境内にありましたが、区画整理などでここ願照寺に墓石が移されています。元々、願正寺は阿部家の香花寺(菩提寺)だったこともあり、阿部家の墓石が四基据えられていたそうなのですが、神明社から移された墓石を含めて五基の墓石が据えられています。

阿部家墓所

 一番右に据えられている一番大きな墓石が小針町の神明社から移された「阿部忠正」の物といわれる墓石なんだそうです。
 ただ、今まで色々な菩提寺や墓所を廻ってきていますが、初代の墓が一番大きくて、代を重ねるごとに小さくなっていく墓所って正直であったことがないんですよね・・・。徳川家臣団の墓所などを思い起こすと初代から徐々に墓石が大きくなっていき、関東移封や江戸幕府開幕した当所頃亡くなった武将の墓が一番大きくなっていたはずなんです。さらには、譜代大名として藩主として各地に転封されてしまうと、転封先に菩提寺を建立してしまうので、それまでの菩提寺には墓が建立されなくなってしまうという理由もある訳ですが。

 こんなことを考えると、左から阿部忠正(初代)から二代目、三代目、と続いて、一番右側は五代目となる「阿部正勝」の墓石なんじゃないか?と思ってしまう訳です。阿部正勝は徳川家康古参の家臣の一人で、関ヶ原合戦直前の慶長五年四月に大阪にて死去している為、ここ願照寺に埋葬されたことは十分に考えられるのかなと思います。ただ・・・そうなると小針の神明社の境内になぜ墓石があったのかという疑問は残る訳ですが・・・。

阿部家の系図

(初)忠正━(二)正重━(三)正俊━(四)正信━(五)正勝

寺号標

 「浄土真宗本願寺派願照寺」と彫られた寺号標になります。真宗本願寺派・・・おにしですね。その横に「岡崎観光きらり百選」は元々選定されていた「岡崎観光百選」がかなり古く無くなったりした場所も出ていた為、新たに選定しなおした観光百選になります。間に「きらり」と入るのは、NHKの朝の連続テレビ小説「純情きらり」の舞台が岡崎であった事から観光PRの為だったと記憶しています。

山門

 袖壁が設けられている薬医門の山門になります。

手水舎・水盤

 丁度参拝した時は、本堂の改修工事が行われていて、境内のあちこちに足場や資材が置かれている状態でした。手水舎の周りにも資材や別の場所から仮置きしている掃除道具などが置かれていました。

 手水舎は井戸と水盤を有する木造瓦葺六本柱タイプになります。屋根の大きさに対し柱が少し細く感じ、耐震補強が施されても少し怖い感じがします。

本堂

 入母屋造銅葺(で合ってるのかな?)平入の向拝が設けられ、高覧のある濡れ縁がある西向きの本堂になります。浄土真宗の本堂は西向きに建てられる事が多いそうです。

親鸞聖人像

 浄土真宗を開宗した親鸞聖人の像です。

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やはり、旅先の情報はネット検索もいいですが、るるぶなどの旅行ガイド雑誌が一番ではないかなと思います。ネット情報はどうしてもディープになりがちで、いざ旅行に行こうと思っても、俯瞰的な情報が不足しがちな気がします。
やっぱり、"るるぶ"を見ながら、旅の予定表を作っていくのも、旅行の醍醐味ですよね。

所在地を地図で確認

寺院名昭高山願照寺
所在地愛知県岡崎市舳越町本郷三十二番地
最寄駅名鉄バス「40東岡崎ーフタバ産業前」舳越町バス停徒歩3分

寺院・霊場巡りの際のバイブルに

元々、当サイトは神社巡りを通じて、皆様の住んでいる所にある"村の鎮守の神様"と呼ばれる神社を紹介してくサイトを目指していたんです。むしろ寺院については、縁遠いものとおもっていたんですよね。しかし、ちょっとした御縁で弘法大師霊場に出会い、そして愛知県では一番活動が盛んな"知多四国霊場"を巡礼、結願する事になりました。でも、神社の事はある程度知識があっても、寺院については未知の世界だったので、少しでも巡礼の時に役に立てばと思い、こちらの本を読ませて頂いております。

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