氷上姉子神社(名古屋緑区大高)

 ヤマトタケルから草薙剣を託され奉斎してきた「宮簀媛命(古事記では美夜受比売)」を御祭神として創祀された氷上姉子神社になります。現在は熱田神宮の境外摂社として熱田神宮によって管理されている様です。

神社紹介

神社名氷上姉子神社
鎮座地愛知県名古屋市緑区大高町火上山一番地三号
御祭神宮簀媛命
旧社格郷社
創 建仲哀天皇四年
神名帳延喜式神名帳 愛智郡十七座 火上姉子神社
尾張国神名帳 愛知郡従二位 氷上姉子明神
境内社
例祭日十月一日
御朱印
H P〇(Web

参拝日:2020年9月16日

御由緒

 氷上姉子神社の由緒については、前回紹介した熱田神宮末社「元宮」の紹介記事の中で述べさせて頂いておりますので、かなり内容が重複してしまいます。

 ヤマトタケルは、父である景行天皇の勅命により、東国十二国の平定に向かう事になります。これを東征といい、西日本を平定した西征と共にヤマトタケルを英雄と呼ばせるには十分の軍功を挙げる軍事行動になります。

 東征に際し、ヤマトタケルは叔母である倭姫命が定めたとする五十鈴川沿いに鎮座する伊勢の神宮を尋ね、「草薙剣」と「火打石」を授かります。伊勢を後にして、東征軍は海岸線沿いに北上し、桑名(尾津前)の地にたどり着きます。この桑名の地から船にて伊勢湾を横断し、尾張国の名和に上陸しています。現在上陸したとされる場所には「船津神社/紹介記事」が鎮座しています。

 名和に上陸した東征軍は、この名和周辺に駐屯したのではないかと思います。そして、ヤマトタケルは尾張国造である「建稲種命」の火上山の館を訪ねて、東征軍への助力を申し入れたのではないでしょうか。先に述べた「東国十二国の平定」の為の東征と書きましたが、実は尾張国も東国十二国に入っていたりします。しかし、尾張国造である「建稲種命」は景行天皇の臣下でもあり、当然景行天皇の皇子であるヤマトタケルとは面識もあったのではないでしょうか。
 ヤマトタケルの東征当時のヤマト朝廷の勢力圏の東端は尾張国から三河国辺りだったのではないでしょうか。尾張国造は大和朝廷東端の防衛も担っていたんじゃないでしょうか。そんな状況の所に、天皇の皇子が率いる東征軍が編成されるとなれば、この編成軍に尾張国造としても助力するのは当然の事であると思います。実際、建稲種命はかなりの兵力の軍勢を編成し自らが東征軍の副将として尾張軍を指揮して海沿いを進むヤマトタケル率いる軍勢とは異なり、陸路となる中山道方面から関東に向かっています。

 尾張国造率いる軍勢を編成している間、ヤマトタケルは建稲種命の館に滞在し、この滞在中に建稲種命の妹である「宮簀媛命(古事記では美夜受比売)」と出会っています。出会ったというより、兄であある「建稲種命」が両者を引き合わせたと考えた方が妥当ではないでしょうか。将来は天王に即位するであろうヤマトタケルに妹が嫁げば、建稲種命の地位も今まで以上に高くなるという天皇家と外戚関係になろうとする人物たち共通の思惑は当然考えたんだろうと思います。

 しかし、東征軍の編成中の期間は短く、両者が結婚するまでの時間はなく、ヤマトタケルと宮簀媛命は東征を無事遂行し、尾張国に戻ってきたら結婚しようという約束をし、婚約したといいます。当然、現代の様に道路整備が行われている訳もなく、道なき道を切り開きながら進軍する行軍になるはずで、東征のルートを見ると、少なくても数か月から年単位で行われた軍事行動ではないかと思う訳です。
 そんないつ戻るかも分からないヤマトタケルの無事な帰還を願い、宮簀媛命は火上山の館の門扉を閉め、祈願し続けたといいます。そして、記紀にはどれくらい東征に時間を要したのかなどは記載されていない為、尾張を出発してどれだけ時間が経過したのかは全く分かりませんが、ヤマトタケルが東征から無事戻ってくると、宮簀媛命は火上山の館の門扉を開け、ヤマトタケルを迎え入れます。しかし、兄である建稲種命はヤマトタケルとは行きと同様帰りも別ルートとなる海路にて尾張火上山を目指しますが、途中の駿河湾沖で非常に珍しい海鳥を発見しヤマトタケルに献上しようと捕獲を試みている時に誤って船から落ち水死してしまい、その遺体が幡豆に流れ着いたといいます。

 吉良温泉郷からほど近い愛知県西尾市吉良町宮崎に東征軍副将「建稲種命」を御祭神とする「幡頭神社/紹介記事」が鎮座しています。駿河湾において船から転落し水死してしまった建稲種命の遺体は海流に乗って幡豆海岸の亀石の近くに流れ着いたと伝えられています。
 現代の様にTVやネットなどがある訳ない古代ですので、当然流れ着いた遺体が尾張国造で東征軍副将である建稲種命であるとは知る由もなく、ただ遺体の身なりから高貴な人であるとわかったのでしょう、現地の村人達は流れ着いた海岸から近くの小高い山にその遺体を埋葬したといいます。その後、ヤマトタケルや建稲種命の配下の者が幡豆海岸を訪れ、服飾品などを確認して、この地に流れ着いた遺体が建稲種命であると確認したのでしょう。
 時は流れて第四十二代文武天皇の御代である大宝二年(702年)に、勅命により「鉾」を御神体とする社が建立されます。これをもって幡頭神社の創祀になります。

 現在では、建稲種命の遺体が流れ着いたという亀石がある場所には「幡豆神社/紹介記事」が建立され、御祭神として建稲種命を祀っています。

 ヤマトタケルと宮簀媛命は結ばれ、暫くの間ヤマトタケルは尾張に留まったとされています。
 古事記には、

・・・、尾張国に還り来て、先の日に期りたまひし美夜受比売の許に入りましき。ここに大御食献りし時、その美夜受比売大御酒盞を捧げて献りき。ここに美夜受比売、そのおすひの襴に月経著きたり。かれ、その月経を見て、御歌よみたまはく、
 ひさかたの 天の香具山 鋭喧に さ渡る鵠 弱細 撓や腕を 枕かむとは 我はすれど さ寝むとは 我は思へど 何が著せる 襲の裾に 月立ちにけり
 とうたひたまひき。

 と書かれていて、尾張国に戻ったヤマトタケルは美夜受比売から料理や酒を献上されたと書かれています。天皇の皇子であるヤマトタケルに料理や酒を献上するという事は、尾張国造の一族はヤマトタケルに従属した事を示すんだとか。しかし、問題はこの後で、美夜受比売の裾に月経の血がついていた。と書かれている点です。日本書記などではこういった記述はなく、古事記のこの部分だけ異彩を放っている状態です。これは何を意味するのか?ヤマトタケルと美夜受比売との間に子供が生まれなかったという事を意味しているのか。または、月経の女性と交わるという言わばタブーを犯したことで、ヤマトタケルは伊吹山にて荒ぶる神に返り討ちにあう。又は病になり、伊勢国の能褒野にて死去してしまうという話の筋書きに仕立てているのか。何にしても、ここまで神がかった活躍をしていたヤマトタケルがあれよあれよと打ちのめされ、死去していってしまう事から考察しても、何らかの転換点であるとしている点は間違いないのかなと思います。

寝覚の里

 ヤマトタケルはしばらくの間、尾張国に留まり美夜受比売と共に過ごしたとされています。火上山近くには、ヤマトタケルと美夜受比売が過ごした館跡と伝えられている場所があります。

 大高里なるこの目覚めの地名はもと千八百年の昔倭武天皇の火上の行在所に坐し時、朝なりまに海潮の波音に寝覚し給ひし方なる故にかくは云ひ効ハセるものならは故この地名を万代の傳へまくを予に其事この石面に書付てよと里人の請はるるままにかくなむ。

 しばらく尾張に滞在していたヤマトタケルは、伊吹山に荒ぶる神がいるという話を聞き、征伐に向う事にします。この時、東征の時に常に装備していた「草薙剣」を美夜受比売に預け、素手で僅かな手勢と共に出かけます。

 「尾張名所図会」にはヤマトタケルが草薙剣を美夜受比売に預けている一幕が挿絵で描かれています。屋敷の外にたむろっている男性陣はヤマトタケルの副官達なのでしょうね。

 草薙剣を預かった美夜受比売は、寝覚の館から火上山の館に移り、そこに草薙剣を奉斎した。ヤマトタケルが伊吹山で病になり、伊勢国能褒野にて死去した後も、遺品となる草薙剣を奉斎し続けたといいます。その後幾年も経過し、美夜受比売も年を取ってくるとこのまま火上山で草薙剣を奉斎し続ける事が難しくなり、美夜受比売は自らの死後も草薙剣を奉斎する場所を探すことにします。そこで目を付けたのが、火上山とは海を隔てた北側にある熱田台地の南端となる現在の熱田神宮の境内地となる場所でした。「ある楓の木があり、自ら炎を発して燃え続け、水田に倒れても炎は消えず、水田もなお熱かった。」とされる場所で、この地に社を設け草薙剣を遷座したといいます。

 その後、美夜受比売が火上山の館で死去し、その御魂を御祭神とする「火上姉子神社」が仲哀天皇四年に火上山の館跡に建立されます。仲哀天皇はヤマトタケルの皇子であり、父が愛した美夜受比売を奉る神社を建立する事を勅命を出したのだろうと想像しています。

 さらにその後、持統天皇四年(690年)に火上山山頂を境内地としていた火上姉子神社を火上山東側の麓に遷座しています。この遷座した場所が現在の境内地になります。
 中学校とかの歴史の授業で大化の改新で元号が採用され、最初の元号が「大化」であると習ったかと思います。実は大化以降途切れずに元号が使われた訳ではなく、何度か使用されず、以前の天皇の即位年での表記になっています。氷上姉子神社が遷座したという690年は持統天皇の即位四年となっていて元号は使われていません。明治以降は、元号は使用されていますが、天皇即位年と同年となっていますね。

 尾張名所図会には、江戸時代の氷上姉子神社の境内と火上山にある元宮の様子が描かれています。

  その後、明治時代となり、一度は明治五年に郷社に列格していますが、明治十三年に熱田神宮の摂社となった為、社格は廃止されています。

 現在、氷上姉子神社は熱田七社と呼ばれる熱田神宮、別宮、摂社の中の一社になります。

熱田七社とは?
 熱田神宮、別宮、摂社で構成されている七社の総称になります。何時ごろから熱田七社と称されるようになったのかは不明。構成している七社全社が延喜式神名帳に記載されている式内社になります。
・熱田神宮
・八剣宮
高座結御子神社
・日割御子神社
・氷上姉子神社
・上知我麻神社
・下知我麻神社 

歴史探訪

 前回紹介した火上山に鎮座する「熱田神宮末社元宮/紹介記事」でも紹介していますが、今回紹介する氷上姉子神社が最初に創祀された場所とされるが「元宮」が鎮座している場所と言われ、持統天皇の御代に現在の境内地に遷座したと言われています。その由緒、御祭神から非常に熱田神宮とはかかわりの深い神社になろうかと思います。実際、明治期に熱田神宮の摂社となっている辺りからもこの関わり合いの深さを感じ取れます。

 ヤマトタケルの東征において、重要な拠点の一つとなったのが尾張国造「建稲種命」の館である「火上山」であったと思います。そしてヤマトタケルが東征を完了させ、没した後も尾張国の祭祀の中心だったんだと思います。
 建稲種命の東征軍編成を待つ間、ヤマトタケルは火上山に滞在していたとされ、ずっと館の中にいるわけではなく、火上山周辺を見て回っていた事は容易に想像できます。そして、東征軍の編成が完了すると火上山を発し、一路東に向けて出発していきます。


 愛知県内におけるヤマトタケル東征の伝承地を巡っています。日本書記では伊勢から駿河に海路で向かったとされ尾張国、三河国に立ち寄ったとは書かれていません。しかし、古事記には東征に向かう途中尾張国にて美夜受比売と出会ったと記載されており、ヤマトタケルが尾張国に立ち寄ったとされています。
 尾張国、三河国にてヤマトタケルがどういった行動をしていたのかは、古事記にも記されておらず、不明なのですが、尾張国、三河国の各地には、ヤマトタケルの東征軍の伝承が残っていて、その足跡を追いかける事ができます。

 そこで、当サイトでは愛知県各地に残るヤマトタケルの東征の伝承地を尋ねていき、どのようにして尾張国、三河国を進軍していったのかと追ってみたいと思います。

参拝記

 現在では氷上姉子神社の境内のすぐ東側を国道23号線や名古屋高速などが通っており、非常に騒がしい境内となってしまっています。国道23号線「折戸交差点」を西に向かい、100m進んだ「東正池交差点」を南に向かい、そのまま道なりに走っていくと氷上姉子神社の境内入口が見えていきます。
 平成25年か26年辺りまでは、東正池交差点すぐ南側に氷上姉子神社の一の鳥居が建っていた為、比較的わかりやすかったと思いますが、現在では鳥居は亡くなり、その脇に据えられていた社号標があるのですが、車で向かうと気付きにくいかもしれませんね。

一の鳥居(浜鳥居)

 大正四年に建立された社号標になります。戦前は神社が国営であった事を示すかのように、社号標に「愛知県」の文字が刻まれています。
 この社号標のすぐ脇に一の鳥居が据えられていたそうです。

 社号標脇には、一の鳥居跡の説明板を氷上姉子神社とその境内社が説明されています。

境内入口

 南向きの社殿に西入の境内入口となっている氷上姉子神社となっています。現状では一の鳥居となる木造の神明鳥居になります。

 一の鳥居を潜り、左に曲がりながら進んでいくと、玉砂利が引かれた境内が見えてきます。子の境内への入口に二の鳥居となる木造の神明鳥居が据えられています。

 二の鳥居の手前、アスファルトが引かれている部分が駐車場となっています。通常の日では満車になる事はないんじゃないかなと思います。

手水舎

 木造銅葺四本柱タイプの手水舎になります。柱の間隔から考えると少し屋根が大きめかなとおもいますが、柱も太くどっしりとした感じがします。

社殿

 本殿は熱田神宮別宮である「八剣宮」の本殿を移築したものが使用されており、その後拝殿、幣殿などが造営されています。尾張造と呼ばれる社殿様式で建設されているそうです。

地図で鎮座地を確認

神社名氷上姉子神社
鎮座地愛知県名古屋市緑区大高火上山一番地三号
最寄駅名古屋市営バス 緑循環線「折戸バス停」徒歩6分

ご自宅にお札は祀られていますか?

実家には神棚はあっても、今お住いの所には神棚がない方も多いかと思います。神棚には、日本の氏神である”天照大御神”とご自身がお住いの氏神様のお札を掲げると御神徳が宿るとされています。
賃貸住宅などに住まわれて簡単に神棚を掲げられないという方もお勧めなのが、

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南向き、もしくは東向きになる様に、そして目線の高さより上になる様に、棚などの上において頂くとよいかと思います。是非、皆様もご自宅に神棚をご用意いただき、御札を納めてほしいなと思います。

神社誌作成プロジェクト

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