
松平家三代「松平信光」の庶子とも松平家四代「松平親忠」の庶子であるとされる「松平親光」与えられ「鴛鴨松平家」と称した松平庶家の本城です。
城郭情報
城名 | 鴛鴨城 |
所在地 | 愛知県豊田市鴛鴨町字矢追地内 |
築城年 | 不詳 |
築城主 | 鴛鴨入道酒井道円? |
城形式 | 平城 |
遺構 | 無 |
規模 | 70m四方か |
備考 |
訪問日:2018年12月19日
沿革・詳細
松平氏の様な地方の小領主(庄屋の様な感じに近いかな)から成りあがってきた一族について、第一級の歴史書なんて存在する訳もなく、後世に書かれた歴史書だったり神社・寺院に残された資料などを推測している為、家系は解るけど生没年は不詳になっていたりするのはこういった面からなんだとか。それでも後に天下をとった松平家・徳川家については様々な歴史書が後世に書かれたり、他家の歴史書にも登場してしたりするので、他の下剋上の様な形で成りあがってきた大名などに比べると非常に恵まれている立場なんだと思います。
松平宗家三代松平信光は応仁元年に勃発した「応仁の乱(応仁元年(1467年)-文明九年(1478年)」では共に政所執事伊勢氏の被官であった上野城の戸田宗光と東軍に属し、西軍に属した東条吉良家、安祥城の畠山家、更には知多半島より進出してきた一色家と激突しています。
額田郡一揆を鎮圧し、竹谷、五井、形原などの所領を得ていた松平家は更なる領地獲得の為、矢作川を渡河し碧海郡畝部郷から藤井郷にかけての矢作川右岸に進出しています。この矢作川渡河作戦には、当然信光の息子たちはある程度の地位の武将として参加しているはずですし、最重要攻略地点としては西軍に属する和田家が守る「安祥城」だったはずです。信光はこの安祥城を文明三年(1471年)に一説には力攻めではなく計略を用いて攻め落としたとされ、和田家の旧領を三男「松平親忠」に与えています。(これにより親忠を祖とする安祥松平家が起こります。)
松平家の岩津城と戸田家の上野城の間に鴛鴨の地に「鴛鴨入道酒井道円」という人物が築城年月は不明ですが「鴛鴨城」を築き居城としていました。この城をこの安祥城攻略に先立つ事三年の応仁二年(1468年)、松平信光は矢作川を渡河して攻め落としたとされます。また、松平信光が応仁二年(1468年)この地に進出し「鴛鴨城」を築城したという説も存在しています。
そして、この「鴛鴨城」は親忠の子(又は信光の子)である「松平親光」に与え「鴛鴨松平家」が起こります。
松平家家系図
太字は松平家惣領を指します。
赤色マーカーは安祥松平家を示しています。
松平親氏┳広親(酒井氏)
┗泰親┳信広(松平郷松平家)
┗信光┳親長(岩津松平家)
┣守家(竹谷松平家)
┣親忠┳乗元(大給松平家)
┃ ┣長親┳信忠┳清康━広忠━家康
┃ ┃ ┃ ┗信孝(三木松平家)
┃ ┃ ┣親盛(福釜松平家)
┃ ┃ ┣信定(桜井松平家)
┃ ┃ ┣義春(東条松平家)
┃ ┃ ┗利長(藤井松平家)
┃ ┣親房(桜井松平家)
┃ ┣存牛(知恩院二十五世)
┃ ┣親光(鴛鴨松平家)
┃ ┣長家(安城松平家)
┃ ┣張忠(矢田松平家)
┃ ┗乗清(滝脇松平家)
┣与副(形原松平家)
┣光重(大草松平家)
┣忠景┳元心(五井松平家)
┃ ┗忠定(深溝松平家)
┣光親(能見松平家)
┗親則(長沢松平家)
上記家系図では鴛鴨松平家を起こす「松平親光」は松平親忠の子としていますが、松平信光の子とする資料も存在しています。
鴛鴨城は岩津城から見て西北西の方向に位置し、岩津城としては手薄な賀茂方面の支城的な位置づけの城として攻略又は築城された城ではないかと思います。実際松平家の侵攻方向を見ていくと、西三河の南部への進出が主であり、矢作川を遡上して加茂郡への進撃はあまり見られません。
「鴛鴨城」の存在が注目されるのは永禄六年(1563年)に発生した三河一向一揆の時になります。
戸田宗光が居城としていた上野城は、戸田氏が田原に移った後、「阿部孫次郎」という武将が上野城を居城としていました。当サイトでは「第二次井田野合戦」と記している明応二年(1493年)十月二十日に発生した松平家と加茂郡を中心とした豪族の連合軍との戦いがあり、この連合軍に阿部孫次郎も加勢しますが、松平家が戦いに勝利すると阿部孫次郎は松平家に属し、上野城は松平家が接収しているようです。三河一向一揆の時には重臣であった「酒井忠尚」が城主となっていました。
その上野城の「酒井忠尚」が一向税側に与した為、その押さえとして松平側の拠点となったのが鴛鴨城になります。一向勢との和議が成立した後も松平家に帰順せず抵抗を続けていた酒井忠尚を攻める為、家康は「稲荷山隣松寺/紹介記事」に本陣を置き、鴛鴨城の松平親久と共に上野城を攻め落としています。
鴛鴨松平家家系図
松平親光━親康┳親久━忠久┳某・・・親康(親光十五代孫)
┗娘 ┗於美津の方
┣榊原康正
榊原長政
四代忠久は徳川家康の命により当時西尾城主だった「酒井正親」の臣下となり、城持ち(大名)としての鴛鴨松平家は断絶した扱いになっている様です。
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歴史探訪
「稲荷山隣松寺/紹介記事」を参拝した時に、隣松寺が別当となっていた「熊野神社/紹介記事」の県道挟んだ隣地に「鴛鴨松平家墓所」がありました。鴛鴨松平家の存在を知り、現地で調べてみると、近くに「鴛鴨城」がある事を知り訪問してみる事にしました。
鴛鴨松平家は十八松平の一つに数えられる松平庶家になります。
訪問記
豊田JCより東名高速道路の下り車線側の側道を名古屋方面に進むと左手に一ヶ所だけ木々が茂っている場所があります。この場所が鴛鴨城跡になります。
遺構などは残っておらず、現地には石柱と地元歴史保存会の方達が設置した案内板があります。

城址を示す愛知県が設置したと思われる石柱なんですがどういった基準で据えられていったのでしょうか。

ここの石柱側面には、鴛鴨松平家初代親光から十五代孫の親康氏が書した漢文にて記されています。こうして元城主の子孫の方による由緒が残されている史蹟は珍しいかとおもます。

鴛鴨城址には東屋などが設けられていて、休憩場所にも最適な感じになっています。地元の方の憩いの場にしては、畑と物流会社の駐車場に囲まれているこの場所では人が来そうにもないわけですが・・・。

上野上村城方面を望んでみます。伊勢湾岸自動車道の高架の向う側に上野上村城があるわけですが、全く見せませんね。三河一向一揆の時には、両城間でにらみ合いが続いていたんでしょうね。
所在地を地図で確認
城郭名 | 鴛鴨城 |
所在地 | 愛知県豊田市鴛鴨町矢追地内 |
最寄駅 | 愛知環状鉄道「永覚駅」徒歩10分 |