「おかまいり」の岡崎三十六地蔵霊場を巡っている中で、二十一番札所の「井田観音堂」から二十二番札所の「清浄院九品院/紹介記事」に向かう途中の岡崎市井田南町四丁目の住宅地の一角に「松平親忠荼毘所」と彫られた石碑を発見しました。
安祥松平家初代の松平親忠の遺骸を荼毘に付した場所だと思うのですが、昭和十一年発刊された「額田郡岩津町誌」には「井田野の阿知和に通ずる路の東に在る石垣をめぐらして一大老松の天を摩すのがある松平親忠の遺族を荼毘した所である。」と書かれていて、親忠本人を荼毘したのかどうかはよく解らないです。
ただ井田野と呼ばれる場所は安祥城を与えられる以前より松平親忠に与えられていた所領であり、安祥松平家として分立した後も井田野の地は親忠が領していたとされ、後年、親忠は井田野に自らが開基とて建立した「成道山大樹寺/紹介記事」に隠居し、この地で没していることから、ここに松平親忠の荼毘所があってもおかしくないとは思います。
正直この石碑がいつ頃据えられたのかはわかりません。が、岩津町誌では「石垣で囲まれた松が植えられている所が荼毘跡である」としていていますが、区画整理事業が行われた為、かなり景観がかわってしまてっていますね。神君家康公の直系の先祖である親忠の荼毘所という事もあり、かなり広い敷地を持っていたのではないのかなと。明治時代に書かれた地図には荼毘所とは書かれていませんがもしかしたらここがそうかなという場所が記されていました。
明治後期の地図になります。井田から阿知和に抜ける道は既に紹介している井田観音堂が建っている場所で足助街道から北東方面に分岐している道になります。この道沿いの赤丸で囲んだ場所が不自然な地形をしています。ほぼ長方形に造成された場所に石垣(瑞垣)が設けられていて、そこに松が植えられていた・・・そうやって想像すると岩津町誌に書かれている内容と合致する気がしてきます。
現在では住宅地の一角というか、まさに隣の敷地に食い込むような感じで石碑が建っていますね。すぐ隣が民家という事もあって荼毘所の位置が分かる様な情報がGoogle先生に聞いてみても皆無でした。あえて解らないようにしているのかもしれませんね。
そう思うと場所が特定できるような写真は掲載できないなあと思い、こんな拡大した写真での紹介にして、ストリートビューなどでの紹介は自重しようかと思います。
当サイトでは「改訂三河後風土記を追う」という企画で、徳川家康以前の松平八代と呼ばれる松平初代「松平親氏」から家康の父で安祥松平家五代「松平広忠」までの三河を中心として勢力を伸ばしていった時期の松平家を追いかけています。是非こちらも呼んでいただけたら幸いです。
(順次追記、改訂を行っています。時には内容をガラッと変えてしまう事もあるかもしれませんのでご了承下さい。)