神社紹介
神社名 | 菅生神社 |
鎮座地 | 岡崎市康生町六三〇番地一 |
御祭神 | 須佐之男命、天照大御神、豊受姫命 |
旧社格 | 神饌幣帛料供進指定村社 |
創 建 | 伝:第十二代景行天皇四○年 |
神名帳 | ー |
境内社 | 稲荷社、秋葉社 |
例祭日 | 七月二十日 |
御朱印 | ○ |
H P | ○/公式HP |
参拝日:2021年1月13日
御由緒
岡崎市の夜空を彩る八月第一日曜日に開催される岡崎花火大会。この花火大会は岡崎市の中心を東西に流れる菅生川の河川敷に桟敷が設けられ、さらに屋形船が浮かび、愛知県下でも有数の花火大会として知られていますが、実は菅生川の神事と花火大会が融合して行われているという事はあまり知られていませんね。
江戸時代から七月二十日の例祭の時に菅生川に提灯を付けた鉾船を浮かべ金魚花火や手筒花火等を打ち上げ奉納していたそうなのですが、現在は岡崎市観光協会主催の打ち上げ花火大会と共催という形で例祭とは別の八月第一日曜日に「菅生祭鉾船神事」が行われているそうです。地味ながら有名な「金魚花火」は実は神事として水上に投げ込まれていたんだという事だったということですね。
岡崎市民以外正直知名度は殆どないのではないかと思う「金魚花火」・・花火大会の時に菅生川に行かないと見る事ができないので、正直岡崎市民でも聞いた事はあるけど見た事がない人はとても多いと思うので、youtubeに金魚花火の動画がアップされていたので上に八付けておきます。
菅生神社の由緒を見ると、どうやら菅生神社は「菅生天王社」、「稲荷社」、「神明宮」の三社が合併して誕生した神社であるようです。それぞれの神社の由緒が入り乱れて説明されている為、非常に分かりにくくなっています。
三社を合併した際、主祭神を牛頭天王(明治以降は須佐之男命)とし、天照大御神、稲荷神は配神としている所から、菅生天王社に稲荷社、神明社が合祀された形になっています。
天王社
創建:天平宝宇元年(757年) | |
永正十四年(1517年) | 菅生川洪水し社殿流出。岡崎高石に漂着 |
永正十五年(1518年) | 高石に社殿を建立、菅生天王社と称する |
大永三年(1523年) | 岡崎城主「松平信貞」十二末社を勧請する |
天正十九年(1591年) | 田中吉政により社領没収、十二末社破却 |
慶長十五年(1610年) | 菅生川洪水し社殿流出。亀井戸稲荷社の境内に漂着 稲荷社と合併する。主祭神は牛頭天王 |
慶長年間 | 伊奈備前守忠次社領二石六斗六升の黒印を附す 境内地を亀井戸から南西の場所に遷座 |
元和八年(1622年) | 磐城平藩主「内藤佐馬助政長」、社殿造営 |
寛永十五年(1638年) | 岡崎城主本多伊勢守忠利、本殿を修復し、石鳥居を造立 |
宝暦三年(1753年) | 岡崎城主水野織部正忠任、本殿を修復 |
名和五年(1768年) | 岡崎城主松平周防守康福、社殿修理 |
寛政十一年(1799年) | 岡崎藩主本多中務大輔忠顕、雨覆を造立 |
明治元年(1868年) | 社名を菅生神社に改称する |
神明社
創建:第十二代景行天皇四○年(110年) | |
神亀二年(724年) | 山城国より稲荷神を勧請し、稲荷社を建立 境内地を亀井戸(現:六地蔵町周辺)に遷座 |
天正十九年(1591年) | 田中吉政により社領没収により稲荷社本殿内に御神体遷座 |
稲荷社
創建:神亀二年(724年) | |
神亀二年(724年) | 山城国より稲荷神が勧請され、稲荷社が建立 境内地を亀井戸(現:六地蔵町周辺)に遷座 |
天正十九年(1591年) | 田中吉政により社領を削減される。 神明社破却に伴い、神明社御神体を稲荷社本殿内に遷座 |
慶長十五年(1610年) | 菅生川洪水により境内に菅生天王社の社殿が漂着 天王社と合併する。主祭神は牛頭天王 |
明治に入って、境内地を三度遷座、そして太平洋戦争の岡崎空襲により社殿を焼失、その後再建と移り行く中で、本殿に祀られている御祭神は須佐之男命、天照大御神、豊受姫命、菅原道真、徳川家康の五柱となっていて、境内に稲荷社が境内社とて鎮座しています。
社伝に天平宝宇元年(757年)額田郡宮崎郷に、播磨国より祇園牛頭天王を勧請祀るという。永正十四年(1517年)七月、洪水の為社殿流れ、岡崎高石の地に漂着する。これを菅生天王という。翌十五年十二月、本社を造営する。永禄九年(1566年)二月、徳川家康、社殿を再建し、慶長年中(1596-1614年)伊奈忠次、社領二石六斗六升黒印寄進す。同十五年正月二十四日、洪水あり。稲荷社の境内に漂着のことあり。元和八年(1622年)内藤佐馬助、社殿を造営す。その後岡崎城主代々崇敬をよせる。明治元年菅生神社と改め、同五年十月十二日、村社に列し、同九年五月、龍城神社境内に移したが、同二十三年十二月、現在の地に戻す。同四十年十月二十六日、神饌幣帛料供進指定をうく。同四十三年七月一日、社殿を再建した。
愛知県神社庁発刊「愛知県神社名鑑」より
菅生神社は康生町六百三十番地に鎮座。境内五百七十五坪を有す。もとは菅生天王を称し、菅生の地に鎮座あり。社記に依れば、人皇十二代景行天皇の御代、日本武尊東夷征伐として当地御通過の折、高石にて矢を作り給い、一矢を小川に吹流し給う。その折矢を御霊代として伊勢大神を鎮祭し吹矢大明神と称す。その後、神亀二年(724年)山城国より稲荷大明神を勧請し、以来稲荷社と伝えり、後亀井戸の地に遷座す。又、天平宝宇元年、始めて額田郡宮崎の地に播磨国より牛王天王を勧請せしが。元暦元年(1184年)に神殿焼失し、翌文治元年(1185年)に再興す。その後。永正十四年(1517年)七月、洪水の節、右の神殿岡崎高石の地に漂着す。是を菅生天王と伝えり。同十五年(1518年)十二月、同郡中山庄土村の住人天野法掃部助正家及び同郡麻生村の住人天野彌九郎隆正本社を造立し、大永三年(1523年)六月岡崎城主「松平弾正左衛門信貞」境内に十二末社を勧請す。永禄九年(1566年)六月徳川家康社殿を再建あり。天正十九年(1591年)城主田中吉政の時、社領を没収し、十二末社を破却すとある。
慶長年中、伊奈備前守忠次社領二石六斗六升の黒印を附す。同十五年(1610年)正月二十四日菅生川洪水にて本社流れ、稲荷社の境内に着す。依て稲荷社と合併した。
元和八年(1622年)、奥州岩城の城主内藤佐馬助政長、祖先の産土神の故を以て社殿を造営。寛永十五年(1638年)十一月岡崎城主本多伊勢守忠利本殿を修復し、石鳥居を造立した。其後本社を移転して岡崎の城主代々崇敬あり。毎年十二月御供米一俵を献じ、毎月神子神楽を奉納したと云う。宝暦三年(1753年)十二月、水野織部正忠任、本殿を修復せられ名和五年(1768年)五月松平周防守康福又修理を加えらる。寛政十一年(1799年)六月、本多中務大輔忠顕、雨覆を造立あり。明治元年菅生神社と改称し、同五年十月十二日村社に列せらる。同九年五月公園内龍城神社境内に移設し、同二十三年十二月復もとの地に移す。同三十四年五月二十二日現今の地に遷座し、同三十五年拝殿を改築し。同九年二十二日上棟式を行う。同四十年十月二十六日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。同四十二年十月十八日本殿渡殿の再建に着手し、翌四十三年七月一日竣工、同月十七日上棟式を行い、翌十八日遷宮があった。
祭神は須佐之男命、天照大御神、豊受姫命の三座である、
岡崎十二社をいく
岡崎十二社十番札所「白山神社/紹介記事」から岡崎公園の南側を歩いて一番札所となる「菅生神社」に向おうと思います。途中、岡崎公園内に十一番札所となる龍城神社が鎮座しているのですが、こちらは本日の最後に寄っていこうと思っています。
松で天守閣が全く写っていませんが、本丸部分を望んでいます。そういえば北海島の知り合いが岡崎に遊びに来た時に、北海道には城址って全くないから、こうやって城址を見るのって非常に新鮮なんだと言っていた記憶があります。愛知県に住んでいると特に城址ってあちこちに在ったりしますが、ところ変われば触れる機会がめっちゃ減るんですね。
伊賀八幡宮や能見神明宮など岡崎城下からは少し離れている神社も新たに加わっての岡崎十二社となっているので、元々の範囲からは広がった事になりますが、それでも一日で歩いて巡る事ができる距離感かなとは思います。
ここ菅生神社は、新生岡崎十二社の十二番札所に選定されています。実は江戸時代に開創したオリジナル岡崎十二社では、
1番:菅生稲荷大明神
2番:惣社神明社
7番:菅生天王社
11番:菅生八幡社
の菅生神社への改称前の菅生天王社とその境内社の合計4カ所が札所に選ばれるなど、まさに岡崎城下の中心的な神社であったことがわかります。
岡崎城下に鎮座する神社を巡る「おかまいり岡崎十二社スタンプラリー」
かつては岡崎城下に鎮座する十二社を巡る霊場として造られたようですが、その後神社の合祀などがあり、今回スタンプラリーを実施する辺り松平家ゆかりの神社を加えるなどして十二社を再編した「(新)岡崎十二社」として生まれ変わっています。
参拝記
岡崎の市街地を流れる菅生川沿いに真坐する菅生神社になります。現在は県道56号線の殿橋から北西を望むと菅生神社の境内を望むことができます。
境内入口
前面道路のどこまでが菅生神社の境内地なのかはよくわかりませんが、境内を囲む石垣と瑞垣の外側、ぱっとみ道路に据えられている様に見える社号標、由緒書板、徳川家康公厄除開運祈願の神社と彫られた石碑などが設置されています。
狛犬
生年月は調べ忘れてしまいましたが、擬宝珠のある狛犬一対になります。
本殿
切妻瓦葺平入の拝殿を有する社殿になります。拝殿前面の階段部分が設けられている部分が他の神社などとは異なる造りで、濡れ縁?部分が設けられて左右に階段が設置されています。この様式だと、祈祷される方達が拝殿に上った際に脱いだ靴などが配膳前面に並んで普通に参拝される方達の邪魔になるという事はなくなる(説明下手で申し訳ない。)わけですね。
境内社
境内には稲荷社が鎮座しています。この稲荷社は菅生天王社と合併した稲荷社の御祭神である豊受姫命は本殿に祀られているのもあって、後年新たに勧請された稲荷社の様な気がします。
秋葉社が境内北側の入口横に鎮座しています。
石鳥居
寛永十五年(1638年)、岡崎城主本多伊勢守忠利が本殿を修復した際に奉納した石鳥居が残っています。現在では岡崎市の指定文化財となっています。
岡崎一二社スタンプ台
そういえば写真を撮り忘れていた手水舎の脇に岡崎一二社のスタンプ台が設置されています。スタンプ入れ&支柱の簡易型のスタンプ台ですね。
地図で鎮座地を確認
神社名 | 菅生神社 |
鎮座地 | 愛知県岡崎市康生町六三〇番地一 |
最寄駅 | 名鉄バス「殿橋バス停」徒歩2分 |
ご自宅にお札は祀られていますか?
実家には神棚はあっても、今お住いの所には神棚がない方も多いかと思います。神棚には、日本の氏神である"天照大御神"とご自身がお住いの氏神様のお札を掲げると御神徳が宿るとされています。
賃貸住宅などに住まわれて簡単に神棚を掲げられないという方もお勧めなのが、
南向き、もしくは東向きになる様に、そして目線の高さより上になる様に、棚などの上において頂くとよいかと思います。是非、皆様もご自宅に神棚をご用意いただき、御札を納めてほしいなと思います。