寺院情報
寺院名 | 満珠山是字寺龍海院 |
所在地 | 岡崎市明大寺町西郷中三十四番地一 |
御本尊 | 釈迦如来 |
宗 派 | 曹洞宗 |
創 建 | 享禄三年(1530年) |
札 所 | 三河観音霊場 七番札所 東海百観音 七三番札所 岡崎三六地蔵 三十番札所 |
御朱印 | 〇 |
H P | ー |
参拝日:2021年1月13日
沿革・由緒
安祥松平氏四代「松平清康」が享禄三年(1530年)六月に創建した寺院になります。
清康が二十歳となる享禄三年の正月の初夢の中で「是」の字を握る夢を見た。この夢を渥美郡大久保の長興寺四世模外和尚が額田郡大沢の龍渓院に居ると聞き、使者を遣わして夢を占わせた。模外和尚は
「この夢は甚だ吉兆なり。是の字を分析すれば日下人也。日下人を掌握するは即ち天下の主なり。天下を掌握すること公の一世にあらざれば必ず子か孫にあらん事疑いなし。」
と占い、使者に伝えたとされます。
清康はこの知らせを聞き非常に喜び、岡崎城に模外和尚を招き和尚の為に一寺を建立する事を約束したとし、同年二月には寺院の造営が始まり六月下旬には竣工し、寺号を龍渓院に準じて龍海院とし、山号は山の形に相擬して満珠山と号した。こうした所以をもって是ノ字寺(是字寺)とも伝わっています。
享禄四年三月には裏門、庫裏、長屋等が、翌天文元年には総門の西脇に塔司二間が建立されます。
塔司とは?
Google先生に尋ねてみると「塔頭を司る役」と出てきます。この事から早くから龍海院には塔頭があった可能性がありますね。
天文元年には松平清康が浄土宗から曹洞宗に改宗するとして龍海院において師檀の契約が行われた事に対し、元々安祥松平氏の菩提寺「大樹寺」は浄土宗の寺院であり、清康の行動に対し大樹寺八世住持宝誉和尚は大樹寺を去り碧海郡大浜村清浄院に移るという行動に至ったと伝わっています。この和尚の行動に対し清康は、再び大樹寺に帰檀しています。
龍海院には雅楽頭酒井氏の酒井正親を名代として外護の檀越に命じており、これによって雅楽頭酒井氏は累代曹洞宗となっています。
・松平広忠後室真喜子(戸田康光娘)元亀二年三月晦日に没し龍海院に葬る。
・酒井正親 天正四年六月六日、西尾城にて没し龍海院に葬る。
徳川家康の関東移封に伴い、酒井忠重(坂井正親の子)は武蔵国川越に一万石を与えられています。この時、龍海院の別院を川越の地に建立しています。さらに慶長六年(1601年)に忠重が前橋に移封されると川越の龍海院も前橋に移っています。現在でも前橋に龍海院はあり、忠重系雅楽頭酒井氏の菩提寺として忠重から十五代忠顕までの墓所があります。
一方、岡崎に残った龍海院は、家康が去った後に岡崎城に入城してきた田中吉政によって破却されてしまったといいます。しかし、関ケ原の合戦後の慶長六年(1601年)新たに岡崎城主となった本多康重によって再興されています。この再興については、徳川家康の意向もあったんじゃないかな。
寛永十年、往古より龍海院の境内に勧請され鎮座する伊勢内外の両宮を合併して一社とし、これを両神(もろがみ)と呼ぶ。この神社が現在明大寺町諸神三番地に鎮座する神明社になります。ただし神社の由緒では両宮を合併したのは天正七年(1579年)となっており時代に誤差が生じています。ただ、かつての龍海院の境内がこの神明社付近まであったという証左にもなるかと思うので、かなり広い境内地であったことがわかりますね。
明大寺町諸神に鎮座する神明社です。拝殿に由緒書きが掲げられていて、それによるとヤマトタケルが東征の際、この神明社の建つ地にて野営をしていた所、天より三つの星が降り落ちてきて三人の白髭老神となりヤマトタケルの前に跪き、「我らは天津神の命により尊の御身を守る三台の星なり。願わくば賊を平らげ社を祀り給え。」と宣まいてまた星になり北方の山頂に消え、三つの岩となったといういう伝承がかかれています。
ヤマトタケルの東征伝承地になりますね。この三ツ岩伝承は現在の甲山周辺の事を指していてその昔は高石山と呼ばれていた場所になります。矢作神社が現在鎮座している辺りで矢を作ったという伝承が高石山にいる賊を倒す為だったので、当然三ツ岩伝説も矢作川右岸あたりの話だと思っていました。しかし、菅生神社にも矢を作った伝承が残っている辺りを考えると、矢作川から乙川にかけての伝承だったという事なんでしょう。
歴史探訪
由緒でも書きましたが、創建した松平清康に変わり大檀那となったのが譜代家臣である酒井正親になります。左衛門尉酒井氏の菩提寺である「回向院/紹介記事」は大樹寺の塔頭であったことからも分かる通り元々酒井氏は主君である松平氏と同様に浄土宗の門徒であったと思われます。しかし、清康からの命というより、清康の懇願によって曹洞宗への宗旨変えを行い、龍海院の大檀那となった訳ですね。以降、雅楽頭酒井氏は曹洞宗に帰依し続けています。
「寛政重脩諸家譜:巻第五十九」の酒井氏の項目には、酒井氏始祖「酒井広親」から始まって酒井正親に繋がる家系が記されています。
・酒井広親 明徳三年(1392年)八月十二日没、葬地不明、後年龍海院(是字寺)に改葬
・酒井家忠 永享十年(1438年)六月二十四日没、葬地不明
・酒井信親 文明九年(1477年)七月三日没、葬地不明
・酒井家次 永正十六年(1519年)八月十六日没、葬地不明
・酒井清秀 天文二十年(1551年)十月二十日没、葬地龍海院(是字寺)
・酒井正親 天正四年(1576年)七月二日没、葬地龍海院(是字寺)
酒井家忠が酒井広親の次男であり雅楽頭酒井氏の初代になります。この葬地不明と重なって雅楽頭酒井氏が一体どのあたりに住んでいたのかがよく解らない原因の一つなんじゃないかと思っています。
酒井正親の墓
現在(2021年2月10日)、龍海院の墓地が並ぶ場所に酒井正親の墓は見つけたのですが、龍海院に埋葬されたという広親、清秀の墓石はわかりませんでした。
真喜の方の墓
松平広忠が於大の方と離縁した後に正室に迎えた真喜の方の墓石になります。田原城主戸田康光の娘になります。親今川派として松平広忠と於大の方は結婚したわけですが、於大の方の実家である水野信元が親織田派に鞍替えしてしまった為、広忠と於大の方は離縁したわけです。そして、親今川派であった戸田康光の娘を正室に迎え入れ、松平氏=戸田氏=今川氏という同盟ラインを構築したわけです。
織田氏vs松平氏=戸田氏vs今川氏という形で尾張と駿河という言わば三河国から見て外敵に対し対向しようとしていたという説もなにやらあるそうですが。この辺りになってくると、岡崎城は織田信秀率いる軍勢に攻め落とされた為、竹千代(後の徳川家康)を人質として織田信秀の元に送ったという今までの学説をひっくり返すような話に繋がっていくので、今後色々な史料が発見されていく中でどういった形になるのかが非常に楽しみな個所だったりします。
ちなみに真喜の方は広忠との間に市場姫を設けています。市場姫は「八ツ面城/紹介記事」の荒川義広に嫁いでいます。
霊場をめぐる
岡崎三十六地蔵霊場三十番、三十一番の札所となっている「金寶山安心院/紹介記事」の参拝を終えて、(岡崎十二社の六所神社をその後に参拝していますが)次の札所となる「満珠山龍海院」の参拝をしていきます。
安心院・六所神社からは名鉄名古屋本線の線路沿いを西に歩いていく事になります。途中、東岡崎駅の南口のロータリーを抜けていきます。東岡崎駅の南口はどちらかと言えば裏口にあたるので、北側と比べるとひっそりとした雰囲気の駅前となっています。
岡崎市が観光事業の一環として、岡崎城下に開創されていた岡崎三十六地蔵という霊場を巡るスタンプラリーが行われています。観光案内所などに「おかまいりスタンプ帳」が配布されているので、見かけたことがある方もみえるかもしれません。
この記事を書いている時点でスタンプラリーに使うスタンプ台などが設置されているのかは不明ですが、現在でも「おかまいり」の公式サイトが稼働している(H3.4.29現在)ので、まだスタンプラリーは実施されているのかも?。巡ってみたいと思った方は、まだスタンプラリーがやっているかどうかを岡崎市観光協会に問い合わせる事をお勧めします。
ここ龍海院は岡崎三十六地蔵霊場の三十番札所に選ばれています。境内に、この札所本尊となる地蔵尊が奉安されている祠があり、その前にスタンプが置かれています。おや?三十番札所のはずなのに、二十九番札所と書かれたスタンプ台が置かれています。新編岡崎市史には昭和三十年再編した岡崎三十六地蔵の札所一覧が載っていたので、こちらを参照して三十番札所としていたのですが、その後昭和三十五年に再び再編され、今回のスタンプラリー開催に合わせて廃寺となってしまった寺院に変えて新たな札所が設けられたそうです。
自分が参拝したのは令和三年一月十三日だったのですが、自分が思っている以上にスタンプラリーを巡っている方がいるのか、試し押ししてみたら殆どインクが付いておらず、かなり長めにおしてやっと綺麗にスタンプを押すことができました。シャチハタのXスタンパーで作ったスタンプなのでインクを補充すればすぐ直るかと思いますが。
宗派ごとにスタンプの色を変えるという中々にくい演出が行われています。曹洞宗は黒色!
参拝記
名鉄東岡崎駅の南口から西に200mほど進むと、龍海院の境内入口が見えてきます。筋塀と呼ばれる寺院でよくみかける横に筋がいれらている塀が目を引きます。
山門
潜り戸が設けられた袖壁というか筋塀が接する様に設けられた薬医門の山門になります。
筋塀は五本筋が入れられているのが一番格式が高い(京都御所などで使われているそう)んだとか。ここ龍海院の筋塀も五本筋が入っていますね。
観音堂
三河三十三観音霊場の札所となっている観音堂になります。
実は観音堂前には三河三十三観音霊場の朱印が置かれていて、納経帳などにセルフ朱印となっているみたいです。筆書きは自筆になってしまいますが、朱印帳に押してもいいかもですね。
本堂
昭和二十年の岡崎空襲で本堂が焼失してしまい、昭和四十年代にRC造で再建された本堂になります。これは何と表現していいのかよく解らない独創的な造りになっています。
是字寺
由緒など調べる前にこの標号を見た時、是字寺っていう寺院を吸収したのか?と思ってしまいましたが、寺号が是字寺、院号が龍海院という事だったんですね。しかし・・是の文字を分解して日下人=天下人と読むとは中々空気を読む和尚だったようですね。
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やはり、旅先の情報はネット検索もいいですが、るるぶなどの旅行ガイド雑誌が一番ではないかなと思います。ネット情報はどうしてもディープになりがちで、いざ旅行に行こうと思っても、俯瞰的な情報が不足しがちな気がします。
やっぱり、"るるぶ"を見ながら、旅の予定表を作っていくのも、旅行の醍醐味ですよね。
所在地を地図で確認
寺院名 | 満珠山是字寺龍海院 |
所在地 | 岡崎市明大寺町西郷中三十四番地一 |
最寄駅 | 名古屋鉄道 名古屋本線「東岡崎駅」徒歩5分 |
寺院・霊場巡りの際のバイブルに
元々、当サイトは神社巡りを通じて、皆様の住んでいる所にある"村の鎮守の神様"と呼ばれる神社を紹介してくサイトを目指していたんです。むしろ寺院については、縁遠いものとおもっていたんですよね。しかし、ちょっとした御縁で弘法大師霊場に出会い、そして愛知県では一番活動が盛んな"知多四国霊場"を巡礼、結願する事になりました。でも、神社の事はある程度知識があっても、寺院については未知の世界だったので、少しでも巡礼の時に役に立てばと思い、こちらの本を読ませて頂いております。
少しでも巡礼の時にお役に立てる事もあるかと思います。是非一度読んでみてくださいませ。