ONE POINT
金山駅の南西、堀川の西岸に鎮座している須佐之男社の紹介です。社伝では堀川の掘削の時に東岸に鎮座する住吉社と同時に勧請創建されたと伝えられている神社になります。
神社情報
神社名 | 須佐之男社 |
鎮座地 | 名古屋市中川区柳川町七番地十一(Googlemap) |
例大祭 | 十月八日 |
創 建 | 慶長十四年(1609年) |
御祭神 | 建速須佐之男命 |
旧社格 | 神饌幣帛料供進指定村社 |
神名帳 | ー |
境内社
境内社 | お塚社(御祭神:夫婦神) 秋葉社(御祭神:加具土命) 多賀社(御祭神:伊邪那岐命) |
文化財
国 宝 | ー |
国指定 | ー |
県指定 | ー |
市指定 町指定 村指定 | ー |
参拝情報
御朱印 | ○ |
URL | ー |
駐車場 | ー |
参拝日 | 2022年4月13日 |
御由緒
「愛知県神社名鑑」では堀川の掘削の時に、船問屋が水運の安全を祈願する為に堀川の東西に住吉社と天王社を祀ったとしています。これが慶長十四年(1609年)の事としています。
が、徳川家康による名古屋城築城の天下普請に伴う堀川の掘削の命は慶長十五年(1610年)になるので、愛知県神社名鑑の由緒では堀川は実在しておらず・・・というか名古屋城もないわけで周囲は田園または森が広がる場所だったはずです。当時の土木技術では全くの無から川を掘削する事は難しいとされ、何らかの基礎となる自然河川が流れていたのではないかとも言われていますが、船問屋が何軒も立ち並ぶ程の水運があったとは到底考えられないですね。
少なくとも、名古屋城築造と並行して行われた清州越しによって素盞嗚神社周辺に集落が移ってきてから、水運の安全を祈願するまたは集落の産土神として天王社を勧請創建したのでしょう。
堀川とは?
慶長十五年(1610年)、江戸幕府大御所の徳川家康は尾張藩「松平義直」の当たらな居城となる名古屋城の築城を天下普請として全国の大名に命じます。この中で熱田から名古屋城下への水運を担う運河の掘削を「福島正則」に命じています。
福島正則は慶長十五年(1610年)に掘削を始め、翌年の慶長十六年(1611年)には熱田から名古屋城下までの間の運河掘削を完了させています。堀川とも呼ばれるこの運河は福島正則の官職「左衛門大夫」から「太夫掘」とも呼ばれていたとも。
元々は「運河」として掘削された川であることから、源流らしい物は存在せず、川の流れは殆ど無い中で昭和三十年以降は生活排水や工業廃水などが流れ込み「死せる川」とも呼ばれてしまう異臭を放つ川になってしまいます。この汚染状況を改善する為に流入水量の増大を図りつつ定期的なヘドロ除去が行われて徐々に水質は改善しつつありますがまだまだ道半ばの状況です。
天王社と同時期に勧請創建されたという堀川東側に鎮座する「住吉社/紹介記事」の創建は愛知県神社名鑑では享保九年(1724年)であると紹介しています。約120年の差をどう考えるか・・・誤差というにはあまりにも年月が違いすぎる気がします。・・・。
境内に掲げられている由緒板では、明治三十年を超えると移住者が増え、広漠たる原野が広がっていたこの場所も市街が形成される様になり氏子が急激に増えたとあります。昭和十二年に八熊土地整理組合より原境内地を購入、昭和十四年に社殿を造営遷座したとあります。境内が整備された事からか、昭和十五年七月十三日に村社に列格し、二か月後の九月十二日に神饌幣帛料供進指定となっています。
慶長十四年(1609年)堀川を掘鑿の時に、水運の業務を担当の川東の船問屋側は住吉神社を祀り、川西側の川方屋は天王社を祀る。文政年間(1818-29年)堀川の水運発達と共に氏子も増加し、尾張津島神社の神輿渡御あり蟹江の川口にて拝受小船により境内に奉持し七日間安置して盛大な祭礼を行い、毎年旧暦六月十六日提灯祭には御屋敷方の御船方の家族打連れ参詣あると、文化二乙丑年(1805年)六月、天保九戌年(1838年)五月、嘉永三庚戌年(1850年)四月、修復の棟札を社蔵す、昭和十五年七月十三日、村社となり同年九月十二日、指定社となる。昭和二十年三月十九日の空襲に社殿悉く焼失せしも氏子の熱意により復旧した
愛知県神社庁発刊「愛知県神社名鑑」
御祭神
- 建速須佐之男命
御朱印帳の保管に
数年前より非常に集める方が増えた「御朱印」ですが、皆様は御朱印帳はどうやって保管していますか?神社・仏閣を廻って御朱印を受けているとあっという間に御朱印帳の冊数が増えていきますが、そのまま棚などに置いている方が多いのでは?。せっかくお受けした御朱印ですので、日本では古くから着物を始めとして大切なものを保管する為に使われていた「桐箱」に入れて保管した方がよろしいかと思います。
ぜひ、皆様も桐箱に御朱印帳を保管されてみたらいかがですか?
愛知県下新十名所を巡る
2022年のメインの企画「愛知県下新十名所」ですが、今回から第六弾の遠征となる今回は名古屋城近くにある「京町薬祖神」を目指してバイクを走らせていきます。
南区の「紀左衛門神社/紹介記事」を後にして、国道22号線に合流して、そのまま熱田神宮の西側を北上していきます。「新尾頭交差点」を左折して県道29号線を西に進路を変えて堀川に架かる住吉橋を超えて左折して路地を進むと今回紹介する須佐之男社が鎮座しています。
参拝記
名古屋市内を南北に流れる堀川を渡河する「住吉橋」から堀川西岸を南に入った場所にある「柳川公園」の敷地内に間借りしている様に今回紹介する須佐之男社は鎮座しています。先にも紹介した昭和22年に撮影された航空写真を見ると、柳川公園は戦後の復興の最中に造られた公園で、元々は住宅地だったみたいです。空襲で焼け野原となったこの場所を公園として整備さらに道路の付け替えなどが行われた結果まるで公園の中に神社が鎮座している様な形になった訳ですね。ただ、駐車場がない公園なので、車で参拝される際はコインパーキングに車を停めて参拝する事になるかと思います。
境内入口

須佐之男社の境内は基壇上に石造瑞垣が設けられており、南入りの境内入口には幟立ポール、社号標、石造神明鳥居などが据えられています。たぶん元々はこの境内前を横切る様に路地が走っていたと思うのですが、現在はそのまま柳川公園に繋がっています。
手水舎

木造瓦葺四本柱タイプの手水舎になります。左右奥側には仕切の柵が設けられていて前面側?のみ使用可能となっています。
蕃塀

尾張地方の独特の神社構造物である「蕃塀」になります。先に紹介した鳥居とこの蕃塀は昭和十二年建立の物になっています。この場所に遷座した時に建立された物になり、空襲にも耐えた事になります。
狛犬

狛犬一対になります。何時生まれたのか確認し忘れてしまいました。他の石造物が昭和十二年製なので、もしかしたら同時期の生まれになるのかもしれません。
蝋燭立て

拝殿前には尾張地方の神社でよく見かける「蝋燭立て(台)」が据えられていました。防風の為に戸袋部分にサッシがはめ込まれています。
社殿

切妻造瓦葺妻入りの開放型拝殿を有する尾張造の社殿になります。昭和二十七年建立で伊勢湾台風の暴風雨にも耐えた社殿ですが建立50年が経過して老朽化が深刻となった為、平成になり大修理が行われた様です。

昭和二十年代に建立した社殿でありながら、土間敷きの拝殿となっておりバリアフリーとなっているのは先見の明があったということになるのかな。
妻入りの拝殿の後方は平入の祭文殿があり、その奥に流造の本殿が鎮座しています。

瑞垣内は本殿を中心にして左右に境内社である秋葉社と多賀社が鎮座しています。

こちらが「お経社」という名の境内社になります。
その昔、この辺りの田圃のあぜ道に塚があり、夫婦神を祀る小さな祠が建っており、都市開発の中でこの祠をここに移したと記されています。今でも昔ながらの田圃のあぜ道(農道)を歩くとその脇に小さな祠が祀られていたりしますがここお経社もそういった道祖神的な祠だったのでしょうね。
鎮座地を神社で確認
神社名 | 須佐之男社 |
鎮座地 | 名古屋市中川区柳川町七番地十一(Googlemap) |
最寄駅 | 鉄道:JR・名鉄・地下鉄「金山駅」 徒歩11分 バス:名古屋市営バス・金山22系統「新尾頭町バス停」徒歩3分 |
ご自宅にお札は祀られていますか?
実家には神棚はあっても、今お住いの所には神棚がない方も多いかと思います。神棚には、日本の氏神である"天照大御神"とご自身がお住いの氏神様のお札を掲げると御神徳が宿るとされています。
賃貸住宅などに住まわれて簡単に神棚を掲げられないという方もお勧めなのが、
南向き、もしくは東向きになる様に、そして目線の高さより上になる様に、棚などの上において頂くとよいかと思います。是非、皆様もご自宅に神棚をご用意いただき、御札を納めてほしいなと思います。