小針1号古墳(愛知県岡崎市小針町) 大友皇子伝説の地

 三菱自動車岡崎工場の南側に三菱自動車の小針ハイツという社員寮があります。その寮の敷地内なのか外からはよくわからない感じなのですが、寮の建物の南側の公園の中に今回紹介する大友皇子の御陵と伝承されている「小針1号古墳」があります。

小針1号古墳の概要

史跡名小針1号古墳
所在地愛知県岡崎市小針町神田四十三番地
形状前方後円墳
規模直径約17m、高さ約4m
指定・種別

訪問日:2020年7月16日

小針1号古墳の沿革

  往古から大友皇子の御陵であると言い伝えられている古墳だそうです。ここ小針1号古墳の周囲に14基の古墳(塚)が築かれていたとも言われています。
 大友天神社に伝えられている伝承では

 三河の地に逃げ延びた「大友皇子」が亡くなった時、従者であった「長谷部信次」は現在の小針の地に御陵を築き埋葬し、さらに大友皇子に付き添っていた従者が亡くなっていく度に大友皇子の御陵の周囲に埋葬していった。

 現在では、三菱自動車岡崎工場を始めとして工場地帯とさらに宅地化が行われた為、大友皇子の御陵とされる小針1号古墳以外は破却されてしまっており、その姿を確認する事はできなくなっています。

 古墳の形状は前方後円墳、円墳と情報が分かれています。ただ、この辺りの開発のおり、かなり古墳時代も削られてしまった跡があるため、はっきりとしたことがわかっていないというのが実状の様です。ただ、ここ小針1号古墳は岡崎市などの指定史跡にはなっていない為、今後調査が行われるかというと難しい所ですね。

歴史探訪

 ここ小針1号古墳が「大友皇子御陵」の伝説が残っていますが、戦前宮内省(現:宮内庁)は、大友皇子の御陵は滋賀県大津市にある「長等山前陵」に治定されています。これはやはり日本書記に記されている様に大津宮近くにて自害したという正史も強く影響していると思います。

 そして、この小針1号古墳を始めとして、矢作川西岸には数多くの古墳が築かれており、何ヶ所かはまとまって古墳が築かれている古墳群が形成されています。今回紹介している小針1号古墳も小針古墳群に属している古墳の一つとなります。小針1号古墳から少し東に進んだ場所に「猿投塚古墳」という円墳があります。こちらは橋目荒居古墳群に属する古墳の様で、岡崎市の指定史跡になっていたりします。この辺りに指定の基準がよくわらないですね。

 こちらが、猿投塚古墳になるのですが、周囲がかなり削られてしまっている為、正直指定史跡の案内板がないと、まったく古墳とは気づくことができないかと思います。

 矢作川西岸は、今回紹介してる大友皇子御陵とする小針1号古墳、五十狭城入彦皇子御陵である和志取古墳、少し南にすすんで、二子古墳、姫小川古墳と時の大和朝廷の皇子や皇女達と所縁がある古墳が造られています。こんな所から、天智天皇、天武天皇の御代の大和朝廷の太平洋側の東端は矢作川周辺だったのではないのか?と想像する事ができるのかなと思います。

 大友皇子が壬申の乱に於いて自害したのかどうか?という疑問は残りますが、もしかしたら大海人皇子は大友皇子が自害したという形にして皇族から切り離し、大和朝廷の東端近い三河国に島流しの様な形で追放したのかもしれませんね。
 実は、千葉県にも大友皇子が逃げ延びたという伝承が残っている場所があります。両方の伝承から考察すると、伊勢神宮から船で伊勢湾を横断している時に船団が分かれてしまい、大友皇子が乗船している船と大友皇子の正妻や皇子が乗船している船が分かれてしまい、一方が三河国へもう一方が上総国にたどり着いたのかなとも思っています。

 愛知県に住んでいると千葉県は非常に遠い場所なんですが、何時か大友皇子伝説を追って千葉県を訪問してみたいですね。

訪問記

 三菱自動車の社員寮の駐車場の様で、一面「三菱自動車」が止まっているという中々他では見ることができない駐車場の光景の先の木々の中に今回紹介している「小針1号古墳」があります。部外者立ち入り禁止という看板もないので、入っていいのかよくわからず、もしかしたら三菱自動車の敷地内に古墳があるのかな?とも思ったのですが、外から見ていると普通に入る事ができそうだったので、失礼して古墳のある公園に向かう事にしました。

 周囲がしっかりと草刈りされている中にある小針1号古墳になります。かなり墳丘は低くなってしまっていて、風化&削られてしまった様が見て取れます。

 古墳脇には、名古屋菱重興産株式会社(現在は三菱重工に吸収され消滅)によって建てられた古墳の説明板になります。元々三菱自動車も三菱重工の一製造部門で、1970年に分離独立していて、丁度三菱重工グループの再編の真っ只中に設置された案内板だとも言えます。(古墳の歴史だけでなく三菱重工の歴史も感じられる訳ですね。)

 このあたり一帯は、往時大小十四基の古墳があって壮観を呈していたが明治以降開墾のため破壊され、この柵内の小高い円丘俗称、大塚のみが原形を保っている。もとは前方後円墳で、周囲には円筒埴輪が巡らされていたが、今は後円部のみが残存している。
この古墳は往古から大友皇子の塚だという伝説がある。すなわち今を去る千三百年の昔、天地天皇崩御後、皇太子大友皇子が近江の大津宮で政治をとったが、天皇の弟大海人皇子(第四十代天武天皇)が吉野で挙兵し、近江を攻め、大津宮や兵火にあって焼け落ち、大友皇子は敗れて自害した(672年、御歳25歳) これを壬申の乱よぶ(日本書紀)
 しかるに西大友町に鎮座する大友神社の「社志」によると「大友皇子は自害したといいふらして、ひそかに一族の者数名と三河にのがれ、大海子皇子の謀反を怨み悲憤に暮れたが、ついにこの地で崩じ、小針字神田に葬られた。従者 長谷部信次が神社を創建し皇子を祭祀した。これが大友天神じゃである。大友という村名もこれに起因する」という由緒がある。
 この塚は現在小針町字城跡一二三番地 市川金平氏の所有で、同家で先祖代々丁重に守護し来たっている。
なお大友皇子は明治三年に弘文天皇と贈り名され、御陵は大津市に建てられている。
昭和四十六年十二月 名古屋葵重興産株式会社 建之

 古墳の周囲はフェンスで囲まれていて、墳丘上に登れないようになっています。
 市の指定史跡となってもいいのではと思わなくもないですが、学術調査しようと思うと、大友皇子の陵墓伝承が残る古墳ではな中々発掘調査はしにくく、指定されていないのかなと思ってみたり。

地図で所在地を確認

古墳名小針1号古墳(大友皇子陵墓伝承地)
所在地愛知県岡崎市小針町神田四十三番地
最寄駅名鉄バス「40東岡崎ーフタバ産業前」橋目町御屋敷バス停徒歩6分
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