城跡巡り

土呂城(愛知県岡崎市福岡町)

2020年5月26日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

城郭紹介

城郭情報

城郭名土呂城
所在地愛知県岡崎市福岡町御坊山地内
築城主石川数正
築城年永禄七年(1564年)
城形状平城
規 模東西二町、南北一町余
廃城年不明
遺 構

文化財

国 宝
国指定
県指定
市指定
町指定
村指定

見学情報

御城印
駐車場
訪問日2020年5月24日

御城印の保管に

 御朱印ブームの柳の下のどじょうではないですが、ある時まさに彗星の如く登場した感のある「御城印」。各神社や寺院で押印してきた御朱印と異なり、各地方自治体が観光PRも兼ねて発行している事もあり、御城印を用意する城址の数がまさに「うなぎ上り」の如く増加しています。
 御朱印帳に記入していただく御朱印と異なり、御城印は基本書置きの物になり、またそのサイズも統一されているわけではないようです。そんな御城印を管理される場合、ポケット型の御城印帳が非常に役に立ちます。御城印を集められる方は是非用意してほしい一冊です。

 

沿革

 「土呂八幡宮/紹介記事」、「鷲塚山本宗寺/紹介記事」と紹介してきていますが、今回は同じ敷地に築城されていた「土呂城」を紹介します。

 上記二本の紹介記事で何度も紹介していますが、浄土真宗本願寺派の一家衆寺院であった「鷲塚山本宗寺」を中心として、三河一帯に浄土真宗本願寺派三河教団が形成されていきます。その布教の中心となったのは三河七ヶ寺と称される地元大坊主寺院となっています。

地元大坊主寺院とは?

 本願寺派歴代上人は開祖親鸞から繋がる血族が歴代就いています。そしてこの一族が法主を勤める寺院を一家衆寺院と呼んでいます。これに対し、各地方の有力寺院を地方大坊主寺院と呼んでいたようです。

 有力大坊主寺院を取り込むために、本願寺派歴代上人は、大坊主寺院の法主一族と婚姻関係を結んでいったようですね。まるで将軍家と摂関家の関係を思い浮かべてしまいます。
 そうして三河(特に西三河)国に強大な勢力を築いた浄土真宗本願寺派は、永禄六年(1563年)、松平家康側による不入権の侵害を発端とする「三河一向一揆」を起こします。

 真宗本願寺派としては、既に加賀一向一揆において当時に守護職「富樫政親」を打ち破り、加賀国を掌握するなど、各地で猛威を振るい、今川家から独立して間もない松平家康を打ち破り三河国を掌握しようとする意図もなかったとは言えないと思います。

 三河一向一揆では、一家衆寺院「本宗寺」時の住職「証専」が京の本願寺に出向いており三河国不在であった事も影響し、一向一揆の主導権を教団側がとるのではなく、一揆に参加した武将達が主導権を持っていたとされています。この主導権があいまいな状態は、三河各地で放棄した一揆衆を取り纏めて岡崎城を攻め込むという戦術をとる事ができず、どちらかといえば意思統一がされないまま、各地の一揆衆が勝手に動いていたと言われています。この一向一揆は教団の意思統一が行われた無かったことが大きく影響し、一向衆の思惑と異なって思いのほか一揆勢の勢力が伸びなかった事と、家康側の武将配置などの戦略により一揆勃発から凡そ一年後、和議が結ばれます。この和議も、教団が主導して妥結した和議ではなく、武将側が言わば教団の意向を無視する形で締結した和議とも言われています。このため、教団の意にそぐわない形で「本宗寺」の寺内に家康側の軍勢を招き入れる形になってしまい、本宗寺が破却されてしまう原因となっています。
 一度終結解散してしまうと再び結集する為には大きなエネルギーと時間を有する一揆側に対し、常に戦いを意識している武士とでは和議が結ばれた後の対応に大きな違いが発生し、家康側は一向宗に対し改派(本願寺派から真宗高田派など宗派替え)を要求しますが、寺院側が拒絶した為、松平領内から真宗本願寺派の寺院は追放、さらに真宗本願寺派は禁宗とされていまします。本宗寺は徹底的には破却された後、土呂の街の復興担当となった「石川数正」が本宗寺跡地に「土呂城」を築き、土呂復興を進めていきます。

 後に徳川家康の筆頭家老となる「石川数正」を土呂の復興担当に命じている事をみても、徳川家康としても土呂という町は決して無視できる存在ではなかった事が窺い知る事ができます。また、石川家は元々浄土真宗本願寺派の大檀那として本宗寺の境内地を寄進したとも言われており、真宗本願寺派を禁教とした後も本宗寺跡の復興には石川氏の力が必要だったとも言えます。(石川数正自身は三河一向一揆の際に浄土宗に改宗し徳川家康側として一向衆と対陣していますが、一向一揆鎮圧後時期は不明ですが浄土真宗に再び改宗しているようです。)

 正直な所、この「土呂城」がいつ頃まで使われ何時廃城になったのかは不明となっています。しかし、当時、本宗寺の寺内町、門前町として発展し西三河随一とまで言われた土呂の復旧は家康の領地運営にとっても重要項目の一つであり、自らの直臣である石川数正に土呂の地を与えていると考えられます。

 江戸時代になると、東海道が整備され、岡崎城下は宿場町にもなった事で急速に発展していきます。土呂の街は、矢作川の流れが変わった事もあり、一時ほどの勢いはなくなってしまっていましたが、それでもなお周囲と比べるとかなり発展した地域だったとされます。

 第二次世界大戦が終わり、市内電車が復興した頃の話では、「夜なんかで福岡町から電車に乗ると、福岡駅周辺は明るかったんだけど、すぐに田圃の中を走るから外は真っ暗、んで岡崎駅近くになると、外灯がなどで明るかったけど、羽根を過ぎるとまた外は田圃で真っ暗。康生町近くになるまで真っ暗だったねえ。」なんて話を聞いたことがあります。福岡の商店街には遠くから買い物に訪れる方が多かったとされ、自分が小学校の頃確か教科書南下にも岡崎市の中でも福岡町の商店街は屈指の商圏を有していると書かれていた記憶があります。

 ある意味、石川数正の復興計画は間違いじゃなかったことが証明されていますね。

主な土呂城主

  • 石川数正

歴史探訪

 いまいちその姿が捕らえきれない「土呂城」ですが、現在の福岡町とは異なり、土呂の西側には矢作川が流れ、南側には菱池に通じる湿地帯などが広がっていたをされ、三河湾から矢作川を遡上する船などの荷揚げ場所になっていたり、それでいて土呂から馬頭を抜け藤川、本宿方面に抜ける「吉良道」が通っている場所でもある事から、水運、陸運が交わるまさに一大商業地になっていました。
 この交わる場所を見下ろすような感じで台地がせり出しており、この台地に本宗寺が築かれ、そして土呂城になっていきます。

 本宗寺の頃の土呂は寺内町という形で発展をした為、街は本宗寺と同じ高台部分に形成されていました。しかし、本宗寺から土呂城に変わると、城と同じ高台に街を設ける事はやはりあまり考えられないのか、土呂城南側の低層地に移設される事になります。今までの船積み場所だったり街道が通っていた場所と考えられる場所になります。一説には、街を移動した跡地には土呂復興の為、茶畑が形成されていたと伝えられています。この辺りは、「松平念誓と上林竹庵とお茶壺道中/紹介記事」にまとめていますので是非一読下されば幸いです。

 福岡の街を歩くと気付くんですが、福岡の街は「坂が多い」んです。
 簡単に説明すると、福岡町は大体3段構造となっていて、上段が現在土呂八幡宮が鎮座している台地部分、中段が福岡商店街がある辺り、そして下段が福岡小学校から南に広がる田園地帯と分ける事が出来ます。下段に当たる部分が、矢作川から菱池にいたる流域だった場所で元々は池だったり川だったり遠浅の湿地代だったりした場所になるはずです。遠浅であった事から室町後期から江戸時代にかけて埋め立て作業が行われ、現在の様な田園風景が広がる様になったと言われています。因みに、福岡小学校は江戸時代に代官所(陣屋)の跡地を再利用しています。という事は、土呂の街の行政機関は江戸時代前期にかけて土呂城から代官所(陣屋)に移されていった事がわかりますね。

探訪記

「土呂城」の遺構は全く残っていないのが現状となっています。主郭部は大きく分けると本丸と二の丸に分ける事ができるようで、二の丸部には現在土呂八幡宮が鎮座し、本丸部には現在は廃寺となってしまっていますが、浄土真宗大谷派の御堂山教会が少しまえまで建っていました。家康による真宗本願寺派の禁宗措置が解除されても本宗寺は土呂の街に戻る事は許されなかったのですが、この地に蓮如上人の遺骨を埋めたとする墓所がある為、それを守る為なのか本願寺派の教会が建てられたようです。

二の丸跡

二の丸跡には、「土呂八幡宮/紹介記事」が鎮座しています。城跡だという視点で土呂八幡宮の境内の見ていくと、現在土呂八幡宮の社殿が鎮座している場所が、土呂城の二の丸部分に鎮座しているのか、二の丸のすぐ北側(二の丸の外側)に鎮座しているのか判断に困る部分ですね。社殿南側が一段低くなっていて、二の鳥居を潜ると石段を下りて境内が広がり、再び石段を登り社殿が鎮座している事から、もしかしたら一の鳥居、二の鳥居が立っている高くなっている部分が二の丸部分で、現在社務所や舞台が立っている一段低くなっている場所は土呂城の堀あった場所なのかな?とも想像してしまいます。

本丸部跡

 本丸部分は現状広場みないな形になっています。前述していますが真宗の御堂山教会が以前建っていた様ですが、現状取り壊されてなんとなく基礎跡がわかるかな?って感じになっています。
 高台の脇部分には、なにやら観音堂の様な御堂と、蓮如上人土呂御墓地として五輪塔が建てられています。
 本丸とされている御堂山なんですが、非常に小規模な小山の形状となっている為、本丸ではなくて曲輪じゃないのか?なんて思っている方もみえる様ですが、本宗寺を取り上げた記事の中でも説明していますが、元々ここ御堂山と土呂八幡宮が鎮座する御坊山は地続きの舌状の高台であり、御堂山と呼ばれる部分はその先端部分になります。

 上空から御堂山と御坊山を見るとこんな感じの配置になっています。現状では御坊山と御堂山は切り離されてしまい、それぞれが独立してしまっていますが、明治時代まではオレンジ色で囲んだように一つの舌状の台地となっていていました。しかし、明治から大正にかけて青色で書いた街道を通すために台地部分を切り崩してまさに切り通しの様に街道を通したため、御堂山部分が残された形となっています。御堂山教会が立っている部分を残したと言った方が正解なのかもしれませんね。

 土呂八幡宮から西に進むと、切り通しされた痕跡を見る事が出来ます。
 ここから石段が続いていていわば切り立った崖の様な形状になっています。この場所から真っ直ぐ正面を見ると、建物の間から御堂山を望むことができます。あくまでも自分の目線で感じた事なんですが、御堂山とこの写真を撮影している場所はほぼ同じ高さなんだと思います。

 横を見ると、まさに人工的に切り崩された崖を見る事ができます。法面に岡崎市と書かれた鋲が撃ち込まれていたので、もしかしたらこの傾斜部分は岡崎市が管理しているのかもしれませんね。

 二の丸部から本丸部に向けて歩いていくと、土呂城はもしかしたら当時の三河地区でも屈指の広さを持つ城郭跡だったんじゃないかと思う訳です。そして城の周りには城下町が広がっている。室町から戦国時代に作られた領主の館を堀や土塁で囲んだという城とは一線を画すまさに戦国期に見られるような砦機能に特化した城郭に近い造りの様に見えてきます。

令和四年、土呂城本丸跡消失

 令和四年(2022年)の年始から御堂山と呼ばれていた土呂城本丸跡とされる高台の造成工事が行われ、5月には上記の写真の様な状態になってしまっています。この場所に据えられていた「土呂城本丸跡」の案内柱も今後どうなってしまうのでしょうか。

造営工事の模様

地図で所在地を確認

城郭名土呂城
所在地愛知県岡崎市福岡町南御坊山
最寄駅名鉄バス「福岡町バス停」徒歩6分
名鉄東部バス「福岡郵便局前バス停」徒歩4分

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