寺院情報
寺院名 | 福聚山 慈眼寺 |
所在地 | 愛知県知立市山町桜馬場四番地 |
御本尊 | 阿弥陀如来 |
宗 派 | 曹洞宗 |
創 建 | 慶安三年(1650年) |
札 所 | 知立三弘法 三番札所 (旧)三河新四国 五十九番札所 三河西国観音 二十八番札所 |
御朱印 | - |
H P | 〇 |
参拝日:2019年1月9日
福聚山 慈眼寺の公式ホームページのご紹介
http://www.jigenji.jp/
沿革・由緒
慈眼寺の東側には、天平以来と馬の集積地であったと言われ、いつの頃からか、馬市が開かれるようになり、馬喰や馬子たちによってこの地に馬の供養のための馬頭観音が祀られたと言います。
慶安三年(1650年)、元刈谷「楞厳寺」の梅庵門和尚により一宇が建立されます。これが慈眼寺の開創と言われています。その後、明暦四年(1658年)、臨済宗の高徳愚堂東寔禅師が東海道を通りかかり、馬頭観音に参詣された。この時、寺の名がなかったので、山号・寺号名を依頼したところ快諾され、現在の「福聚山慈眼寺」の寺号を授けたといいます。
明治時代になり、馬市は慈眼寺の境内に場所を移し、馬が牛に姿を変え、鯖市も行われていましたが、昭和十八年を最後に歴史を閉じたそうです。
三河三弘法を行く
三番札所「慈眼寺」は一番、二番札所からは県道五十一号線を一気に東に進んだ場所に鎮座しています。
山町交差点の角に慈眼寺の看板が立っています。慈眼寺の門前に葬祭ホールが建っていますので、それも一つ目印になるかなと思います。
参拝記
慈眼寺の創建に深く関わっている池鯉鮒宿の馬市の風景は、広重の東海道五十三次の浮世絵にも描かれています。
今の知立周辺の風景とはあまりにも違いすぎてしまうのですが、江戸時代の頃は宿場の東側は草原が広がっていたんですね。そして松が生えている辺りで市場が開かれ、売買交渉が行われている様です。
一説には、山内一豊が妻「まつ」のお金で馬を買い馬揃えで信長に褒められたと言う有名な話の馬を買ったところが池鯉鮒の馬市であったという話もあるそうなんですが、今ではこの話は江戸時代以降の創作話であると言われていますね。
境内入口
境内の入口には、知立市が設置さいた「馬市の跡」の案内看板と「三河西国二十八番 馬頭観世音菩薩及家畜市場」と彫られた石柱碑が据えられています。石柱を見ると三河西国観音霊場が開創されたころには慈眼寺の境内で「家畜市場」と呼ばれた馬市が行われていたことがわかりますね。
慈眼寺には石柱門が設けられているのですが、かなり境内に入った場所に石柱門があります。この石柱門の変則的な据え方は馬市と何か関係があるのでしょうかね。
観音堂
方形造瓦葺の観音堂に池鯉鮒馬市の守り本尊である馬頭観音像が安置されており、右側(向かって左側)には弘法大師像が、左側(向かって右側)には不動明王と庚申様(青面金剛童子)が安置されています。更に、観音堂前にはびんずる様も安置されています。
本堂
本尊の阿弥陀如来像が安置されている入母屋造瓦葺平入の向拝の設けられた本殿になります。
曹洞宗の寺院らしく廻縁のない本堂ですね。
こちらの阿弥陀如来像は昭和四十年に知立市の指定文化財になっているそうです。
地蔵堂
飯地蔵、蚕地蔵がなどが安置されている地蔵堂になります。
こちらが北向き地蔵堂になります。
たまに北向き地蔵や北向き観音など北向きを強調している所があるのですが、北向きになにか意味があるのでしょうか・・・・。神社の社殿の多くは南向きになっていたりするのですが、寺院の本堂の向きって結構バラバラなイメージがあるんですけどね。
こちらが延命地蔵堂になります。
参拝を終えて
観音堂の前にある謎の御堂。中に安置されている仏像や地蔵尊などは無く、何に使われているのだろうか・・・。
観音堂の右側には鎮守社である稲荷社が鎮座していたのでその拝殿なのか?
元々池鯉鮒宿の馬市は旧東海道と国道一号線が交差する辺りにて行われいたと言われ、その場所には現在石碑があると言います。今回の知立三弘法巡礼では訪れていないのですが、近い将来、訪れてみようと思っています。