(旧)三河新四国八十八ヶ所 名所旧跡など 蒲郡市

法林山 光忠寺(蒲郡市西浦町北馬場) (旧)三河新四国四番札所、形原松平氏菩提寺

2018年7月10日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

寺院情報

寺院名 法林山 光忠寺
所在地 愛知県蒲郡市西浦町北馬場三十六番地
御本尊 阿弥陀如来
宗 派 浄土宗鎮西派
創 建 永正二年(1503年)
札 所 (旧)三河新四国霊場 四番札所
御朱印
H P

参拝日:2018年7月8日

沿革・由緒

光忠寺は松平紀伊守光重の造営、開基に係り、兄である松平佐渡守与副の法名玉峯院殿借譽光忠大居士とある。光忠の二文字を探りて寺号とする。その後同家の丹波笹山に移るまでは同家の菩提所となりしという。

宝飯郡誌より

形原松平家の菩提寺になります。
徳川家康が関東移封となる前までの歴代当主(初代「与副」から五代目「家忠」まで)の墓石、並びに位牌が奉安されています。
慶長八年(1603年)江戸幕府が開府され、譜代大名として移封を繰り返した形原松平家ですが、寛延元年(1748年)に丹波亀山藩(現在の亀岡市)五万一千石に移封されて以降、幕末、明治維新までこの地を納めています。そしてこの亀岡の地には「形原松平家」(六代目「家信」から十八代目「信正」まで)の菩提寺である「法林山光忠寺」があります。
江戸時代では大名家が移封する際、その大名家の菩提寺も移封先に移設させるのが一般的だったようで、「形原松平家」も御多分に漏れず、移封するごとに菩提寺である「光忠寺」を移封先に移していた様です。

開基となった「松平紀伊守光重」は大草松平家の初代になるのですが、一説では兄である松平与副とは非常に仲が良かったと言われています。松平光重が岡崎城に入城する以前は「与副」と共に形原に領地があったようですね。助け合って形原を納めてきたので、弟「光重」は兄の為に菩提寺を建立したんだと思います。ちなみに、光重本人の位牌も光忠寺に祀られています。

亀岡市の形原松平家菩提寺「法林寺光忠寺」のホームページのご案内

(旧)三河新四国霊場を行く

行基山実相寺」から(旧)三河新四国霊場四番札所である「法林山光忠寺」を目指します。形原西浦地区にある弘法大師関連の札所は地図を見て頂くとわかる通り六ヶ寺あり、その内の五ヶ寺が札所が重複しているのですが、ここ光忠寺だけは、(旧)三河新四国霊場の札所のみとなっています。

現在では、(旧)三河新四国霊場を遍路されている方はほぼ皆無だと思うので、ここ光忠寺を訪れる方も非常に少ないかと思うのですが、歴史好きの方なら是非「形原城」を訪れた折には「形原松平家菩提寺」としての光忠寺を参拝してほしいなと思います。

参拝記

光忠寺がある場所は、「形原城址」の南西側の住宅地の中になり、この辺りの道路の道幅は非常に狭くなっているので車で訪れる際は気を付けてください。

石柱門

山号、寺号が彫られた石柱門になります。
参道は車が通れるようにタイヤが通る部分はコンクリート敷になっています。

境内入口

光忠寺の境内入口にも石柱門が据えられています。
駐車場はこの石柱門の手前を左に曲がってすぐの場所に用意されています。

本堂

本堂の前に植えられている見事な枝ぶりの松は、「蒲郡の銘木50選」に選ばれています。
その松に隠れる様に写っていますが、寄棟造瓦葺平入の向拝のある本堂になります。浄土宗の本堂らしく周囲に濡れ縁が設けられています。

本堂の中央に奉安されている本尊の阿弥陀如来像になります。
なにやらこの阿弥陀様、全国でも非常に珍しい「印」の結び方をされているそうなのですが・・・。

この本尊の左右のどちらかに弘法大師像も奉安されているはずなのですが、確認しきれませんでした。

「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」・・・

鎮守社

金比羅社

境内右手に鎮座する金毘羅社になります。

八幡社

こちらが八幡社になります。

光忠寺に鎮座する金毘羅社、八幡社共に鳥居などは存在せず、また扁額も掲げられていない為、どちらかというとひっそりと鎮座している感じがします。金毘羅社は形原、三谷を中心とした海運の安全祈願の為に勧請されたものであり、八幡社は形原城、形原松平家の守護神として祀られてきた社なんだと思います。

形原松平家墓所

石柱門から本堂に向かう参道の途中の左手には「形原松平家の墓所」があります。
一対の石灯篭と垣根に囲まれた中には、初代「与副」、二代目「貞副」、三代目「親忠」、四代目「家広」、五代目「家忠」の墓石が安置されています。

後が初代"与副"の墓石で、その前に四基並んだ墓石は右から二代目、三代目と続きます。

蒲郡市内には、形原松平家だけでなく、同じく十八松平氏に数えれらる「五井松平家」と「竹谷松平家」の菩提寺があり、現在でもその墓石が残っています。
・五井松平家・・・蒲郡市五井の「龍田山 長泉寺
・竹谷松平家・・・蒲郡市竹谷の「金海山 全保寺」「竹谷松平家四代五輪塔
・西郡松平家・・・蒲郡市蒲郡の「龍台山 天桂院
※西郡竹谷家とは、竹谷松平家七代目「松平忠清」が無嫡子で亡くなったため、お家断絶となったのですが、今までの竹谷松平家の功績を考え、忠清の異母弟「松平清昌」に相続させますが、それまでの吉田藩ではなく宝飯郡西ノ郡に領地替えとなり、それ以降西郡松平家と呼ばれる様です。

あと、この蒲郡周辺では額田郡幸田町にある深溝松平氏の菩提寺である本光寺が非常に有名ですね。こちらの深溝松平家は菩提寺を移封されても常に深溝の本光寺としていました。深溝松平家が藩主と務める事が長かった島原藩(長崎県)時代においては遺体を本光寺に埋葬するために船に乗せて搬送していたそうです。まぁ、この深溝松平家や行ったことが特異的な事例なので、その墓所と比べてしまうと、質素な感じを受けてしまいます。更に深溝松平家の墓所は寺院での埋葬なんですが神式の墓石になって、仏式と神式の墓石の違いによって受ける印象は変わるのかもしれませんね。

御朱印

参拝を終えて

光忠寺の墓地の一角に「松平貞幹」の墓石があります。
形原松平家十二代目「松平信直」の七男として生まれ、松平丹波家の名跡を継ぐ。その後形原松平主家に宿老として仕えたという。その後江戸詰家老として江戸の公邸で藩候を補佐した。文政七年十二月十八日江戸公邸で逝く。(享年四十八才)

この「松平貞幹」の子孫の方が形原松平家についての非常に詳しいHPを開設されていますので、一度見て頂かれることをお勧めします。

http://www1.odn.ne.jp/~cag38460/public_html/01hajime.html

ちょっとHTMLがバグっている場所があり、うまくリンクが動いていない場所もありますが、一度見てみてください。

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やっぱり、"るるぶ"を見ながら、旅の予定表を作っていくのも、旅行の醍醐味ですよね。

所在地を地図で確認

寺院名 法林山光忠寺
所在地 愛知県蒲郡市西浦町北馬場三十六番地
最寄駅 名古屋鉄道 蒲郡線「西浦駅」徒歩5分

寺院・霊場巡りの際のバイブルに

元々、当サイトは神社巡りを通じて、皆様の住んでいる所にある"村の鎮守の神様"と呼ばれる神社を紹介してくサイトを目指していたんです。むしろ寺院については、縁遠いものとおもっていたんですよね。しかし、ちょっとした御縁で弘法大師霊場に出会い、そして愛知県では一番活動が盛んな"知多四国霊場"を巡礼、結願する事になりました。でも、神社の事はある程度知識があっても、寺院については未知の世界だったので、少しでも巡礼の時に役に立てばと思い、こちらの本を読ませて頂いております。

https://amzn.to/2UHeO79

少しでも巡礼の時にお役に立てる事もあるかと思います。是非一度読んでみてくださいませ。

次の目的地は?

(旧)三河新四国霊場五番札所「西浦山無量寺」を目指します。この無量寺で再び三河海岸大師、三河新四国霊場の札所と重なります。

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