神社情報
神社名 | 熊野神社 |
鎮座地 | 愛知県蒲郡市坂本町坂口一番地一号 |
御祭神 | 伊弉冉命、速玉男命、事解男命、宇賀魂命 |
旧社格 | 神饌幣帛料供進指定神社 |
創 建 | 寛喜二年(1230年) |
神名帳 | - |
境内社 | - |
例祭日 | 十月十日 |
御朱印 | - |
H P | - |
参拝日:2018年11月12日
御由緒
熊野三社権現と称し、領主松平氏の崇敬あり度々参詣ありしという。創建は明らかではないが、この地の楽勝院の古鐘に寛喜二年(1230年)四月三日行範あり、熊野信仰に厚き人なれば、この頃の創立と考えられる。明治五年十月村社に列し、同十三年六月二十八日、字深山に鎮座のところ今の地に遷座する。大正七年三月十五日、神饌幣帛料供進指定となる。
「愛知県神社名鑑」より
この坂本の地を熊野にみたて深山に承元二年五月(薬勝寺の古鐘による)熊野別当永範が薬勝寺とうに、阿弥陀仏、薬師仏、千手観音を祀り、その後鎮守とし熊野神社を應永元年八月二十七日に紀州熊野神社の分御魂として(当社所蔵の木札より)現在の観音さん(勝善寺)境内の位置に祀られた。御神徳は大変厚く古くから貴賤の別なく多く人々の信仰をあつめていた。険しく遠く参道のために後に遥拝所か(深山の瀧の上)造られた。その当時のその跡地が神社所有として今も残っている。その後、享保十五年頃熊野神社(勝善寺)境内から遥拝所まで今も残る表参道の石段を村民で作り上げたと伝はれている。
現在地に社殿を明治十三年六月十八日に移転したのであり、その頃の坂本村は戸数は八十四戸、人口は三百六十五人であったと記録にある。
現在の拝殿は大正二年の竣工であり、その後、落合に祀ってあった宇賀神社を熊野神社の遥拝所(滝の上)に移し、またその後、昭和二十四年七月十日に現在の熊野神社に相殿として祀れている。
「境内由緒書き」より
歴史探訪
深山の山中にある「永尾山 勝善寺」の参拝を終え、明治十三年に麓の坂口に移転したという熊野神社を目指すことにします。また。落ち葉や枝が散乱している山道を抜け、ミカン畑が広がるを通り抜けていきます。
坂本の集落の北型に当たる場所に鎮座しているので、まあまあわかりやすい場所ではないかなと思います。
参拝記
熊野神社に向かっていくと、遠くから鎮守の森が目印になります。
神社の周りも民家の他は見渡す限りミカン畑です。蒲郡ミカンはこの辺りではとてもメジャーなミカンブランドですが、ここまでミカン一色だとは思っていなかったので、びっくりしました。
社号標
旧社格が彫られた社号標になります。
鳥居
比較的小ぶりな明神鳥居になります。
明治三十七年寄贈と書かれていますが、石の表面の質感から近年再建された物だとおもうのですが・・・。
鳥居を潜ると、石段の参道が続いています。
手水舎、水盤
コンクリート造り四本柱タイプの手水社になります。
参拝した日は例祭からさほど時間が経っていない為か、水盤に真新しい青竹で作られた柄杓置きが設けられていました。
狛犬
生まれは調べ忘れました・・・。狛犬一対です。
社殿
入母屋造瓦葺平入高覧が設けられた廻縁のある拝殿になります。
資料では、覆殿の中に大社造の本殿が鎮座しているんだとか・・・。なぜに大社造りなのか・・・?
参拝を終えて
坂本町坂口に鎮座する「熊野神社」と、坂本町深山にある「永尾山 勝善寺」
鎌倉期に熊野三山を勧請して創建された両寺社なんですが、元は熊野神社として鎮座、祀られていたんだと思います。それが神仏分離令により、熊野神社と勝善寺に分離・・・。今では別々の道を歩んでいると・・・。
熊野神社別当の住職が熊野の古木でつくった阿弥陀仏、薬師仏、千手観音を当地に祀り、その守護として熊野三山の御分霊を勧請しているわけで、神仏分離策とはいえ、創建の由来を考慮すると・・切り離していいものなのか・・・。
次の目的地は
熊野神社の参拝を終え、次は藤原俊成卿の蒲郡での屋敷があった場所に鎮座するという「小江神社」に向かいます。