知多四国八十八ヶ所 知多郡美浜町

浄光山 永寿寺(美浜町豊丘) 知多新四国霊場 二十八番札所

2018年12月16日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

寺院情報

寺院名 浄光山 永寿寺
所在地 愛知県知多郡美浜町大字豊丘字西側三十五番地
御本尊 阿弥陀如来
宗 派 西山浄土宗
創 建 寛永元年(1624年)
札 所 知多四国霊場 二十八番札所
法然上人霊場 五番札所
御朱印
H P

参拝日:2018年5月30日

知多新四国霊場公式ホームページのご紹介


http://chita88.jp/

沿革・由緒

当寺院は昔、通称「知多アルプス」と呼ばれていた深山にあります。約四百年前、戦に疲れた丹波福地山の斉藤小源治外、五名の武士が落ち来て山を切り開き住み着いたのが村落の始まりといわれています。「切山」の地名もここから生まれ、昔は「六軒屋」とも呼ばれたそうです。

永寿寺は寛永元年(1624年)その武士たちが菩提所を持ち来たので元々鎮座していた地福寺と合併した。それら菩提所だった寺院の本尊であったらしい仏様が永寿寺には多数奉安されている。

寛政八年(1796年)に十九世慈空観光和尚は寺運の隆昌をはかり寺格が法地に昇格した。享和三年(1803年)に旧本堂を改修して、現在の寺格を整えたという。

「知多四国めぐり」より


一説には、斉藤小源治らがこの地にきたのが天正十年(1582年)なんだそう。さらに彼らの出身地が丹波福知山。

歴史好きな方ならこれだけでピンとくるかたも多いのでは。
天正十年に何が起きたのか。

「敵は本能寺に在り!」

そう、明智光秀が本能寺に滞在してた織田信長を裏切り急襲した「本能寺の変」が起きたのが天正十年六月二日(1582年6月21日)なんです。そして、本能寺の変からわずか十一日後の天正十年六月十三日に中国地方から「中国大返し」呼ばれる行軍で畿内に戻ってきた羽柴秀吉と明智光秀がぶつかった「山崎の合戦」が起きます。

そして破れ討ち死にした明智光秀なんですが、信長の配下の時に丹波地方平定を行っていて、そこを領地としていました。丹波福知山も討ち死にする3年前に平定し支配していました。

斉藤小源治らは、想像するに明智光秀軍に従軍していた者達であり、山崎の合戦後の羽柴軍による丹波攻略からも逃れ、この地に流れ着いたんだと思います。

本当に明智軍の落ち武者たちなのかは不明であり、自分の勝手な妄想なのですが明智光秀に通じるだろう可能性のある歴史の繋がりに出会えて幸せです。

知多四国霊場を行く


二十七番札所「天竜山 誓海寺」を後にし、南知多自動車道と並行するように南北に走っている県道7号線を南下していきます。そして、県道7号線沿いに建っている「つくだ煮街道」さんの前にある交差点を左折していきます。
ストリートビューがその交差点になります。中央線がある道路を道なりに進んでしまいそうですが、このまま進んでしまうと、四十三番札所「大慈山 岩屋寺」や四十二番札所「瑞岸山 天竜寺」などが建っている知多半島の伊勢湾側に行ってしまいます。ちょっと見ずらいですが電信柱に二十八番札所「永寿寺」の案内看板がありますので、それに従って左折しましょう。

しばらく道なりに進むと、永寿寺が鎮座している集落の北側にでますので、看板に沿って進むと、永寿寺から少し離れた場所に駐車場がありますので、そちらに駐車してください。


管理人が行く知多四国霊場巡礼の旅

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参拝記

永寿寺の西側、道路と挟んだ反対側に駐車場が用意されています。地図をみていると、集落を外側を回り込むような迂回道路の様に見えますね。

実際、集落の中の道路は非常に狭く、車で通行するには不向きな道幅でしたので、こういった迂回道路は助かります。ただ、この集落の中の道路に

知多四国霊場の道標が建っています。

境内入口

石柱門が設けられた境内入口になります。
正面は弘法堂になり、本堂は弘法堂の左側(向かって右)に建っています。

入口脇には、新四国第廿八番霊場と彫られた札所案内石柱が建てられています。

手水舎・水盤

瓦葺木造四本柱タイプの手水舎になります。
やはり、四本柱タイプでも柱が下方に貫があると安定して見えます。

本堂

本尊である阿弥陀如来が安置されている入母屋造瓦葺平入向拝の設けられた本堂になります。浄土宗の本堂らしく、高覧のある廻縁も設けられていますね。

観音堂(弘法堂)

合併されたという地福寺の本尊であった「薬師如来」像が安置されている入母屋造瓦葺妻入りの観音堂になります。この「薬師如来」像は行基菩薩が作ったとされ、永年秘仏として開帳されることはないんだとか。

記念宝塔に観音堂の中からしっかりと紐が結ばれています。

観音堂の前には、二十八番札所をしめす案内石柱と・・・ん?向かって左手の観音様は・・・

「ことぶき観音」と台座に彫られています。

残念ながら、現地では気付くことがなく、帰ってきてから写真を見直したらその存在に気付いたため、写真を撮っていなくて、見切れた写真しかなかったりするわけですが、そう、この観音様は、コンクリート仏像であり、作成者は「平山氏」になります。ここ永寿寺のことぶき観音を含めて四体目の平山仏像に出会えました。

今後、まだ出会うことができるのか・・・写真を見直しながら確認してみます・・。

「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」・・・

大師像の前に狛犬の様に鎮座している招き猫は一体・・・

御朱印

参拝を終えて

愛知県にも色々な所に落ち武者伝説は残っています。当ブログでも、平家の落ち武者が住み着いたと言われている場所に鎮座している神社などを紹介してきましたが、明智光秀関係だと思われる落ち武者伝説を愛知県で出会うとは思ってもいませんでした・・・。

やっぱり歴史は面白いです。

次の目的地は

二十八番札所「浄光山 永寿寺」を後に、次は「大悲山 正法寺」を目指いします。二十八番札所から二十九番札所の間の御遍路は知多新四国霊場の中で最も厳しい道中だったそうです。

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