稲園山長福寺「七寺」(名古屋市中区大須)名古屋二十一大師二番札所

寺院情報

寺院名稲園山長福寺
所在地愛知県名古屋市中区大須二丁目二八番五号
御本尊聖観世音菩薩像
宗 派真言宗智山派
創 建天平七年(735年)
札 所名古屋二十一大師 二番札所
金城下二十一大師 二番札所
大名古屋八十八霊場 一番札所
東海不動尊霊場 九番札所
御朱印
H P

参拝日:20019年12月11日

名古屋二十一大師札所一覧

由緒・沿革

 通称「清州越し」と呼ばれる「名古屋城」築城に伴い、それまで尾張国の中心だった「清州城」から都市機能を名古屋城下に移転させる事業により、今回紹介する「稲園山長福寺(通称:七寺)」も清州城下から現在の境内地に移転しています。
 名古屋移転後は、尾張徳川家の勅願所にもなるなど、藩主から庇護を受けていた様です。明治時代になり、境内の南側を削られ、現在の大須通に供さるなど、かなりの境内地を接収された様ですが、それでも昭和二十年(1945年)の名古屋空襲で灰燼に帰すまでは、大須界隈では大須観音を凌ぐ賑わいを見せていた寺院だったようです。しかし、その後大須観音は三重塔を除く伽藍を再建できたのに対し、長福寺は往時の姿を再建する事ができず、現在では小さなお寺という感じになってしまっています。

戦前の長福寺の様子

 左下に見える道路が大須通になるようです。境内の伽藍配置は東向きだったようですね。
 本堂の屋根の奥に見える建物の屋根が「大須観音」の本堂の屋根です。

大正四年発刊「名古屋市史」には、

 七ツ寺は、稲園山と号す。中区門前町五丁目の西側に在り。境内は千二百三十一坪三合八勺(徳川時代には八千二百十一坪有り。除地なりき。)有り。格院(徳川時代には色衣出世法印地也)九等にして京都智積院の末寺なり。往古は中島郡下津里の南「阿波手浦」の西、「萱津原」の裏(中島郡大里村大字七ツ寺)に在り。
 天平七年(735年)七月、行基の開創と傳ふ。初め「正覚院」と号す。天應元年(781年)七月、河内権「守是廣」、出羽鎮秋田城介となりて、奥羽に趣き、七年の後帰りて、萱津に宿し、兒(子)の死を聞き、悲歎に堪えず。正覚院二世智光に依りて、之を院の西に葬り、堂を建てて 兒(子) 所持の薬師佛像を安んず、河内に帰るに及び、延歴六年(787年)十二月、当寺を再建し、七区の精舎、十二の僧坊を建て、七年五月落慶す。世俗呼んで「七ツ寺」と称すという。
 仁和三年(887年)七月晦日、大地震あり。(仁和地震)殿堂倒壊し、無住となること五十徐年。
 仁安二年(1167年)七月、尾張権守安長、亡女の為に、其女婿豊後守親寶と共に中興の工を始め九月七堂伽藍を落す。時にもと十二坊の魁名を採りて、稲園山長福寺と改め、高野山金剛峯寺に隷す。是に於て始めて真言の道場となるという。

(中略)

 建武四年(1337年)、兵火に遭い、寺宇重ねて頽破し、弥陀堂及び半壊の経蔵を残して悉く鳥有となる。荒墟二百五十余年、天正十九年(1591年)、鬼頭孫左衛門尉吉久、豊臣秀吉に請い堂宇を清州城の畔に移設し、良圓を請じて中興開山となす。文禄三年(1594年)三月、本堂を経始し、四年七月、落慶供養を修す。時に性海寺の末寺となる。慶長十六年(1611年)秋、二世良裕、名古屋日置村(現在の地)に阿弥陀堂を移建し、樓閣、門、庫を一新す。又、清州の元の地に一院を建てて、真福寺と号し、薬師如来像を安置する。

(中略)

享保十五年(1730年)春、地蔵院流の法地となりて、色衣を許される。この時藩主初めて抂駕あり。その後山城嵯峨世尊院を兼帯して、藩主の祈願所となり、一国の觸頭となる。

(中略)

明治十二年、智積院の末寺となる。

とあります。
 由緒を読む限り、よく廃寺にならなかったなというのが正直な感想ですね。ほぼ室町時代の全域にわたってほぼ伽藍が焼失してしまっている様な状態だったようですし、それ以前の平安時代にも無住の時期があったとか、今でも寺院が残っている事のが奇跡としか思えません。
 そんな寺院が、清州越しにより、現在の地に境内を構えるようになると、百年後には尾張徳川藩の祈願所になっています。

江戸時代の七寺の様子

「尾張名所図会」より

名古屋二十一大師霊場を行く

名古屋二十一大師再興50周年という事で、平成三十一年四月一日から令和二年三月三十一日までの一年間、記念宝印が頂けます。

一番札所である「北野山真福寺寶生院」の山門からまっすぐ伸びる参道を歩き、大須通りとの交差点にでて、通り沿いに東に歩いていくと今回納経する「稲園山長福寺(七寺)」が見えてきます。

参拝記

 名古屋市営バスの大須バス停で下車すると目の前に今回納経する「稲園山長福寺(七寺)」の境内入口があります。戦前の七寺の風景をアップさせて頂いていますが、対比すると寺勢の違いが見えてきてしまいますね。
 ただ、戦前に比べると境内が狭くなっていると思うのですが、この辺りは、区画整理による供出もあったとは思いますが、境内周辺の土地を駐車場、貸地などに転用しているのでしょうか。

寺号標

 「準別格本山七寺」と彫られた寺号標になります。
 その寺号標の脇に据えられた名古屋市の案内看板にも「七寺」と書かれていて、「長福寺」という寺名が出てきませんね。

本堂

 空襲で焼失してしまう前までの本尊は阿弥陀如来像だったそうなのですが、現在では焼失を免れた脇侍であった「大勢至・聖観音」の両菩薩が本尊となっています。
 名古屋二十一大師の札所本尊の弘法大師像もこの本堂に奉安されていると思われます。

「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」・・・

豊川稲荷(吒枳尼天)

 本堂から軒続きの様に御堂が設けられており、「吒枳尼天」が奉安されている様です。「豊川稲荷」から分霊を受けて奉安されている様で、豊川稲荷と同じく仏教系のお稲荷様ですが堂前に鳥居が設けられていますね。

大日如来像 

 古写真を見ても、当時の本堂の前に奉安されていた「大日如来坐像」です。由緒の所でアップさせて頂いている「戦前の長福寺の様子」の写真をよく見て頂くと、大日如来坐像が写っているのがわかるかと思います。
 伽藍がほぼ全焼してしまう被害を受けている訳ですから、その本堂前に奉安されていた「大日尿来坐像」が無事なわけがなく、破損してしまったそうです。写真を見て頂くと所々色が変わっているのがわかって頂けるかと思います。色が変わっている所は、戦後、破損してしまった所を銅板で作り直して再びくみ上げた後なんだとか。

参拝を終えて

 赤い鳥居と言えば、「稲荷社」ですが、ここ長福寺の鎮守社の様です。ここ長福寺では仏教系と神道系のお稲荷様両方を参拝する事が出来る訳ですね。

所在地を地図で確認

寺院名稲園山長福寺
所在地愛知県名古屋市中区大須二丁目二八番五号
最寄駅名古屋市営地下鉄 鶴舞線「大須観音駅」2番出口 徒歩5分
名古屋市営バス 「大須バス停」徒歩1分

次の目的地は?

コメント

タイトルとURLをコピーしました