一宮市

阿豆良神社(愛知県一宮市あずら)延喜式内社

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

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ONE POINT

 一宮市あずら一丁目に鎮座する延喜式内社である阿豆良神社の紹介です。伝承では第十一代垂仁天皇の御代に創建されたという愛知県下でも有数の歴史を持つ神社になります。

神社情報

神社名阿豆良神社
鎮座地愛知県一宮市あずら一丁目七番地十九(Googlemap
例大祭十月二十四日
創 建垂仁朝五十七年(28年?)
御祭神天甕津媛命
倭姫命
旧社格郷社
神名帳延喜式神名帳:尾張国丹羽郡 阿豆良神社
尾張国神名帳:丹羽郡従一位 吾蔓明神

境内社

境内社神宮司
国府宮社
津島社
二宮社
一宮社
秋葉社
白山社
天神社
金刀比羅社
熊野社
稲荷社
八幡社
熱田皇太神宮社
天照皇大神宮社

文化財

国 宝
国指定
県指定
市指定
町指定
村指定

参拝情報

御朱印不明
URL
駐車場
参拝日2022年3月23日

御由緒

 創建は第十一代垂仁天皇の御代「垂仁五十六年(29年)」であると伝える。

尾張風土記での伝承

  垂仁天皇の皇子「品津別皇子」は七歳になっても言葉を発する事が出来なかったという。この皇子の状態を憂いていた皇后だったが、ある日の夢に神が現れ神託が下された。「我は多具の国の神で、名を阿麻彌加都比女あまのみかつひめという。我には祭祀してくれる者が未だにいない。もし我のために祭祀者を当てて社を建てて祭るならば、皇子は話すことができるようになるだろう。」

 皇后は、神が求める祭祀者に(日置部の先祖に当たる)建岡の君を指名した。建岡の君は美濃国の花鹿山に行き着き、榊の枝を折り取りかづらに作り「私が作った縵が落ちた所に、必ず神がいらっしゃり、そこに神を祭ろう。」と縵を投げ、落ちた場所に阿麻乃弥加都比女の神がいらっしゃり、この場所に社を建立し神を祀ったという。この社を建立した地を吾鬘(あがかずら)と呼んでいたが時代が下る中で訛って阿豆良(あずら)と呼ぶようになった。

品津別皇子

詠みは「ほむつわけのみこと」。日本書記では「誉津別命」、古事記では「本牟智和気命」と称される皇族であり第十一代垂仁天皇の第一皇子であるという。母は垂仁天皇の皇后「狭穂毘売命さほびめのみこと」。

 母である狭穂姫命は、垂仁天皇4年または5年に起った兄である狭穂毘古による垂仁天皇への叛乱により兄と共に炎に包まれた稲城の中で兄に殉じたという。古事記ではこの燃え盛る稲城の中で「本牟智和気命」が生まれたとし、日本書記ではそれ以前に生まれていたとしている。そして記紀共に皇子は燃え盛る稲城の中から助け出されたとしている。

 品津別皇子は父垂仁天皇の寵愛を受けていたが、成長しても言葉を発することがなく、日本書紀では赤子の様に泣いてばかりだったとしている。しかし、ある日、鵠(くぐい、白鳥を指す)を見た時「是何物ぞ。」と言葉を発し、これをみた天皇は非常に喜び、鵠を捕まえる様に命じた。天湯河板挙が出雲にて鵠を捕まえ、品津別皇子は鵠を遊び相手にすると言葉を発するようになったとしている。この故事から鳥取部、鳥飼部、誉津部が設けられたという。

 ※鳥取部とは朝廷に献上する鳥を捕まえる職業部で、現在の鳥取県に置かれたという。鳥取県の県名の由来はこの鳥取部であるようです。

 尾張風土記では垂仁天皇五十六年に七才になった品津別皇子は言葉を発せず非常に憂いていた皇后の夢に神が現れ神託を下したとなっているのに対し古事記・日本書記では垂仁天皇四年または五年に兄狭穂毘古の叛乱で妹で皇后である狭穂姫命は兄殉じ、亡くなる直前燃え盛る稲城の中で産んだのが品津別皇子であると、その伝承には五十年程ズレが生じています。
 狭穂毘古の叛乱については、古事記の中でも非常に物語性の強い伝承であるとされ、出雲や多田の国の人々が尾張国に移り住む中で伝えられた伝承がその土地に合う様に変化されていった結果なのではないでしょうか。

花鹿山とは

 建岡の君が榊の枝を折り取り縵を作ったするのは美濃国の花鹿山であったと尾張風土記に記載されています。この花鹿山は岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲名礼にあるとし、この地に鎮座する花長上神社の御祭神は阿豆良神社と同じ「天甕津媛命」としている。

 元々の境内地は現在の境内地より北に二町(200m)程のところにあったとされ、旧境内地の場所に石碑が据えられている。

  • 延喜元年(905年):延喜式神名帳に「尾張国丹羽郡 阿豆良神社」と記載。
  • 文治二年(1186年):尾張国神名帳に「丹羽郡 吾蔓名神」と記載。
  • 永禄七年(1564年):織田信長と斎藤龍興との戦いの中、焼失する。
  • 天正十五年(1587年):豊臣秀吉により再建される。

創建は垂仁朝五十六年(29年)と伝う。「延喜神名式」に阿豆良神社「国内神名帳」に従一位阿豆良名神とある古社である。「尾張風土記」に、垂仁天皇に品津別皇子と伝う皇子があったが、生まれつき唖で七才になっても言葉が出なかった。一夜皇后の夢に「私は出雲の阿麻彌加都比女と申す神であるが、今迄誰も祀ってくれないが祠を立てて神に祭るなら、皇子の唖は立ちどころに治り天寿を全うして長生が出来よう。」と申して枕神は消えた。天皇の命を受けた建岡の君は美濃国花鹿山に登って山中の榊で縵(ミズラ古代のカンザシ)を作り、此の縵が落ちた所が神を祭ると申されて投げられたのが、この地に落ちたので直ぐに神殿を造営した。「かずら」がなまって「あずら」となった。永禄年中(1557-79年)兵火に遭ったが天正十五年(1587年)豊臣秀吉、再建する。明治五年九月、郷社に列格。同四十二年四月二十日、同字鎮座の斎宮社を合祀した。昔から見遠き人の信仰あり。

愛知県神社庁発刊「愛知県神社名鑑」

御祭神

  • 天甕津媛命

 多具の国の神・・・明確な場所は不明ですが、一説では出雲国と呼ばれる以前の国名なのではないか伝えられています。実際、阿豆良神社、岐阜県の花長上神社以外は島根県の出雲市から松江市にかけてに鎮座する神社の御祭神であることからも、出雲国周辺の神だったと思われます。

御朱印帳の保管に

 数年前より非常に集める方が増えた「御朱印」ですが、皆様は御朱印帳はどうやって保管していますか?神社・仏閣を廻って御朱印を受けているとあっという間に御朱印帳の冊数が増えていきますが、そのまま棚などに置いている方が多いのでは?。せっかくお受けした御朱印ですので、日本では古くから着物を始めとして大切なものを保管する為に使われていた「桐箱」に入れて保管した方がよろしいかと思います。

 ぜひ、皆様も桐箱に御朱印帳を保管されてみたらいかがですか?

参拝記

名古屋高速一宮東IC近くにある国道41号線「下浅野交差点」を西に進み、「温水プール前交差点」を南に進み、道なりに行くと右手に阿豆良神社の境内が見えてきます。阿豆良神社の参拝者用駐車場が用意されていますので、車で参拝される方も安心して向かう事がdけいます。

境内入口

 都市部によく見られる境内全体を石造の瑞垣で囲んだある意味都市型神社といった雰囲気を感じる阿豆良神社の境内になります。境内入口には社号標、石灯籠一対、石造神明鳥居、その奥に幟掲揚ポールが据えられています。

ポイント

阿豆良神社の境内入口と道を挟んだ対面に石造の常夜燈が一基あります。

 三河地方に住んでいると、こうした常夜燈は当然の如く?秋葉常夜燈だと思ってしまいます。当然参拝したこの日も中々立派な秋葉常夜燈だなと思ってみていたんですが、どうもちがうようです。竿石部分を拡大してみると、

 まさに幕末真っ只中な元治元年(1864年)に奉納された「吾鬘大明神」の常夜燈でした。阿豆良神社は江戸時代には「吾鬘大明神」と称していた様で、尾張国神名帳にもこの名で記載されているのですが、いざ実際に旧社名を目のあたりにすると時代の流れを感じざるを得ませんね。

社号標

 旧社格「郷社」と延喜式内社を示す「式内」が併せて彫られている阿豆良神社の社号標です。下部には宮司の名前を掘った石板を埋め込む窪みが用意されています。現代的に言えばネームプレートを差し込む場所みたいなものですね。

鳥居

 石造の神明鳥居越しに社殿方面を望みます。袖壁(透塀)が設けられた神門の先に社殿が見えない様に設置された蕃塀が見えます。このアングルのこの感じがまさに尾張国の神社様式って感じです。

神門

 薬医門の神門になります。このアングルの雰囲気は巡ってきた神社の中でもかなり上位に入ります。

手水舎

 木造瓦葺四本柱タイプの手水舎になります。水盤は自然石をくり抜いた造りになっています。なぜかピンボケ・・・。

社殿構造物群

当サイトが考える尾張地方神社様式とは?

  • 尾張造の社殿(開放型妻入拝殿、祭文殿、本殿が一列に建つ建築様式)
  • 蕃塀
  • 蝋燭台

愛知県を三河地方と共に構成する尾張地方ですが、この尾張地方に鎮座する神社の建築様式は非常に独特なものとなっています。特に上記3点をすべて網羅した社殿は尾張地方にのみ鎮座していると断言しても過言じゃないと思います。

蕃塀と蝋燭台

 神明造の様な銅板葺きの屋根と左右前後には支え柱となる石柱が特徴的な番兵とそのすぐ裏側の正中部分には石造蝋燭台が据えられていました。この蝋燭台の石袋部分には風よけのガラスがはめられていました。

狛犬

 造り的に平成になってから新たに据えられたと思われる狛犬一対になります。まだ所々塗られた朱が残っています。

社殿

 切妻造瓦葺妻入りの拝殿と平入の祭文殿が一体造となっている現代的な尾張造の社殿になります。瑞垣に囲まれた本殿に向かって渡殿が設けられています。

コラム

 祭式を再興する際問題となるのが「雨」だったりします。開放的な拝殿や祭文殿の造りを見ていると雨の時の祭式は大変だろうなあと思っていました。(実際に尾張造の社殿での祭式を見た事がないのであくまで憶測ですが・・・。)近年、社殿を造営する際、本殿、幣殿(祭文殿)、拝殿を一体型とする社殿とする神社が非常に多いのは、祭式を執り行う際に天候に左右されなくなるいう理由は決して小さくないと思います。こうした事から、妻入り開放型の拝殿と祭文殿の間に露天の渡が設けられていたり祭文殿と本殿の間が露天の祭場となっている事が多いであろう尾張造の社殿も、造営によって一体型の社殿へと変化していくのではないでしょうか。

境内社

 社伝向かって左側に基壇上に鎮座する境内社になります。それぞれ二社ごと相殿となっていて十四社が鎮座しています。

鎮座地を神社で確認

神社名 阿豆良神社
鎮座地愛知県一宮市あずら一丁目七番地十九(Googlemap
最寄駅電車:
バス:

ご自宅にお札は祀られていますか?

実家には神棚はあっても、今お住いの所には神棚がない方も多いかと思います。神棚には、日本の氏神である"天照大御神"とご自身がお住いの氏神様のお札を掲げると御神徳が宿るとされています。
賃貸住宅などに住まわれて簡単に神棚を掲げられないという方もお勧めなのが、

南向き、もしくは東向きになる様に、そして目線の高さより上になる様に、棚などの上において頂くとよいかと思います。是非、皆様もご自宅に神棚をご用意いただき、御札を納めてほしいなと思います。

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