JR東海の東海道本線「共和駅」から南東に7分ほど歩いた場所に建っている大府市立大府北中学校とこの学校の西側に建つ団地あたりにあった「追分城」を訪問します。残念ながら遺構は全くありませんが、永禄二年という織田家と今川家の間の勢力争い真っ只中に築城された城ということで、もっと注目されてもいい城じゃないのかなと思っています。
城郭情報
城名 | 追分城 |
所在地 | 愛知県大府市東新町3丁目地内 |
築城年 | 永禄二年(1559年) |
築城主 | 稲垣淡路守 |
城形式 | 平城 |
遺構 | 無 |
規模 | 南北84メートル・東西66メートル |
備考 |
訪問日:2020年10月21日
沿革・詳細
大府市誌や大府市のHPによると、永禄二年(1559年)に「稲垣淡路守」よって築城されたと言われています。正直な所、稲垣淡路守が織田・水野側の武将なのか、今川側の武将なのかがよく解りません。永禄二年というと、追分城の建つ場所から北側を望めば「鳴海城/紹介記事」や「大高城/紹介記事」は今川家の手中にあり、南を望むと水野家の本城ともいえる「緒川城/紹介記事」や「刈谷城」が建っているというまさに今川家と水野家の最前線ともいえる場所に建てられた城というより砦何だろうと思います。最前線であるということもあって両軍どちら側の砦なのかもよく解りません。
ただ、追分城の跡に参拝する事になっている「藤井神社」や「慈雲山浄通院」は稲垣淡路守によって創建されたと伝えられ、これが現在まで受け継がれているあたり、追分城は水野家側の城郭だったんじゃないのかなと思っています。
そういった場所にあった城ですから、桶狭間の戦いで今川義元が討ち取られ、尾張国から今川家の勢力が一掃されてしまうと追分城も廃城となったとみられています。しかしその後、徳川幕府の時代に入ると、尾張徳川藩の家臣「阿部正興」が四千石の知行を得て追分城跡に屋敷を構えています。廃城となってから40年以上経過しているので、堀や土塁を一部再利用したものだとは思いますが、この阿部氏の屋敷跡の堀や土塁の遺構が昭和30年代頃まではその遺構が残っていたと言います。戦後撮影された航空写真にそれらしき影が映っています。
明治維新にて阿部氏もこの地から去り、屋敷跡も払下げとなり、畑に転用されていたようです。現在では大府市立大府北中学校と写真で見る限り団地が追分城跡に建てられていますね。年代別の地図を見てると戦後の航空写真が撮影された後、中学校と団地を合わせた場所に工場が誘致され、工場が撤退した後、現在の中学校と団地が作られたみたいですね。そら遺構もまったくなくなりますわね。
訪問記
大府市立大府北中学校の正門横の車用の出入り口脇に大府市が設置した追分城の説明看板が据えられています。しかし、この場所に城跡があったと示すものはこの看板のみとなっています。上記の航空写真を見て頂ければわかる様に、当時と思うと大幅に都市化&地形が変わっている様で、まったく当時の状況を窺う事ができないですね。この辺りは都市部にある城跡の共通した問題ですかね。
こうして以降の全く残っていない城跡にもしっかりと遺跡案内板を設置している大府市には好感が持てますね。
地図で所在地を確認
城郭名 | 追分城 |
所在地 | 愛知県大府市東新町三丁目地内 |
最寄駅 | JR東海 東海道本線「共和駅」徒歩7分 |